2022年2月28日月曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (236) 「謎のパーキングエリアっぽい何か」

「ゴージャスな道道 785 号」の「豊幌トンネル」を抜けて幌延町に入りました。
豊富町から幌延町に移動したことになりますが、そう言えばカントリーサインどころか「幌延町」という標識すら見当たりませんね……。

2022年2月27日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (913) 「マクンベツ川・留辺志部川・ノロマナイ沢」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

マクンベツ川

mak-un-pet?
奥・そこにある・川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
上川町の中央部では、石狩川の北側を国道 39 号が東西に通っていて、石狩川の南側を道道 849 号「日東東雲線」が通っています。「マクンベツ川」は道道 849 号の近くを流れているのですが、明治時代の地形図と照らし合わせてみると、どうやら当時の「ペンケフヨマナイ」が、現在の「マクンベツ川」に相当するようにも見えます。

別の地図では「ペンケフヨマナイ」のところに「レーサックナイ」と描かれていました。re-sak-nay は「名前・無い・川」なので、「ペンケフヨマナイ」という川名は割と早いタイミングで忘れ去られていた可能性もありそうですね。

現在の「マクンベツ川」は上川層雲峡 IC の南側で石狩川から取水した水路と合流して、山麓の総水路を経由して「安足間発電所」に向かっているように見えます。

ここまでの流れからは、「ペンケフヨマナイ」と「レーサックナイ」、そして「マクンベツ川」は同一の川であるかのように想像されますが、本来は「ペンケフヨマナイ」と「マクンベツ」は別の川を指していたと思われます。

mak-un-pet は「奥・そこにある・川」と読めるでしょうか。帯広の東に「幕別町」があり、また稚内にも「幕別川」がありました。これらの「マクンベツ」について、山田秀三さんは次のような洞察を行っていました。

道内各地にマクンペッがあったが,その多くは本流から分かれた小分流で,少し行ってまた本流と合している川筋の名である。それを「山側に入っている川」という意でマクンペッと呼んでいた。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.162 より引用)
山田さんが言うには「中洲ができるような分流のことを『マクンペッ』と呼ぶ」ということなのですが、改めて明治時代の地形図を眺めてみると、うわ、確かに現在の上川層雲峡 IC のあたりで石狩川の流れが二手に分かれていますね。石狩川は旭川紋別道の「大雪大橋」の南東で二手に分かれていて、留辺志部川は北側の流れに合流していました。

大正時代の「陸軍図」では、石狩川の「南分流」は完全に姿を消していて、代わりに「眞勲別」という地名が描かれていました。ややこしいことに、現在の「菊水橋」の東で「北分流」が更に南北に分かれていて、北側の流れが大きく描かれています(北側の流路には「渡し船」と思しき描写がある一方で、南側の流路には架橋済み)。この「かつての北分流」の「南分流」も「マクンペッ」と認識されていた可能性があるかもしれません。

明治と大正の地形図を見ても、「ペンケフヨマナイ」と「マクンペッ」が合流していたようには見えないのですが、石狩川の南分流だった「マクンペッ」が消滅後、何故か「ペンケフヨマナイ」という名前を失っていた「名無し川」(レーサックナイ)が二代目?「マクンベツ川」を襲名した……ということになりそうです。

留辺志部川(るべしべ──)

ru-pes-pe
路・それに沿って下る・もの(川)
(典拠あり、類型多数)
石狩川の北支流で、JR 石北本線と旭川紋別自動車道に沿って流れています。「東西蝦夷山川地理取調図」では「ルヘシヘナイ」とあり、丁巳日誌「再篙石狩日誌」には「ルベシベナイ」と記されています。

「留辺志部」は、現在は川の名前と山の名前として残っていますが、かつては上川町の市街地も「留辺志部」と呼ばれていたようです。

 町役場や国鉄石北線の駅のある上川市街は,少し前までは留辺志部と呼ばれていた。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.102 より引用)
陸軍図を見てみると、上川駅前の市街地(現在の「南町」あたり)には「上川」と描かれていて、越路峠の東麓に「留邊志部」と描かれていました。両者の間、現在は小学校や高校があるあたりは 1 区画(545 m)ほどの空白地になっていて、駅前が「上川」で道路側が「留邊志部」と言うように棲み分けができていたのかもしれませんが……。

「留辺志部」の意味するところは明瞭で、永田地名解にも次のように記されていました。

Ru pesh be   ル ペㇱュ ベ   路 北見「ユーペツ」ヘ下ル路
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.47 より引用)
また、知里さんの「上川郡アイヌ語地名解」にも次のように記されていました。

 ルペシペ(Ru-pesh-pe 路が・それに沿うて下つている・者) この語は山を越えて向う側の土地へ降りて行く路のある沢をさす。この沢を越えて北見の「ユーペツ」(湧別川)へ出て行く路があった。留辺志部川。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『上川郡アイヌ語地名解』」平凡社 p.322 より引用)※ 原文ママ
やはり ru-pes-pe で「路・それに沿って下る・もの(川)」と見て良さそうですね。

ちなみに pes の対義語は turasi で、道内には ru-turasi-petru-turasi-nay と言った地名(川名)もあるのですが、「それに沿って下る」と「それに沿って上る」の違いは何なんでしょう。日光の「いろは坂」みたいに上りと下りが別ルートだったりしたら面白いんですけどね。

ノロマナイ沢

noru-oma-nay
熊の足跡・そこにある・川
(典拠あり、類型あり)
旭川紋別自動車道の「天幕大橋」の 400 m ほど東で留辺志部川に合流する南支流の名前です。丁巳日誌「再篙石狩日誌」には言及がありませんが、明治時代の地形図には「ノロマナイ」と描かれていました。

割と珍しい川名に思えますが、知里さんの「上川郡アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 ノロマナイ(Noromanai) 「ノルオマナイ」(Noru-oma-nai 「熊の足跡・ついている・沢」)の縮約形。右,枝川。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『上川郡アイヌ語地名解』」平凡社 p.333 より引用)
noru ですが、「──小辞典」には次のように記されていました。

nó-ru, -ye/-we のル(のール) クマの足跡;クマの路。 [尊い・足跡(路)]
(知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.67 より引用)
手元の他の辞書には no-ru の項は見当たらず、また no- を「尊い」とする記述も見つけられなかったのですが、久保寺逸彦「アイヌ語・日本語辞典稿」に no- を「美称ノ接頭辞」との記述が見つかりました。

改めて他の辞書を見直すと、萱野さんの辞書にも「最も,全く,本当に〔強意〕」とあり、また「アイヌ語千歳方言辞典」にも「強調の意を表す」と記されていました。「尊い」と「最も」ではニュアンスが異なるようにも感じられますが、本質的な根っこの部分は同じと見ることができるのかもしれません。

ということで、「ノロマナイ沢」は noru-oma-nay で「熊の足跡・そこにある・川」と考えて良さそうでしょうか。

美瑛町に「水沢川」という川があるのですが、この川はかつて「ノルアンナイ」と呼ばれていたらしく、「熊の足跡・ある・川」と考えられていたようです。

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2022年2月26日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (912) 「ペーナイ川・パンケフエマナイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

ペーナイ川

pe-nay
水・川
(典拠あり、類型あり)
上川町西部を「安足間あんたろま川」が流れていますが、「ペーナイ川」は安足間川の西支流のひとつです。安足間川にはとても多くの支流がありますが、ペーナイ川は川名が確認できる数少ない例のひとつです。

「東西蝦夷山川地理取調図」にはそれらしき川が確認できませんでした。また丁巳日誌「再篙石狩日誌」や永田地名解にもそれらしき記述を見つけられませんでしたが、明治時代の地形図には「ペーナイ」という川が描かれていることが確認できました。

知里さんの「上川郡アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 ペーナイ(Pé-nai 「水・沢」) 右,枝川。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『上川郡アイヌ語地名解』」平凡社 p.332 より引用)
うーむ。やはりこう解釈するしか無さそうでしょうか。このあたりの安足間川の支流としては他に「ペイトル川」があり、こちらは pe-tuwar-pet で「水・ぬるい・川」ではないかと考えられています。

「ペーナイ川」は pe-nay で「水・川」ではないかとのことですが、この当たり前な感じのするネーミングについて、ちょっと考えてみましょう。

前述の通り、安足間川の支流は数多くあるものの、下流部で安足間川に合流する支流の中では「ペイトル川」の規模(流長)が圧倒的です。そして「ペーナイ川」は「ペイトル川」に次ぐ規模の支流なので(随分と差はありますが)、「ペイトル川」と対比した形の「通り名」があった、と言ったあたりなのかもしれませんね。

パンケフエマナイ川

puy-oma-nay?
エゾノリュウキンカの根・そこにある・川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
国道 39 号の「上川大橋」の近くで石狩川に合流する南支流の名前です。地理院地図では「パンケフエナマイ川」と描かれていますが、旭川紋別自動車道の橋は「パンケフェマナイ橋」となっています(「エ」と「ェ」が異なる)。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「ハンケフヨマナイ」と「ヘンケフヨマナイ」という川が並んで描かれていました。どちらも石狩川の南支流として描かれていて、不審な点は特に見当たりません。

「ペンケ──」が「パンケ──」の支流だったり、南北が違っていたりといった場合は、何らかの誤認があった可能性も考慮しないといけません。

消えた「パンケ」

現在は「パンケフエマナイ川」が存在するものの、「ペンケフエマナイ」らしき名前の川は見当たりません。丁巳日誌「再篙石狩日誌」には、この疑問に答えるかのように、次のように記されていました。

こへて
     フヨマナイ
     ベンケフヨマナイ
二川とも右の方。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.314 より引用)
あれれ。「ハンケフヨマナイ」が「フヨマナイ」にグレードアップ?しています。これは「ヘンケフヨマナイ」よりも「ハンケフヨマナイ」のほうが大規模であると認識されていたのかもしれません。

puy の意味について

知里さんの「上川郡アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 プヨマナイ(Puy-oma-nai 工ゾノリウキンカ・ある・沢)
(知里真志保「知里真志保著作集 3『上川郡アイヌ語地名解』」平凡社 p.319 より引用)
puy-oma-nay で「エゾノリュウキンカの根・そこにある・川」と言うことですね。「パンケフヨマナイ」であれば panke-{puy-oma-nay} で「川上側の・{フヨマナイ}」ということになります。

そういえば puy には違う意味もあったよなぁ……と思って、知里さんの「──小辞典」を確かめてみました。

puy, -e ぷィ ①穴。=suy. ②【シャリ】頭;岬。③こぶ山。
(知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.103 より引用)
そうでした。puy には「穴」という意味もあったのでしたね。simpuy で「湧水の穴」(自然の井戸)という意味の語がありますが、知里さんは simpuypuy が「穴」だったのではないかと見ていたようです。

もちろん続きもありまして、「④」はちと長いので省略しますが、

⑤エゾノリュウキンカ(方言やちぶき)の根。「ぷィタウシナイ」~-ta-us-nay 「エゾノリュウキンカの根を・掘る・習わしになっている・沢」(各地にそういう地名がある)。
(知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.104 より引用)
大トリを飾る形で「エゾノリュウキンカの根」に言及していました。

puysuy

そんなわけで、「パンケフエマナイ川」も上流部に「湧水の穴」があったら面倒なことになるなぁ……と思ったのですが、「アイヌ語方言辞典」によると、旭川のあたりで「穴」を意味する語は suy が優勢のようでした。

山田秀三さんの「アイヌ語地名を歩く」によると、忠別川の近くに「ヤㇺワㇰカシンプイ」という地名があったとのことなので、このあたりでは「穴は puy ではなく sui だった」とは断言できないですが……。

個人的な「感覚」の話で大変恐縮ですが、puy-oma-nay の解釈については念のため「?」を一つだけ残した形とさせてください(puy-ta-us-nay だったら疑問を差し挟む余地は無かったのですが)。

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2022年2月25日金曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (235) 「ゴージャスな道道 785 号」

豊富町本流で道道 121 号「稚内幌延線」が稚内方面に分岐します。1.4 km ほどの重複区間はここで終了です。
左折すると稚内空港方面に戻ってしまうので、そのまま直進して東に向かいます。ここからは二日前に走ったルートを逆走することになりますね。

2022年2月24日木曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (234) 「豊頓橋」

豊富町の「大通 9 丁目」交差点にやってきました。なおこの「大通 9 丁目」は南向きの名前で、北向きは「大通 10 丁目」となります。カーナビによっては「大通 9 丁目、または 10 丁目」という案内をするものもあった……ような気が……。
「大通 9 丁目、または 10 丁目交叉点」を左折して道道 84 号「豊富浜頓別線」に入ります。

2022年2月23日水曜日

「日本奥地紀行」を読む (129) 久保田(秋田市) (1878/7/22~23)

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第二十一信」(初版では「第二十六信」)を見ていきます。

この記事内の見出しは高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。当該書において、対照表の内容表示は高梨謙吉訳「日本奥地紀行」(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元にしたものであることが言及されています。

郊外の住宅

神宮寺(大仙市)から久保田(現在の秋田市)まで、雄物川を舟で下るという大技を決めたイザベラは、秋田市南西部の「新屋」にやってきました。

岸辺は静かで美しく、ほとんど人影もなかったが、やがて新屋アラヤという大きな町に着いた。この町は、高い土手に沿って相当長くだらだらと続いている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.252 より引用)
現在の「新屋」は雄物川の河口付近の市街地ですが、雄物川の放水路が開通したのは 1938 年とのことで、イザベラが見たのは放水路ができる前の町並みだったことになります。放水路ができる前の地図を見た限りでは「相当長くだらだらと続いている」と言うほどのものでも無いようにも思えますが、集落の北半分は川沿いに形成されていたように見えます。

九時間の平穏な旅の後に、私たちは、ちょうど久保田クボタの郊外のところで雄物川の本流からそれて、狭い緑色の川をさおを使って進んだ。川の縁には、家屋の傾いた裏側や船製造所や多くの材木が片側に並び、住宅や庭園、茂った草木が反対側に続く。この川には非常に多くの橋がかけられている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.252 より引用)
これは現在の「新川橋」の手前で東に向かったと考えて良いでしょうか。その先は「太平川」を東に遡った可能性もありますが、「非常に多くの橋がかけられている」というところから市街地を南北に縦断している「旭川」を遡ったのではないかと考えたくなります。

究極の HP 回復アイテム

いつも強烈な宿を引き当てる豪運ぶりには定評のあるイザベラですが、久保田(秋田)では珍しく「あたり」を引いたようです。

 私はたいそう親切な宿屋ヤドヤで、気持ちのよい二階の部屋をあてがわれた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.252 より引用)
そしてイザベラはここで起死回生のアイテムを手に入れます。

「西洋料理」──おいしいビフテキと、すばらしいカレー、きゅうり、外国製の塩と辛子がついていた──は早速手に入れた。それを食べると「眼が生きいきと輝く」ような気持ちになった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.252 より引用)
「なんと大げさな……」と思われるかもしれませんが、当時は「壊血病」や「脚気」などのビタミン欠乏症の原因が知られていなかったということを忘れてはいけません。イザベラが幾度となく「肉」を求めたのは、旅行中の粗食では何らかの栄養素が補えていなかった可能性があったのではないでしょうか。

久保田病院

イザベラは久保田(現在の秋田市)で 3 日を過ごすことになりますが、その滞在はとても快適で楽しいものだったようです。久保田(秋田)の町については次のように記していました。

 久保田クボタ(現在の秋田市)は秋田県の首都で、人ロ三万六千、非常に魅力的で純日本風の町である。太平山タイヘイサンと呼ばれるりっぱな山がその肥沃な流域の上方に聳え、雄物川はその近くで日本海に注ぐ。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.253 より引用)
現在の秋田市の人口は約 30.5 万人で、秋田県の人口が約 94.5 万人ということですから、県内人口の約 3 割が秋田市民ということになるでしょうか。太平山(標高 1170.4 m)は飛び抜けて大きな山では無いですが、市街地を囲む山に限定して考えるならば、三方向に尾根が伸びる山容はとても雄大なもので、イザベラが「りっぱな山」と評したのも頷けます。

青と黒の縞や、黄色と黒の縞の絹物を産する。これでハカマ着物キモノを作る。また横糸を盛りあげた一種の白絹のクレープは縮緬(チリメン)として東京の商店では高値を呼ぶ。またフスマや下駄を生産する。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.253 より引用)
イザベラは久保田(秋田)のことを「商売が活発」で「活動的」と記していますが、当時は絹織物の流通量が多かったということでしょうか。「白絹のクレープ」は原文では silk crepe となっていて、和訳すると「縮緬」とのこと。あー、なるほどこれでは和訳するわけにはいきませんね……。

城下町ではあるが、例の「死んでいるような、生きているような」様子はまったくない。繁栄と豊かな生活を漂わせている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.253 より引用)
イザベラは、最近だと新庄(山形県)のことを「衰微すいびの空気が漂っている」と評していましたね。また湯沢(秋田県)についても「特にいやな感じの町である」と記していましたが、久保田(秋田)についてはこういった停滞感が全く感じられない、と認識していたようです。

商店街はほとんどないが、美しい独立住宅が並んでいる街路や横通りが大部分を占めている。住宅は樹木や庭園に囲まれ、よく手入れをした生垣がある。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.253-254 より引用)
「商店街はほとんどない」というのは新潟と比較してのことでしょうか。イザベラは美しい住宅が立ち並ぶのを見て「中流階級」の存在を見て取った、と記しています。

「書面が無いなら書かせればいいじゃない」

また、これまで見てきた *都市* である「横浜」や「新潟」とは異なり、

外国の影響はほとんど感じられない。この県の役所にも他の仕事にも、外国人は一人もいない。病院でさえも、初めから日本人の医師たちが作ったものである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.254 より引用)
外国の影響が殆ど見られないところに感心しているように見えます。イザベラは久保田(秋田)が「外国人抜き」で繁栄しているように見えることに興味を抱いた……ということでしょうか。

イザベラは羽後街道沿いを北上する途中で二度ほど「若い医師」と会話を交わしていますが、この「若い医師」から勤務先(病院)を訪問するように招待を受けていました(この際に「西洋料理店」の情報も合わせて聞いていたんでしたね)。

事前に招待されていたということもあり、いそいそと病院見学に向かったところ……

 この事実から、どうしても病院を見たいと思ったが、訪問の時間にそこを訪ねたら、院長から丁寧に断られて、弱ってしまった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.254 より引用)
院長が言うには、知事から書面で許可を得る必要があるとのこと。もちろんイザベラ姐さんはこの程度で引き下がる人ではありません。「書面が無いなら書かせればいいじゃない」ということで、伊藤(通訳)を伴って手続きに出かけます。

伊藤は、程度の低い命令のときには通訳するのをしぶるが、このような重大な場合に臨むと全力をあげる。彼は絹の着物を着て「通訳官」にふさわしいりっぱな姿となって私に同行し、今までにない働きぶりを見せた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.254 より引用)
イザベラは伊藤が各種の経費をピンハネしていることにも気づいていて、また「見栄っ張り」な一面があることも認識していましたが、ここぞと言うときの大仕事をそつなくこなす有能さにも一目を置いていたことが窺えます。

狐と狸の化かし合いという側面もありますが、一蓮托生で持ちつ持たれつの間柄に(いつの間にか)なってしまった……ということなんでしょうね。「この怪しい若造が……」と思っていたかもしれませんが、いえいえイザベラ姐さんも十分怪しいですから(ぉぃ)。

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2022年2月22日火曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (233) 「青看板、2 km 先にも青看板」

道道 1118 号「兜沼停車場線」の終点が見えてきました。これで道道 1118 号は完全走破……ではなくて、兜沼郵便局の前あたりをあと 180 m ほど走れば完全走破ということになりますね(ちょっと惜しいことをしたような)。
終点の T 字路には青看板が立っているのですが、「稚内」「豊富」ではなく「稚内市」「豊富町」なのが変わっていますね。

2022年2月21日月曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (232) 「3 つの『兜沼停車場線』」

道道 510 号「抜海兜沼停車場線」(道道 616 号「上勇知兜沼停車場線」との重複区間)をを南下して豊富町に入りました。カントリーサインには、足を滑らせてサロベツ原野の沼にハマってしまって助けを求める牛がデザインされています(違います)。
ここは稚内市と豊富町の境界ですが、分水嶺っぽい雰囲気はありません。

2022年2月20日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (911) 「エチャナンケップ川・クツウンベツ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

エチャナンケップ川

e-chi-nanke-p??
頭・自ら・削る・もの
(?? = 典拠あるが疑問点あり、類型未確認)
上川町の市街地の北東には「留辺志部山」が聳えていて、留辺志部山と西にある「江差牛山」の間の鞍部に「越路峠」があります。「エチャナンケップ川」は留辺志部山から江差牛山の北側を流れる川の名前で、石狩川の北支流です。

「イチナンケフ」と「イチラシケ」

「東西蝦夷山川地理取調図」には「エシヤウシ」という名前の川が描かれていました(これは現在の「江差牛山」の元の形でしょうか)。そして気になる点として、現在の愛別町のあたりに「イチナンケフ」という *南支流* が描かれています。

これは現在の「エチラスケップ川」のことと考えられますが、実際のエチラスケップ川と比べて異様に大きく描かれている上に、上流部には「ホンイチナンゲフ」「ホリヲシマコマナイ」「シノマンイチナンゲフ」と言った支流が描かれています。エチラスケップ川も上流部はいくつかに枝分かれしているので間違いでは無いのですが、他の川と比較して見てみると、やはりスケールがおかしいように思えてなりません。

ただ、丁巳日誌「再篙石狩日誌」には「エチラスケップ川」に相当する川の記録として次のように記されていて……

此筈原を分て行こと凡十丁計にて
     イチラシケ
川すじに出るなり。此処より本川端まては十丁も有と聞り。川すじに出るなり。川巾五六間、水消く、桃花魚・雑喉多し。依て此処にて宿さんとて、形計の丸小屋を懸て宿するに、
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.310 より引用)
そしてしばらく後には次のように記されていました。

また少し奥に当りて
     ホ リ ヽ
左りの方小川、両岸峨々として見ゆるなり。
     シユマチシユシユ
右の方小川、此辺両岸少し平地の様に見ゆる也。
     イチナンケ
     エシヤウシ
二川とも左りの方、柳原なり。しばし行て
     アンタラマ
川巾相応に見えけるなり。此川石カリ岳より落来るよしなり。其川の奥は見えかたし。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.313 より引用)
これらの記録から ①「イチラシケ」(=エチラスケップ川)と「イチナンケ」(=エチャナンケップ川)は異なる川である、そして ②「イチナンケ」(=エチャナンケップ川)と「エシヤウシ」も異なる *川* である、ということがわかります。

現在の「エチャナンケップ川」と「エチラスケップ川」の規模は 5:1 くらいに見えますし、「エシヤウシ」らしき川に至ってはエチャナンケップ川の 1/10 くらいの規模に見えます。

ところが「東西蝦夷山川地理取調図」には最も規模が大きい筈の「イチナンケ」(=エチャナンケップ川)が描かれておらず、代わりに「イチラシケ」(=エチラスケップ川)が巨大に描かれています。「再篙石狩日誌」にはどちらの川も概ね正確に記録していたものの、「東西蝦夷──」を作図する際に両河川を誤って同一視してしまったと言うことでしょうか。

「イチナンケ」の解釈

どうやら「エチャナンケップ川」は「イチナンケ」らしいということが見えてきましたので、永田地名解を見ておきましょうか。

Echi nangep  エチ ナンゲㇷ゚  ?
Esha ushi    エシャ ウシ   ?
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.47 より引用)
伝家の宝刀は今日も切れまくりですね。ということで知里さんの「上川郡アイヌ語地名解」を眺めてみたのですが、なんと「エチャナンケップ川」の記載がありません(!)。「上川郡アイヌ語地名解」はかなり小さな川までカバーされている印象があるのですが、時折「えっ」と思える川が漏れていたりするんですよね。

山田秀三さんの「北海道の地名」には次のように記されていました。

 むりに似た字を並べると,例えば e-cha-nanke-p (そこで・柴を・刈る・処) ともなりそうだが全く当て字に過ぎない。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.101 より引用)
ありそうな仮説ですが、松浦武四郎は「イチナンケ」と記録していて、永田方正も「エチ ナンゲㇷ゚」と記録しているので、ここは素直?に e-chi-nanke-p で「頭・自ら・削る・もの(川)」と考えられないでしょうか。

以前は「水源部のがけ崩れが多い川」と考えてみたのですが、むしろ「越路峠」のあたりの地形を指して、「『頭』(=江差牛山)を削る川」だったのではないかと思い始めています。

e-{chi-nanke}-p は「頭・{削れている}・もの」と解釈するのがより適切かもしれませんが、これだと(川ではなく)山の名前っぽくなるんですよね。

クツウンベツ川

kut-un-pet
岩崖・ある・川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
エチャナンケップ川の北支流の名前です。上流部は「クツウンベツ支川」や「火滝ノ沢」と言った支流があり、地形図ではどちらの川沿いにも崖が存在するように描かれています。

クツウンベツ川も、エチャナンケップ川と同様に「東西蝦夷山川地理取調図」には描かれていません。ただ明治時代の地形図には「クツウンペツ」という名前で描かれていたので、当時から現在とほぼ同じ名前で認識されていたと見て良さそうです。

知里さんの「上川郡アイヌ語地名解」にも「クツウンベツ川」は記載がありませんが、「愛別川筋の地名」として次のような川がリストアップされていました。

 クトゥン・アイペツ(<kut 「岩崖」 un 「へ行く」 Aipet 「愛別川」)
(知里真志保「知里真志保著作集 3『上川郡アイヌ語地名解』」平凡社 p.332 より引用)
残念なことに、この「クトゥン・アイペツ」の詳細については良くわかりませんが、「マタルクシ・アイペツ」と「ルベシベ」の間に記されているので、もしかしたら現在「鉱山の沢」あるいは「藤次郎の沢川」と呼ばれている川のことかもしれませんし、あるいは「熊の沢川」のことかもしれません。

「クツウンベツ川」も謎の「クトゥン・アイペツ」と同様に kut-un-pet で「岩崖・ある・川」と見て良いかと思われます。そう考えないと伏線が回収でk

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2022年2月19日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (910) 「ポリショップ川・老根内・辺恵山」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

ポリショップ川

ho-rir-o-p??
尻(河口)・波・そこにある・もの(川)
(?? = 典拠あるが疑問点あり、類型未確認)
愛別町の国道 39 号は「中愛別橋」で石狩川の南岸に渡りますが、橋の手前(北側)で道道 640 号「中愛別上川線」が分岐しています。この道道 640 号ですが、国道 39 号が開通する前は愛別町と上川町東部を結ぶメインルートでした。

「ポリショップ川」は石狩川を道道 640 号「中愛別上川線」沿いに 0.5~0.6 km ほど遡ったところを流れています(北支流)。まるで警察グッズを販売してそうな川名ですが……。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「ホリヽ」という名前の川が描かれていました。また丁巳日誌「再篙石狩日誌」には次のように記されていました。

少し奥に当りて
     サ ン
此処にて則両岸ヒラなり。サンは則橋のことなり。渇水の頃は土人等此下をわたるよし。然し此頃はサンケソマナイまで来りしものも両三人ならでなし。また少し奥に当りて
     ホ リ ヽ
左りの方小川、両岸峨々として見ゆるなり。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.313より引用)
この「サン」は「石垣山」のことのようで、そう言われてみれば右も左も「崖」状の地形と言えそうですね。ただ崖と崖の間にそこそこ平地があるので、断崖絶壁に囲まれたという印象はそれほどありません。

そしてこの「ホリヽ」が「ポリショップ」の前身っぽいのですが、明治時代の地形図には「ホリレプ」と描かれていました。どうやら「レ」を「シ」と読み間違えてしまって、サービス精神旺盛な人がついでに「ョッ」を追加してしまった……と言ったところでしょうか。警察手帳や拳銃が売られていたらどうしようかと思ったのですが、どうやら杞憂に終わりそうですね。

上川郡の川名と言えば、知里さんの「上川郡アイヌ語地名解」というリファレンスがあるので大変助かるのですが、何故か「ポリショップ川」あるいは「ホリレプ」については記載がありません。永田地名解には記載があるのに、何故「上川郡──」に記録されなかったのでしょう……?

仕方がないので、我らが永田地名解の記述を見てみたところ……

Horerep  ホリレㇷ゚  ?
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.47 より引用)
例によって例のごとく、伝家の宝刀「?」が炸裂しまくっていました。

どうやら「ポリショップ」よりも「ホリレㇷ゚」のほうが元の地名(川名)に近そうですが、これは ho-rir-o-p で「尻(河口)・波・そこにある・もの(川)」あたりでしょうか。「合流点がいつも波立っている川」と言ったところかと思うのですが……。

なお、知里さんの「動物編」によると {o-rir-o-kamuy} で「シマヘビ」を意味するとのこと(逐語解では「背面に・波・ついている・神」)。もしかしたら実際にシマヘビがいたのかもしれませんし、あるいはシマヘビのような特徴を有した川だった可能性もあるかもしれません(たとえば地層がシマヘビを思わせる模様で露出している、など)。

老根内(らうねない)

rawne-nay
深い・川
(典拠あり、類型あり)
国道 39 号の「中愛別橋」の北東、ポリショップ川と石狩川の合流点の北に標高 456.2 m の三等三角点があります。「老根内」は「らうねない」と読ませるようですが、旧仮名遣いをそのまま現代風に読むようで面白いですね。

「老根内」三角点の北西にちょっと深めの谷があり、この谷を「ローネナイ川」が流れているとのこと。こちらは「らうねない」を現代仮名遣い風に改めたようですね。

「東西蝦夷山川地理取調図」や丁巳日誌「再篙石狩日誌」には該当しそうな川は描かれていませんが、明治時代の地形図には「ラウ子ナイ」という名前の川が描かれていました。

知里さんの「上川郡アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 ラウネナイ(Ráune-nai 深い・沢) 細い深く掘れている沢。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『上川郡アイヌ語地名解』」平凡社 p.3222 より引用)
やはり rawne-nay で「深い・川」と考えて間違い無さそうでしょうね。

アイヌ語の地名で「深い」を意味する場合、rawneooho を必要に応じて使い分けることになります。ooho は「水かさが深い」という意味で、今回の rawne は「深く掘れた」と言った意味だとされます。「ローネナイ川」は山の間の深い谷を流れているので、rawne と表現するのが適切なんでしょうね。

辺恵山(ぺんけやま)

penke-mem-nay
川上側の・泉池・川
(典拠あり、類型あり)
「老根内」三角点の北東に位置する、標高 715.3 m の山の名前です。頂上には同名の三等三角点がありますが、こちらは「ぺんけいやま」と読むのが公式とのこと。

山の北西には「ペンケメムナイ川」が流れていて、また南西には「ペンケメムナイ支線川」が流れています。「東西蝦夷山川地理取調図」には「ハンケナイ」という名前の川が描かれていますが、明治時代の地形図では既に「ペンケメムナイ」となっていました。麓を流れる川の名前を山名に転用したと見て良さそうでしょうか。

永田地名解には次のように記されていました。

Penke mem nai  ペンケ メㇺ ナイ  上池川
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.47 より引用)
また「上川郡アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 ペンケメムナイ(Penke-mem-nai 川上の・泉池・川)
(知里真志保「知里真志保著作集 3『上川郡アイヌ語地名解』」平凡社 p.3222 より引用)
これもやはり penke-mem-nay で「川上側の・泉池・川」と解釈して良さそうですね。

愛別町には「パンケトウ」と「ペンケトウ」という沼がありますが、これは町の北部を流れる「狩布川」の源流部にあります。また愛別川の支流の「パンケ川」を遡ると、比布町との境(町の北西)に「班渓山」が聳えています。これらの「パンケ」「ペンケ」と区別するために mem を付け加えた……と言ったところでしょうか。

パンケメムナイ川とペンケメムナイ川は、どちらも扇状地っぽい地形を流れているので、扇端に相当するエリアでは湧き水が豊富にあるのかもしれません。

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2022年2月18日金曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (231) 「『牛横断注意』の謎」

道道 510 号「抜海兜沼停車場線」は、抜海駅の南でしばらく宗谷本線と並走します。前日に列車の車窓から眺めた道路を、今度は実際に走行することになりますね。
並走区間を過ぎたところで、「牛横断注意」の標識を見かけました。

2022年2月17日木曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (230) 「道道 510 号『抜海兜沼停車場線』」

道道 106 号「稚内天塩線」の海沿い区間を走ります。人の気配が希薄な原野の中を一直線に突っ切るというのは、実に素晴らしいですよね……。
……と思っていたら早速人の気配が。ここからノシャップ岬に向かうのでしょうか。

2022年2月16日水曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (229) 「道道 106 号『稚内天塩線』」

道道 106 号「稚内天塩線」で抜海方面に向かいます。道道の左側には住宅地が広がっていて、地元民のオアシスに言えそうなセイコマの店舗も見えます。
「環状線」との交叉点を過ぎたあたりから、ようやく道道は峠越えの道らしくなります。

2022年2月15日火曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (228) 「稚内副港市場」

例の跨線橋……道道 106 号「稚内天塩線」沿いにある「稚内港郵便局」の手前の交叉点から JR をオーバークロスして国道 40 号南行きに合流する跨線橋のことなのですが、簡潔かつ的確な表現が見当たらず、意味不明な符丁を使うことをご容赦ください……を渡って国道 40 号に合流しました。
そして前方に JR 宗谷本線の巨大な高架橋が見えてきました。……どう考えても位置関係がおかしいのですが、ちょいと寄り道しようと「副港通」を北に向かって引き返したのです。

2022年2月14日月曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (227) 「例の跨線橋」

「稚内公園」から道道 254 号「抜海港線」に戻る阪を下ります。このあたりは急坂ならでは?のコンクリート舗装です。
ヘアピンカーブを抜けると、前方に「ANA クラウンプラザホテル稚内」(当時)の建物が見えてきました。高さがあるのでランドマークとして重宝しますね。

2022年2月13日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (909) 「西南真布・尻矢内・奔当麻内」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

西南真布(せいなんまっぷ)

sinoman-oma-p???
本当に山奥に行っている・そこにある・もの(川)
(??? = アイヌ語に由来するかどうか要精査)
黒岩山の東北東、ポン牛朱別川とイチャンナイ川の間の標高 323.4 m の三等三角点の名前です。陸軍図を見てみると、道道 486 号「豊田当麻線」の当麻町と旭川市の境界付近に「西南眞布」という地名が描かれていました。この「西南眞布」には、面白いことに「セイナンマップル」というルビが振られています。

この「西南真布」という地名ですが、「精南真布」という名前で比較的最近まで残っていたようです(1980 年代の「土地利用図」には「精南真布」の文字が見えます)。

「ポン牛朱別川」=「精南真布川」?

「北海道地名誌」には次のように記されていました。

 ポンウシベツ川 市街の東南で牛朱別川に入る小川。もと精南真布川と呼んだという。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.315 より引用)
これは現在の「ポン牛朱別川」を指していると考えられます(「ポンウシベツ川」は旭川市内を流れる別の川なので)。それにしてもこの「ポン牛朱別川」、地図によって「ルウプ子マップイセ」だったり「ヌプリエカリヤムナイ」だったり「精南真布川」だったり……良くわからなくなりますね。

幻の「シノマンオマプ」説

本多貢「北海道地名分類字典」には次のように記されていました。

精南真布(せいなんまっぷ、上川かみかわ当麻とうま町の地名)シノ sino・マン man・オマ oma・プ p=本当の・山奥へ行く・にある・もの(川)(知里『旭川市史』)。牛朱別うししゅべつ川の本流を指す(栃木)
(本多貢「北海道地名分類字典」北海道新聞社 p.113 より引用)
「知里『旭川市史』」とあるのは「上川郡アイヌ語地名解」のことですが、「牛朱別川筋の地名」には「シノマンオマプ」という川の記録はありません。最も近そうなものとしては以下のものがありますが……

 シノマン・ウシシペツ(Shinoman-Ushishpet 「ずつと行つた・牛朱別川」)牛朱別川の最上流の義。
知里真志保知里真志保著作集 3『上川郡アイヌ語地名解』」平凡社 p.331 より引用)※ 原文ママ
これを「シノマンオマプ」と読み替えたのかと考えてみたのですが、「シノマンウシヽヘツ」は「東西蝦夷山川地理取調図」にも描かれている川で、「東西蝦夷──」での位置関係からは「キンクシウシヽヘツ」から見て上流部の支流(または源流)の名前だと考えられます。

出典無効?

明治時代の地図からは、現在「石渡川」と呼んでいる川が「キンクシウシヽヘツ」だったと見られることから、「シノマンウシヽヘツ」は「大沢ダム」のある、牛朱別川の源流部の名前だったと考えるのが自然です。

明治時代の地形図には「キンクシウシシュペツ」や「イサオマンウシュペツ」、「エラマンテウシュペツ」などの支流が描かれていますが、いずれも「ポン牛朱別川」ではなく「牛朱別川」の支流です。「シノマンウシシペツ」だけが「ポン牛朱別川」の源流部の名前だったと考えるのは不自然ですし、また「牛朱別川の本流を指す」としたなら「精南真布」からはかなり場所が離れてしまいます。

要は「北海道地名分類字典」の「精南真布」の項は、随分と当てにならない……という話です。ありもしない内容を「知里『旭川市史』」が出典であるかのように記述するのは勘弁してほしいですね……。

結局「シノマンオマプ」しか無いのか

「それで『西南真布』はどういう意味なんだ?」と言う話なのですが、sinoman-oma-p で「本当に山奥に行っている・そこにある・もの(川)」と言う考え方そのものは、可能性のある仮説として残りそうに思っています。

あともう一つ、これは荒唐無稽な考え方かもしれませんが、「西南真布」から *南西* に向かうとペーパン川筋に出られるんですよね。そして「西南真布」に振られた「セイナンマップ」というルビからは「西南・そこに入る・もの(川)・路」という滅茶苦茶な解釈もできてしまうのではないか……という。明治以降に考案された、和語・アイヌ語折衷の地名?だったりしないかなと。

尻矢内(しりやない)

sir-enkor-yam-nay??
山・崎・冷たい・川
(?? = 典拠あるが疑問点あり、類型未確認)
かつて「シノマンウシシペツ」と呼ばれていたのではないかと思われる「牛朱別川」上流部には「大沢ダム」というダムがあるのですが、大沢ダムの東南東に「尻矢内」という名前の三等三角点があります(標高 467.7 m)。この三角点は 1916 年(大正 5 年)に設置されたもので、当時このあたりに「尻矢内」と呼ばれる地名(または川名や山名など)があったことを窺わせます。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「キンクシウシヽヘツ」(=石渡川)と「シノマンウシヽヘツ」(=牛朱別川源流部と推定)の間には川が描かれておらず、「尻矢内」の由来と考えられそうな川は見当たりません。ただ明治時代の地形図を見てみると、「大沢ダム」の南西に「シリ?コヤムナイ」という川が描かれていました。

已むを得ず(ぉ

「シリンコヤムナイ」であれば、sir-enkor-yam-nay で「山・崎・冷たい・川」と読めるでしょうか。ただ yam がちょっと厄介で、yam-petyam-nay という名前は本来ありえないという指摘もあります(「川が冷たい」ではなく、「水が冷たい川」とあるべきだ、という)。

また「冷たい」を意味する yam は道北から道東にかけて使われる語で、道央から道南では yam ではなく nam が使われます。道央から道南では yam は「栗(の実)」を意味するので、仮に yam だとした場合、「冷たい」のか「栗(の実)」なのかを推量する必要も出てきます。

このあたりでは puyse という語が使われていた可能性があるのですが、puyse は宗谷地方や樺太で使用例が記録されているため、yam も道北の流儀で「冷たい」かな、と考えてみました。yam-nayyam(-wakka)-nay だったと考えれば筋道は通せるかな、と……。

奔当麻内(ぽんとうまない)

pon-{to-oma-nay}
小さな・{当麻川}
(典拠あり、類型あり)
(現時点では)旭川も紋別も通らないことでお馴染みの「旭川紋別自動車道」ですが、実は当麻町内を 1.6 km ほど通っています。全区間が「愛別トンネル」の中なので、ほぼ認識することは無さそうですが……(カントリーサインの有無が気になってきました)。

旭川紋別道の「愛別トンネル」から 500 m ほど南、愛別町との境界にほど近いところに「奔当麻内」という名前の三等三角点があります。この三角点が設置されたのも 1916 年とのことで、この名前も当時の川名に由来しそうです。

当麻川の上流部(道道 140 号「愛別当麻旭川線」からも見えた筈)に「当麻ダム」があるのですが、ダムの上流(愛別飛行場跡の南)で「ミヤシタ川」という川が合流しています。明治時代の地形図を見てみると、この「ミヤシタ川」に相当すると思われる位置に「ポントオマナイ」と描かれていました。

由来のスッキリしない三角点名が続きましたが、この「奔当麻内」は pon-{to-oma-nay} で「小さな・{当麻川}」と考えて良さそうですね。「小さな当麻川」としましたが、「支流である当麻川」と読み替えるとより適切に理解できると思います。

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2022年2月12日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (908) 「幸見内・留府内・雲内山」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

幸見内(こうみない)

ku-oma-i?
仕掛け弓・そこにある・もの(川)
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
牛朱別うしゅべつ川の南、旭川市と当麻町の境界にほど近いところにある標高 218.7 m の三等三角点の名前です。地理院地図で見ると旭川市側にあるように見えますが、実際には当麻町内に位置するとのこと(但し現地に辿り着くには旭川市側の斜面を歩いて登る必要がありそうです)。

明治時代の地形図を見ると、「クオーナイ」という名前の川が描かれています。この「クオーナイ」は三角点の東側に相当する場所を流れているので、おそらく三角点の名前もこの「クオーナイ」に由来すると考えて良いのでは、と思われます。

この「クオーナイ」は「東西蝦夷山川地理取調図」や丁巳日誌「再篙石狩日誌」には記載がありませんが、知里さんの「上川郡アイヌ語地名解」に次のように記されていました。

 クオナイ(Ku-o-nai 「仕掛弓・多くある・沢」)
(知里真志保「知里真志保著作集 3『上川郡アイヌ語地名解』」平凡社 p.330 より引用)
やはり ku-o-nay で「仕掛け弓・多くある・川」と考えて良さそうですね。「仕掛け弓」は木と木の間に糸を張って、獲物が糸を引っ掛けたら自動的に毒矢が放たれるというハイテク狩猟装置のことです。間違えて人が罠を踏み抜いたら大変なことになるので、注意喚起の意味でそう呼ばれた……と言ったところなのでしょうね。

「ミ」はどこから出てきた?

ただちょっと気になるのが「クオナイ」と「コウミナイ」の違いで、特に「ミ」がどこから現れたのか、そのメカニズムが明確ではないところです。改めて「東西蝦夷山川地理取調図」を眺めてみると、「トウマ」(=トオマナイ、現在の「当麻川」)の西に「カヲムイ」という北支流が流れていたことになっています。

明治時代の地形図に描かれた「クオーナイ」は南支流で、しかも「トオマナイ」よりも東で「ウシシユペツ」に合流しているので、「カヲムイ」と「クオナイ」を同一の川と見ることは(普通は)無理があります。しかし「東西蝦夷──」には「トウマ」の東に「ヌホロマ」という川が描かれていることに気づきました。

この「ヌホロマ」が「ヌプポロマナイ」(または「ヌポロマナイ」)のことであれば、「ヌプポロマナイ」は現在の「神水川」相当の位置を流れていたことになるので、「東西蝦夷──」の「トウマ」と「ヌホロマ」の位置関係は逆だったことになります。端的に言えば「この辺の『東西蝦夷──』はちょっと怪しい」ということになりますね。

ということで、「カヲムイ」が牛朱別川の北支流ではなく南支流だったとすれば、「幸見内」という三角点の名前の由来と考えて良さそうな気がします。ku-oma-i で「仕掛け弓・そこにある・もの(川)」と読めそうですね。これが ku-oma-nay に変化して「幸見内」という字が当てられた、と言ったところでしょうか。

留府内(るっぷない)

{rupne-mat}-puyse??
老婦人・霧
(?? = 典拠あるが疑問点あり、類型未確認)
牛朱別川の南支流(東支流)に「ポン牛朱別川」という名前の川があり、当麻の市街地の南南東あたりで合流しています。道道 486 号「豊田当麻線」が「東協和橋」でポン牛朱別川を渡っていますが、この橋から見て北東に標高 195.9 m の小ぶりな山があります。この 195.9 m の三等三角点の名前が「留府内るっぷない」です。

どことなく島根県の「十六島うっぷるい」を彷彿とさせる名前ですね。

この「ポン牛朱別川」という川名もちょいと注意が必要で、「東西蝦夷山川地理取調図」には「ホンウシヽヘツ」という名前の川が描かれていますが、これは旭川市内を流れる「ポンウシベツ川」と呼ばれる川のことだと考えられます。

では現在の「ポン牛朱別川」はどう呼ばれていたのか……という話ですが、明治時代の地形図では「ルウプ子マップイセ」という名前で描かれていました。なるほど、これなら「るっぷない」と化けたのも理解できそうです。

問題は「ルウプ子マップイセ」をどう解釈したものか……という点です。{rupne-mat} は「{老婦人}」で puyse は「」あるいは「」と言ったところなのですが、「老婦人の霧」というのは地名としては類型が無く、かなり意味不明な感じがします。

無理やり解釈をこじつけるならば、牛朱別川を {rupne-kur} で「年長者」と呼ぶ流儀があって、そのパートナーとして {rupne-mat} で「老婦人」と呼んだ「ポン牛朱別川」は霧が多かったので {rupne-mat}-puyse と呼んで区別した……とかでしょうか。これは全くの想像でしか無いですが……。

ちなみにこの「ルウプ子マップイセ」ですが、知里さんの「上川郡アイヌ語地名解」にも記録がありません。明治時代の地形図以外には見かけない名前なので、何かの間違いかもしれないなぁ……と思ったりもしたのですが、「留府内」という三角点名が現存することで「ルウプ子マップイセ」の実在が証明された?と言ったところでしょうか。

とりあえず {rupne-mat}-puyse で「老婦人・霧」と呼ばれる川?があり、それが rupne-nay で「年長の・川」に略されたと解釈するしか無さそうですね……。

知里さんの「──小辞典」では、rupne は「大きくアル(ナル)」と言う意味だとされていますが、中川先生の「アイヌ語千歳方言辞典」では「体が大きい。粒が大きい。年齢が高い」という 3 つのパターンが併記されていました。地名では onne(年長の)を「大きい」という意味で使用することがあるため、ちょうど逆のパターンのように思えます。

雲内山(うんないやま)

ichan-un-nay???
鮭鱒の産卵場・ある・川
(??? = アイヌ語に由来するかどうか要精査)
「留府内」三角点の南、「幸見内」三角点の東南東に「黒岩山」という標高 481.7 m の山があるのですが、何故かこの山の頂上に「雲内山うんないやま」という名前の三等三角点があります。山名と三角点名が一致しないケースは、実は結構あるっぽいですね。

「雲内山」三角点のある「黒岩山」山頂の西には谷が伸びていて、明治時代の地形図ではこの谷を「イナンウンヤ?イ」あるいは「イチャニウㇱュナイ」という川が流れていたことになっています。

知里さんの「上川郡アイヌ語地名解」では、次のように記されていました。

 イチャヌンナイ(Ichan-un-nai 「鮭鱒の産卵場・ある・沢」)
(知里真志保「知里真志保著作集 3『上川郡アイヌ語地名解』」平凡社 p.330 より引用)
この記録からも「黒岩山」の西から北に流れる川は ichan-un-nay で「鮭鱒の産卵場・ある・川」と見て良さそうで、何故か ichan- が省略された un-nay が近くの山の名前に転用された……と言った風に見受けられます(この三角点は 1916 年に設定されたとのこと)。

ただこの名前は定着しなかったのか、いつの間にか「黒岩山」という別名が考案され、大正時代に測図された「陸軍図」では既に「黒岩山」として描かれるようになっていました。「雲内山」は幻の山名になってしまったと言えるのかもしれません。

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2022年2月11日金曜日

「日本奥地紀行」を読む (128) 神宮寺(大仙市)~久保田(秋田市) (1878/7/22)

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日からは普及版の「第二十一信」(初版では「第二十六信」)を見ていきます。

この記事内の見出しは高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。当該書において、対照表の内容表示は高梨謙吉訳「日本奥地紀行」(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元にしたものであることが言及されています。

断行の必要

イザベラは神宮寺(大仙市)から久保田(現在の秋田)まで川を下って一気に移動することに成功します。この舟行はイザベラの発案だったらしく、イザベラのドヤ顔ぶりが克明に綴られていました。

 月曜日の朝にモノ川を下ってここに到着した。水上を九時間で楽に旅行できたが、陸上であれば、まる二日もかかったであろう。これは賢明な旅行計画を作り、それを断乎として実行した一例である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.251 より引用)
あまりにドヤ顔だったので丸々引用してみました(汗)。

誤報に迷う

イザベラは「実録!私はいかにしてドヤ顔をキメたか」と言わんばかりに詳細を記していました。

ブラントン氏の地図を調べて、雄物川は神宮寺シンゴージから舟で下れるにちがいないと心に決めたのは少し前のことであった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.251 より引用)
この「ブラントン氏」は「リチャード・ブラントン」のことでしょうか。ブラントンは 8 年間の日本滞在で 26 もの灯台の建設に携わったとのことで、その中には「納沙布岬灯台」や「尻屋埼灯台」「犬吠埼灯台」や「御前崎灯台」、「潮岬灯台」なども含まれるほか、「角島灯台」が日本における最後の仕事だったのだとか(灯台のチョイスに偏りがあるのは行ったことのある灯台を優先したからです)。

イザベラは(一週間前から)伊藤に川下りの情報を探らせたものの、得られた情報はどれも否定的なものばかりでした。

水が多すぎるとか、少なすぎるとか、あぶない早瀬があるとか、浅瀬があるという。もう今年は時期が遅すぎるとか、最近出かけた舟はみな座礁したという。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.251 より引用)
しかし「賢明な旅行計画をつくり断乎として実行する」をモットーとする(いつの間に)イザベラ姐さんは引き下がろうとはしません。

しかしある渡し場で、品物を積んだ一隻の舟が遠くを下ってゆくのを見たので、あれと同じコースで必ず出かけるのだ、と伊藤に言った。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.251 より引用)
またしても疲労困憊となったイザベラは神宮寺で一日休息することになりましたが、「ここからなら舟で行ける」という計算もあったのかもしれません。イザベラは執拗に聞き込みを続けて、要領を得ないやりとりの後に、ついに「舟がない」というところまでたどり着きます。

神宮寺に着くと、それは雄物川ではなく別な川であって、舟がこなごなに砕けるようなたいそうひどい急流があるという。最後になって、舟がないという。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.251 より引用)
ここで「賢明な(中略)実行する」イザベラ姐さんは、秘技「舟がないなら探しに行かせればいいじゃない」を発動します。

それなら一〇マイルも先に人をやって一隻求めよう、と言うと、駅逓係は一隻の小さな平底船を提供してくれて、それに伊藤と荷物と私自身をうまく乗せることができた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.251-252 より引用)
「ブラントン氏の地図」から雄物川を下ることで久保田(秋田)に行ける!と確信していたイザベラは、繰り返される否定的な見解を尽く退けてついに平底船をゲットしました(今気づいたんですが、この流れってドラクエとかにありそうですよね)。

それにしても、これだけ否定的な情報ばかり入ってきたというのはどうしてなのだろう……と言う点が気になるところです。もしかしたら「イギリスから来た旅人が舟を求めている」というノリで話を広めてしまったのか……と想像したりするのですが、もしそうだとしたらそれが原因で地元の人が萎縮して、事勿れ主義に走った可能性もありそうです。「悪手」を打ったとも言えそうですね。

この逆風を「賢明な(略)」で見事に打ち勝ったイザベラ姐さんが得意の絶頂にあったことは当然なことで、

伊藤が大げさに言った。「旅行中にあなたの言われたことは皆ぴたりと当たりますね!」。これは誇張ではない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.252 より引用)
「これは誇張ではない」と断言していました。

川を下る

ドヤ顔のイザベラ姐さんが神宮寺を出発する時がやってきました。

いつもの群集は、玄関のところに集まらずに、先に川の方へ行っていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.252 より引用)
この時は何故か群衆が宿の周りに集まることは無く、船着き場に先回りをしていたようです。宿から船着き場までは警官のエスコートがあったとのことですので、事前に追い払っていた可能性がありそうですね。

四二マイルの舟の旅は快適であった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.252 より引用)
42 マイルは約 67.6 km とのこと。神宮寺から秋田まで、雄物川経由だと確かに 60 km 以上あるので、この距離認識も概ね正しいと言えそうですね(どうやって調べたのか……)。そして「陸上であれば、まる二日もかかったであろう」というイザベラの計算もほぼ正確だったと言えそうです(ただ、羽州街道経由だと 50 km 未満なので、順調に行けば一日半の距離だったかもしれません。あくまで「順調に行けば」という前提ありきですが)。

イザベラの行く手を阻んだ「怪情報」は、やはり多分に嘘または誇張が含まれたものだったようで、川下りは概して快適なものだったようです。

急流といってもさざ波を立てるほどで、流れは速かった。一人の船頭は櫂によりかかって眠らんばかりであったし、もう一人は舟の中に水が半分くらい溜まって掻い出さねばならぬときだけ眼をさました。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.252 より引用)
船頭は居眠りしながら舟を操っていたようですが、川を上る際に相当体力を消耗していた、ということかもしれませんね。

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2022年2月10日木曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (226) 「ドライブスルー」

「稚内市開基百年記念塔」を後にして、まずは市街地に向かいます。生憎の曇天なので、写真は彩度マシマシになりますことをご容赦ください。
稚内公園から市街地に向かう道路からも市街地を一望できます。改めてこの公園の立地の絶妙さがわかりますね。

2022年2月9日水曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (225) 「立位体前屈をする人」

「稚内市開基百年記念塔」の外に戻ってきました。建物の前には「開基百年記念塔」の文字が刻まれた石碑が置かれています。
裏には長きに渡って市長を努め、「稚内の天皇」とまで謳われた浜森辰雄氏の名前が。そしてこの石は芦別市で切り出されたものだったんですね。

2022年2月8日火曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (224) 「開基百年記念塔」

「開基百年記念塔」の展望台には、おなじみのこの装置もありました。
100 円を投入して使うタイプの双眼鏡です。Nikon ブランドというのはちょっと珍しかったりするでしょうか……? 上下にでかい形をしていますが、こうすることで奥行きを浅くしているのでしょうか。

2022年2月7日月曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (223) 「日本全国高さくらべ」

「開基百年記念塔」の土台部分にある「稚内市北方記念館」の話題を続けてしまいましたが、そろそろ塔の上部にある展望台に向かいましょう。決して良い天気とは言えませんが、ここまで来たんですから久しぶりに展望台からの眺めを楽しみたいですよね。
展望台に向かうエレベーターの手前には、何故か「北前船」の模型が展示されていました。

2022年2月6日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (907) 「島牛川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

島牛川(しまうし──)

suma-us-nay???
岩・ついている・川
(??? = アイヌ語に由来するかどうか要精査)
美瑛川の西支流で、美瑛町五稜のあたりを流れています。五稜の集落から下流側は、川に沿って国道 452 号が通っています。

「ルーチシポクオマナイ」

明治時代の地形図には、現在の「島牛川」の位置に「ルーチシポクオマナイ」という名前の川が描かれていました。{ru-chis}-pok-oma-nay であれば「{山の鞍部}・下・そこに入る・川」と読めそうでしょうか。

五稜の西では国道 452 号が絶賛建設中なんですが、どうやら尾根の上を縦走する区間があるようで、そこが ru-chis と認識されていたのかもしれません。

なぜ「島牛川」に?

ただ問題は、どこから「島牛川」という名前が出てきたのかというところで、明治時代の地形図には「オイチャヌンペ川」の北側の、現在「ポン美瑛川」と呼ばれる川の位置に「シユマチセナイ」という川が描かれていました。

この「シユマチセナイ」ですが、実際の川よりも大きな川として描かれているという不審な点があります。一方で「島牛川」の位置に描かれた「ルーチシポクオマナイ」は随分と短い川として描かれています。

「再篙石狩日誌」の記録(聞き書き)

丁巳日誌「再篙石狩日誌」には次のように記されていました。

     ヒエブト
 より十丁計も上りて少し高き処え上りて、山々の様子筆記して下りけるに、其大略
     ヲイチヤヌンベ
     ミマナイ
     ルベシベ
 等皆右の方小川也。此ルベシベは相応の川也。ソラチえ山越此処より至て近しと聞。またしばし行て
     ヒハウナイ(ピパウシ)
     ヒヱヽサイ
 等右の方小川のよし也。此川源ソラチえ近しと。またしばし上りて、
     ホロナイ
     シキウシナイ
     ヲキケナウシ
 左りの方小川。ヘヽツの山つゞきのよし也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.273-274 より引用)
この「ヒエブト」は美瑛川と辺別川の合流点であると考えられます。「十丁計も上りて少し高き処え上りて、山々の様子筆記」とあるので、これらの川筋の情報は現地調査ではなく聞き書きだったと推察されます。

ただ聞き書きとは言え、記録された内容は現在の川名との整合性も高く、たとえば「オイチヤヌンベ」が「オイチャヌンペ川」で「ルベシベ」が「瑠辺蘂川」であると考えられます。となるとその間にある「島牛川」は「ミマナイ」ということになりますが……。

「東部登加智留宇知之誌」の記録

一方で、戊午日誌「東部登加智留宇知之誌」には次のように記されていました。

     ベ ヽ ツ
(中略)其よりしてまた未申の方に向ひ、また午の方等と指して行こと凡二十丁余にして
     ヲマクンヘツ
川巾七八間、両岸柳・赤楊有るによつて、是を倒してわたる。此川ビエヘツえ落るよし。行ことまた(南)の方に向て八九丁にして
     トウセンナイ
川巾六七尺、赤楊を倒して越る。こへて茅原又五六丁過て
     ホロ(コ)ツナイ
川巾五六尺、此川トウセンナイと合てビエえ落るよし。其処小山有。其(山)
     シユマチセビラ
といへる大岩窟の有る崖有。山は皆槲柏にして有るが、皆落葉なして山皺も粲然と見えわかるが故に、処々に奇石のあるもまた分明ふんみように見えわかりたり。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.149-150 より引用)
改めて見てみると、同じ川(美瑛川)の記録とは思えないくらい一致する部分がありません。この違いは「再篙石狩日誌」は聞き書きで「東部登加智留宇知之誌」は実地踏破だったためと考えられますが、面白いことに「東西蝦夷山川地理取調図」は両方の記録がブレンドされた形で描かれています。具体的には西側(南側)が聞き書きベースで、東側(北側)が実地調査ベースと考えられます。

「午手控」の記録

もう少し「東部登加智留宇知之誌」を引用して「再篙石狩日誌」との整合性を把握しておきたいのですが、引用する量が多くなりそうですので、「登加智留宇知之誌」の元ネタと考えられる「午手控」から引用してみます。

    ヘヽツ
 大川也。歩行わたり、此川端枝川多し。両岸赤楊多し。又二十丁計にして。原
    ヲマクンヘツ
 小川、此川ヒヱヘ落る也。原十丁計
    トウセンナイ
 小川、ヒヱヘ落る也。又原を少し行て
    ホロコツナイ
 小川、ヒヱヘ落る。此川トウセンナイと合て行也。此小川の向小山有。其山根大岩又は大岩崖有。又此川の南を上へ上り、平山の上小ざゝ原計行こと凡一里ニ而、下に
    ホロナイ
 此川ヒヱヘ落る。此辺なら計、旱藕多し。今日の道凡七里辰巳の方計、然し凡巳也。
 泊り。今日小沼ニ而は、蛙子多く鳴り
十日出立
 山道凡一里、槲柏多し。かや原也、
    カヲナイ
 小川またこへかや原しばし行、十五六丁
    シキウシナイ
 小ざゝ、かや多し 十七八丁来り、二丁計さゝ原下り
    ヲキケナシ
 大川、巾十間計、かちわたり、ふかし。さゝ原也。柳・赤楊多し。此原よりヒヱ、へヽツ、チクヘツ岳見ゆ
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 五」北海道出版企画センター p.49 より引用)
随分と長かったですが、「ヘヽツ」が「辺別川」で「ヲキケナシ」が「置杵牛川」と見て良さそうでしょうか。「登加智留宇知之誌」でも「ホロ(コ)ツナイ」の次は「シユマチセビラ」「ホロナイ」「カヲナイ」「シキウシナイ」「ヲキケナシ」となっていたので、「シユマチセビラ」以外は「午手控」と一致していることがわかります(まぁ「登加智留宇知之誌」のネタ元が「午手控」なので、一致しているのは当然なのですが)。

距離を含めて検討

今更ですが、これまでの情報を表にまとめてみました。「東西蝦夷山川地理取調図」と「再篙石狩日誌」における「ヲイチヤヌンベ」の位置(前後関係)は少々疑わしいため 2 つ記入していますが、実際に地図に描かれているのは 1 つのみです。

東西蝦夷山川地理取調図再篙石狩日誌登加智留宇知之誌現在の川名(推定)
ヒヱブトヒエブトベヽツ辺別川
ヲイチヤヌンベ?ヲイチヤヌンベ?(約 2.2 km)
ヲマクンヘツ-ヲマクンヘツ北瑛川??
ヲイチヤヌンベ?ヲイチヤヌンベ?(約 0.9 km)
--トウセンナイ夕張川??
(約 0.6 km)
ホロアツナイ-ホロ(コ)ツナイ美田川??
-ミマナイ?シユマチセビラ
(約 2.4 km)
ルベシベ?ルベシベ?ホロナイ瑠辺蘂川?
(約 3.9 km)
--カヲナイ
(約 1.7 km)
シキウシナイ-シキウシナイ
ヒハウシフトヒハウナイ(ピパウシ)(約 2.1 km)
ホロナイホロナイ-
-シキウシナイ-
ヲキナシヲキケナウシヲキケナシ置杵牛川

この表から読み取れることですが、一つは現地踏破の際に「オイチャヌンペ川」のあたりを通っていない可能性が考えられるという点です。松浦武四郎の一行が美瑛川沿いを遡った際に、現在の国道 452 号に近いルートを通ったとすると、「オイチャヌンペ川」を実見していないと考えても不自然ではありません。

二つ目は、「午手控」や「登加智留宇知之誌」に出てくる「ホロナイ」が、距離的に現在の「瑠辺蘂川」である可能性が高そうだ、ということです。

三つ目でようやく本題に近づきますが、「ホロコツナイ」(=美田川?)の近くに「シユマチセビラ」という「大岩崖」があるということです。suma-chise-pira は「岩・家・崖」と読めますが、これは現在の「五稜橋」のあたりを指していると思われます(橋の北側の山かと思いますが、確証はありません)。

「島牛川」は「岩の傍の川」だったか

明治時代の地形図には、現在のオイチャヌンペ川の *北側* を流れる「ポン美瑛川」の位置に「シユマチセナイ」と描かれていました。ただ実際の「シユマチセビラ」はオイチャヌンペ川の *南側* にあったと考えられるので、川名を取り違えたと言うよりは作図の際に位置を間違えた可能性がありそうな気がします。

となると現在の「ポン美瑛川」が「ルーチシポクオマナイ」だったのか? と考えたくなります。「ポン美瑛川」が「{山の鞍部}・下・そこに入る・川」と呼ぶに相応しいかですが、大抵の川は山の鞍部の麓から流れているので、当たり前じゃないかと言われたら返す言葉がありません(汗)。

現在の川名は「島牛川」なので「シユマチセナイ」とは少々異なりますが、suma-us-nay で「岩・ついている・川」をそのまま漢字にした可能性があるのではないか……というお話でした。

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2022年2月5日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (906) 「珍別・瑠辺蘂川・オマン川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

珍別(ちんべつ)

o-ichan-un-pet???
河口・鮭鱒の産卵場・ある・川
(??? = アイヌ語に由来するかどうか要精査)
地名と言うものは様々な理由でちょくちょく変化してしまうものですが、地名と比べて川の名前は昔の名前のまま残ることが多い傾向にあります。そして三角点の名前も川名と同じくらい昔のまましれっと残っていることが多いのですが、この「珍別」もそんな三角点の一つ……かもしれません。国道 452 号が美瑛川を渡る「旭稜橋」の西北西にある、標高 275.1 m の三等三角点の名前です。

「──別」と言うからには川名のように思えますが、「東西蝦夷山川地理取調図」や明治時代の地形図にはそれらしき川が見当たりません。ただ大正時代に測図された「陸軍図」には、三角点のある山の北斜面あたりに「オチャンベツ」という地名が描かれていました。

「オイチャヌンペ」と「オチャンベツ」

三角点のすぐ西で「オイチャヌンペ川」が美瑛川に合流しています。「オイチャヌンペ」は o-ichan-un-pe で「河口・鮭鱒の産卵場・ある・もの(川)」と読めますが、「オチャンベツ」と「オイチャヌンペ」がどちらも似た意味だとすると、何故末尾が -pet-un-pe で異なるのか、ちょっとわからなくなってきますし、「オチャ」と「オイチャ」で異なるのも妙に思えます。

ただ、現在「ルベシベ三線川」と呼ばれている川(美瑛川の南支流)があるのですが、この川は明治時代の地形図には「オイチャンウンナイ」という名前で描かれていました。この「オイチャンウンナイ」が別の地形図では「オチャウンナイ」となっていたので、「オイチャンウンペ」が「オチャンベツ」に化けたという可能性も考えられそうな気がしてきました。

もしかしたら「オイチャンウンペ」の別名が「オイチャンウンペツ」だったかもしれません。その場合は o-ichan-un-pet で「河口・鮭鱒の産卵場・ある・川」と読めそうです。

瑠辺蘂川(るべしべ──)

ru-pes-pe
路・それに沿って下る・もの(川)
(典拠あり、類型多数)
美瑛川の南支流(西支流)の名前です。「東西蝦夷山川地理取調図」には「ルベシベ」という名前の川が描かれていました。また永田地名解にも次のように記されていました。

Rupesh nai     ルペㇱュ ナイ    熊徑川 直譯路川ナリ熊ノ徑過スルヲ以テ名ク
O ichanunbe     オ イチャヌンベ   鱒ノ産卵場
Rupeshbe nai   ルペㇱュベ ナイ   行路 空知川ヘ下ル路ナ
Pipa ushi     ピパ ウシ      沼貝川
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.52-53 より引用)※ 原文ママ
あれ? 似て非なる「ルペㇱュ ナイ」と「ルペㇱュベ ナイ」があるようですが、「ピパ ウシ」(=美瑛美馬牛川)の手前にある「ルペシュベ ナイ」が現在の「瑠辺蘂川」のことでしょうか。

山田秀三さんの「北海道の地名」には、次のように記されていました。

富良野市街から富良野川を溯り,その西側支流のトウラシ・エホロカアンベツ「(道が)上る・エホロカンベツ川」を上って低い丘陵を越えたら,いつのまにか留辺蘂川に出たので,それを下り,美瑛川に沿って旭川に行ったことがある。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.111 より引用)
ということで、この川は「トラシエホロカンベツ川」と対になる存在の ru-pes-pe で「路・それに沿って下る・もの(川)」だったようです。turasi が「それに沿ってのぼる」で pes が「それに沿って下る」なのですが、ネーミングが北(旭川方面)に向かう前提になっているのは、なにか理由があるのでしょうか……?

オマン川

e-pana-oma-{ru-pes-pe}
頭・川下のほう・そこに入る・{瑠辺蘂川}
(典拠あり、類型あり)
瑠辺蘂川の西支流で、美瑛町美園のあたりを流れています。アイヌ語で oman は「行く」あるいは「山の方へ行く」となりますが、ちょっと抽象的すぎて違和感があります。

明治時代の地形図を見ると、現在の「オマン川」の位置に「エパナオマンルペシュペ」という名前の川が描かれていました。ああ、これだったら納得ですね。

知里さんの「上川郡アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

エパナオマルペシペ(E-pana-oma-Rupeshpe「頭が・浜の方・に向つている・ルペシペ川」)ルペシペ川の枝川。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『上川郡アイヌ語地名解』」平凡社 p.326 より引用)※ 原文ママ
e-pana-oma-{ru-pes-pe} で「頭・川下のほう・そこに入る・{瑠辺蘂川}」と解釈できそうですね。ただこれだと「オマ川」になりそうな感じもするので、e-pana-oman-{ru-pes-pe} で「頭・川下のほう・行く・{瑠辺蘂川}」だったのかもしれません。

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2022年2月4日金曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (222) 「樺太の連絡船と鉄道」

「稚内市北方記念館」の話題をもう少しだけ続けます。海と灯台と、遠くに島(樺太でしょうか)が描かれている壁画の手前には、船の模型が飾られていました。
これは「稚泊連絡船」として稚内と大泊(現在のコルサコフ Корсаков)の間を結んでいた「亜庭あにわ丸」の模型のようです。

2022年2月3日木曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (221) 「樺太日露国境標石」

「樺太鳥瞰図」と題されたパネルが貼られた一角にやってきました。よく見ると奥の方に「大韓航空機撃墜事件」のエリアが見えますが、実は 2 階展示室の中でも外れの方に位置しているんですよね。
パネルの横には巨大な「樺太鳥瞰図」があります。西側から南樺太を俯瞰したものですが、この構図だと真岡まおか(現在のホルムスク Холмск)から泊居とまりおる(現在のトマリ Томари)のあたりが「東海道」のようなメインルートに見えてしまいますね。実際には右側奥に見える豊原とよはら(現在のユジノサハリンスク Южно-Сахалинск)のあたりが北海道における札幌相当の位置づけなのですが……。

2022年2月2日水曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (220) 「日本時間 9 月 1 日午前 3 時 26 分」

「稚内市北方記念館」の 2 階展示室の片隅に「大韓航空機撃墜事件」についてまとめられた一角があります。
概略は中央のパネルに記してある通りなのですが……

2022年2月1日火曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (219) 「『大泊』・『豊原』・『生業』」

「稚内市北方記念館」の 2 階展示室に向かいます。
階段の横の壁には、パノラマ写真と思しき写真が貼られていました。戦前の写真っぽいですが、当時でもこのような写真を撮影できたのでしょうか。あるいは複数枚の写真をうまくつなぎ合わせているとか……?