2022年2月13日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (909) 「西南真布・尻矢内・奔当麻内」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

西南真布(せいなんまっぷ)

sinoman-oma-p???
本当に山奥に行っている・そこにある・もの(川)
(??? = アイヌ語に由来するかどうか要精査)
黒岩山の東北東、ポン牛朱別川とイチャンナイ川の間の標高 323.4 m の三等三角点の名前です。陸軍図を見てみると、道道 486 号「豊田当麻線」の当麻町と旭川市の境界付近に「西南眞布」という地名が描かれていました。この「西南眞布」には、面白いことに「セイナンマップル」というルビが振られています。

この「西南真布」という地名ですが、「精南真布」という名前で比較的最近まで残っていたようです(1980 年代の「土地利用図」には「精南真布」の文字が見えます)。

「ポン牛朱別川」=「精南真布川」?

「北海道地名誌」には次のように記されていました。

 ポンウシベツ川 市街の東南で牛朱別川に入る小川。もと精南真布川と呼んだという。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.315 より引用)
これは現在の「ポン牛朱別川」を指していると考えられます(「ポンウシベツ川」は旭川市内を流れる別の川なので)。それにしてもこの「ポン牛朱別川」、地図によって「ルウプ子マップイセ」だったり「ヌプリエカリヤムナイ」だったり「精南真布川」だったり……良くわからなくなりますね。

幻の「シノマンオマプ」説

本多貢「北海道地名分類字典」には次のように記されていました。

精南真布(せいなんまっぷ、上川かみかわ当麻とうま町の地名)シノ sino・マン man・オマ oma・プ p=本当の・山奥へ行く・にある・もの(川)(知里『旭川市史』)。牛朱別うししゅべつ川の本流を指す(栃木)
(本多貢「北海道地名分類字典」北海道新聞社 p.113 より引用)
「知里『旭川市史』」とあるのは「上川郡アイヌ語地名解」のことですが、「牛朱別川筋の地名」には「シノマンオマプ」という川の記録はありません。最も近そうなものとしては以下のものがありますが……

 シノマン・ウシシペツ(Shinoman-Ushishpet 「ずつと行つた・牛朱別川」)牛朱別川の最上流の義。
知里真志保知里真志保著作集 3『上川郡アイヌ語地名解』」平凡社 p.331 より引用)※ 原文ママ
これを「シノマンオマプ」と読み替えたのかと考えてみたのですが、「シノマンウシヽヘツ」は「東西蝦夷山川地理取調図」にも描かれている川で、「東西蝦夷──」での位置関係からは「キンクシウシヽヘツ」から見て上流部の支流(または源流)の名前だと考えられます。

出典無効?

明治時代の地図からは、現在「石渡川」と呼んでいる川が「キンクシウシヽヘツ」だったと見られることから、「シノマンウシヽヘツ」は「大沢ダム」のある、牛朱別川の源流部の名前だったと考えるのが自然です。

明治時代の地形図には「キンクシウシシュペツ」や「イサオマンウシュペツ」、「エラマンテウシュペツ」などの支流が描かれていますが、いずれも「ポン牛朱別川」ではなく「牛朱別川」の支流です。「シノマンウシシペツ」だけが「ポン牛朱別川」の源流部の名前だったと考えるのは不自然ですし、また「牛朱別川の本流を指す」としたなら「精南真布」からはかなり場所が離れてしまいます。

要は「北海道地名分類字典」の「精南真布」の項は、随分と当てにならない……という話です。ありもしない内容を「知里『旭川市史』」が出典であるかのように記述するのは勘弁してほしいですね……。

結局「シノマンオマプ」しか無いのか

「それで『西南真布』はどういう意味なんだ?」と言う話なのですが、sinoman-oma-p で「本当に山奥に行っている・そこにある・もの(川)」と言う考え方そのものは、可能性のある仮説として残りそうに思っています。

あともう一つ、これは荒唐無稽な考え方かもしれませんが、「西南真布」から *南西* に向かうとペーパン川筋に出られるんですよね。そして「西南真布」に振られた「セイナンマップ」というルビからは「西南・そこに入る・もの(川)・路」という滅茶苦茶な解釈もできてしまうのではないか……という。明治以降に考案された、和語・アイヌ語折衷の地名?だったりしないかなと。

尻矢内(しりやない)

sir-enkor-yam-nay??
山・崎・冷たい・川
(?? = 典拠あるが疑問点あり、類型未確認)
かつて「シノマンウシシペツ」と呼ばれていたのではないかと思われる「牛朱別川」上流部には「大沢ダム」というダムがあるのですが、大沢ダムの東南東に「尻矢内」という名前の三等三角点があります(標高 467.7 m)。この三角点は 1916 年(大正 5 年)に設置されたもので、当時このあたりに「尻矢内」と呼ばれる地名(または川名や山名など)があったことを窺わせます。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「キンクシウシヽヘツ」(=石渡川)と「シノマンウシヽヘツ」(=牛朱別川源流部と推定)の間には川が描かれておらず、「尻矢内」の由来と考えられそうな川は見当たりません。ただ明治時代の地形図を見てみると、「大沢ダム」の南西に「シリ?コヤムナイ」という川が描かれていました。

已むを得ず(ぉ

「シリンコヤムナイ」であれば、sir-enkor-yam-nay で「山・崎・冷たい・川」と読めるでしょうか。ただ yam がちょっと厄介で、yam-petyam-nay という名前は本来ありえないという指摘もあります(「川が冷たい」ではなく、「水が冷たい川」とあるべきだ、という)。

また「冷たい」を意味する yam は道北から道東にかけて使われる語で、道央から道南では yam ではなく nam が使われます。道央から道南では yam は「栗(の実)」を意味するので、仮に yam だとした場合、「冷たい」のか「栗(の実)」なのかを推量する必要も出てきます。

このあたりでは puyse という語が使われていた可能性があるのですが、puyse は宗谷地方や樺太で使用例が記録されているため、yam も道北の流儀で「冷たい」かな、と考えてみました。yam-nayyam(-wakka)-nay だったと考えれば筋道は通せるかな、と……。

奔当麻内(ぽんとうまない)

pon-{to-oma-nay}
小さな・{当麻川}
(典拠あり、類型あり)
(現時点では)旭川も紋別も通らないことでお馴染みの「旭川紋別自動車道」ですが、実は当麻町内を 1.6 km ほど通っています。全区間が「愛別トンネル」の中なので、ほぼ認識することは無さそうですが……(カントリーサインの有無が気になってきました)。

旭川紋別道の「愛別トンネル」から 500 m ほど南、愛別町との境界にほど近いところに「奔当麻内」という名前の三等三角点があります。この三角点が設置されたのも 1916 年とのことで、この名前も当時の川名に由来しそうです。

当麻川の上流部(道道 140 号「愛別当麻旭川線」からも見えた筈)に「当麻ダム」があるのですが、ダムの上流(愛別飛行場跡の南)で「ミヤシタ川」という川が合流しています。明治時代の地形図を見てみると、この「ミヤシタ川」に相当すると思われる位置に「ポントオマナイ」と描かれていました。

由来のスッキリしない三角点名が続きましたが、この「奔当麻内」は pon-{to-oma-nay} で「小さな・{当麻川}」と考えて良さそうですね。「小さな当麻川」としましたが、「支流である当麻川」と読み替えるとより適切に理解できると思います。

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