2022年2月23日水曜日

「日本奥地紀行」を読む (129) 久保田(秋田市) (1878/7/22~23)

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第二十一信」(初版では「第二十六信」)を見ていきます。

この記事内の見出しは高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。当該書において、対照表の内容表示は高梨謙吉訳「日本奥地紀行」(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元にしたものであることが言及されています。

郊外の住宅

神宮寺(大仙市)から久保田(現在の秋田市)まで、雄物川を舟で下るという大技を決めたイザベラは、秋田市南西部の「新屋」にやってきました。

岸辺は静かで美しく、ほとんど人影もなかったが、やがて新屋アラヤという大きな町に着いた。この町は、高い土手に沿って相当長くだらだらと続いている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.252 より引用)
現在の「新屋」は雄物川の河口付近の市街地ですが、雄物川の放水路が開通したのは 1938 年とのことで、イザベラが見たのは放水路ができる前の町並みだったことになります。放水路ができる前の地図を見た限りでは「相当長くだらだらと続いている」と言うほどのものでも無いようにも思えますが、集落の北半分は川沿いに形成されていたように見えます。

九時間の平穏な旅の後に、私たちは、ちょうど久保田クボタの郊外のところで雄物川の本流からそれて、狭い緑色の川をさおを使って進んだ。川の縁には、家屋の傾いた裏側や船製造所や多くの材木が片側に並び、住宅や庭園、茂った草木が反対側に続く。この川には非常に多くの橋がかけられている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.252 より引用)
これは現在の「新川橋」の手前で東に向かったと考えて良いでしょうか。その先は「太平川」を東に遡った可能性もありますが、「非常に多くの橋がかけられている」というところから市街地を南北に縦断している「旭川」を遡ったのではないかと考えたくなります。

究極の HP 回復アイテム

いつも強烈な宿を引き当てる豪運ぶりには定評のあるイザベラですが、久保田(秋田)では珍しく「あたり」を引いたようです。

 私はたいそう親切な宿屋ヤドヤで、気持ちのよい二階の部屋をあてがわれた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.252 より引用)
そしてイザベラはここで起死回生のアイテムを手に入れます。

「西洋料理」──おいしいビフテキと、すばらしいカレー、きゅうり、外国製の塩と辛子がついていた──は早速手に入れた。それを食べると「眼が生きいきと輝く」ような気持ちになった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.252 より引用)
「なんと大げさな……」と思われるかもしれませんが、当時は「壊血病」や「脚気」などのビタミン欠乏症の原因が知られていなかったということを忘れてはいけません。イザベラが幾度となく「肉」を求めたのは、旅行中の粗食では何らかの栄養素が補えていなかった可能性があったのではないでしょうか。

久保田病院

イザベラは久保田(現在の秋田市)で 3 日を過ごすことになりますが、その滞在はとても快適で楽しいものだったようです。久保田(秋田)の町については次のように記していました。

 久保田クボタ(現在の秋田市)は秋田県の首都で、人ロ三万六千、非常に魅力的で純日本風の町である。太平山タイヘイサンと呼ばれるりっぱな山がその肥沃な流域の上方に聳え、雄物川はその近くで日本海に注ぐ。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.253 より引用)
現在の秋田市の人口は約 30.5 万人で、秋田県の人口が約 94.5 万人ということですから、県内人口の約 3 割が秋田市民ということになるでしょうか。太平山(標高 1170.4 m)は飛び抜けて大きな山では無いですが、市街地を囲む山に限定して考えるならば、三方向に尾根が伸びる山容はとても雄大なもので、イザベラが「りっぱな山」と評したのも頷けます。

青と黒の縞や、黄色と黒の縞の絹物を産する。これでハカマ着物キモノを作る。また横糸を盛りあげた一種の白絹のクレープは縮緬(チリメン)として東京の商店では高値を呼ぶ。またフスマや下駄を生産する。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.253 より引用)
イザベラは久保田(秋田)のことを「商売が活発」で「活動的」と記していますが、当時は絹織物の流通量が多かったということでしょうか。「白絹のクレープ」は原文では silk crepe となっていて、和訳すると「縮緬」とのこと。あー、なるほどこれでは和訳するわけにはいきませんね……。

城下町ではあるが、例の「死んでいるような、生きているような」様子はまったくない。繁栄と豊かな生活を漂わせている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.253 より引用)
イザベラは、最近だと新庄(山形県)のことを「衰微すいびの空気が漂っている」と評していましたね。また湯沢(秋田県)についても「特にいやな感じの町である」と記していましたが、久保田(秋田)についてはこういった停滞感が全く感じられない、と認識していたようです。

商店街はほとんどないが、美しい独立住宅が並んでいる街路や横通りが大部分を占めている。住宅は樹木や庭園に囲まれ、よく手入れをした生垣がある。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.253-254 より引用)
「商店街はほとんどない」というのは新潟と比較してのことでしょうか。イザベラは美しい住宅が立ち並ぶのを見て「中流階級」の存在を見て取った、と記しています。

「書面が無いなら書かせればいいじゃない」

また、これまで見てきた *都市* である「横浜」や「新潟」とは異なり、

外国の影響はほとんど感じられない。この県の役所にも他の仕事にも、外国人は一人もいない。病院でさえも、初めから日本人の医師たちが作ったものである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.254 より引用)
外国の影響が殆ど見られないところに感心しているように見えます。イザベラは久保田(秋田)が「外国人抜き」で繁栄しているように見えることに興味を抱いた……ということでしょうか。

イザベラは羽後街道沿いを北上する途中で二度ほど「若い医師」と会話を交わしていますが、この「若い医師」から勤務先(病院)を訪問するように招待を受けていました(この際に「西洋料理店」の情報も合わせて聞いていたんでしたね)。

事前に招待されていたということもあり、いそいそと病院見学に向かったところ……

 この事実から、どうしても病院を見たいと思ったが、訪問の時間にそこを訪ねたら、院長から丁寧に断られて、弱ってしまった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.254 より引用)
院長が言うには、知事から書面で許可を得る必要があるとのこと。もちろんイザベラ姐さんはこの程度で引き下がる人ではありません。「書面が無いなら書かせればいいじゃない」ということで、伊藤(通訳)を伴って手続きに出かけます。

伊藤は、程度の低い命令のときには通訳するのをしぶるが、このような重大な場合に臨むと全力をあげる。彼は絹の着物を着て「通訳官」にふさわしいりっぱな姿となって私に同行し、今までにない働きぶりを見せた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.254 より引用)
イザベラは伊藤が各種の経費をピンハネしていることにも気づいていて、また「見栄っ張り」な一面があることも認識していましたが、ここぞと言うときの大仕事をそつなくこなす有能さにも一目を置いていたことが窺えます。

狐と狸の化かし合いという側面もありますが、一蓮托生で持ちつ持たれつの間柄に(いつの間にか)なってしまった……ということなんでしょうね。「この怪しい若造が……」と思っていたかもしれませんが、いえいえイザベラ姐さんも十分怪しいですから(ぉぃ)。

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