(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
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幸見内(こうみない)
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
明治時代の地形図を見ると、「クオーナイ」という名前の川が描かれています。この「クオーナイ」は三角点の東側に相当する場所を流れているので、おそらく三角点の名前もこの「クオーナイ」に由来すると考えて良いのでは、と思われます。
この「クオーナイ」は「東西蝦夷山川地理取調図」や丁巳日誌「再篙石狩日誌」には記載がありませんが、知里さんの「上川郡アイヌ語地名解」に次のように記されていました。
クオナイ(Ku-o-nai 「仕掛弓・多くある・沢」)
(知里真志保「知里真志保著作集 3『上川郡アイヌ語地名解』」平凡社 p.330 より引用)
やはり ku-o-nay で「仕掛け弓・多くある・川」と考えて良さそうですね。「仕掛け弓」は木と木の間に糸を張って、獲物が糸を引っ掛けたら自動的に毒矢が放たれるというハイテク狩猟装置のことです。間違えて人が罠を踏み抜いたら大変なことになるので、注意喚起の意味でそう呼ばれた……と言ったところなのでしょうね。「ミ」はどこから出てきた?
ただちょっと気になるのが「クオナイ」と「コウミナイ」の違いで、特に「ミ」がどこから現れたのか、そのメカニズムが明確ではないところです。改めて「東西蝦夷山川地理取調図」を眺めてみると、「トウマ」(=トオマナイ、現在の「当麻川」)の西に「カヲムイ」という北支流が流れていたことになっています。明治時代の地形図に描かれた「クオーナイ」は南支流で、しかも「トオマナイ」よりも東で「ウシシユペツ」に合流しているので、「カヲムイ」と「クオナイ」を同一の川と見ることは(普通は)無理があります。しかし「東西蝦夷──」には「トウマ」の東に「ヌホロマ」という川が描かれていることに気づきました。
この「ヌホロマ」が「ヌプポロマナイ」(または「ヌポロマナイ」)のことであれば、「ヌプポロマナイ」は現在の「神水川」相当の位置を流れていたことになるので、「東西蝦夷──」の「トウマ」と「ヌホロマ」の位置関係は逆だったことになります。端的に言えば「この辺の『東西蝦夷──』はちょっと怪しい」ということになりますね。
ということで、「カヲムイ」が牛朱別川の北支流ではなく南支流だったとすれば、「幸見内」という三角点の名前の由来と考えて良さそうな気がします。ku-oma-i で「仕掛け弓・そこにある・もの(川)」と読めそうですね。これが ku-oma-nay に変化して「幸見内」という字が当てられた、と言ったところでしょうか。
留府内(るっぷない)
(?? = 典拠あるが疑問点あり、類型未確認)
牛朱別川の南支流(東支流)に「ポン牛朱別川」という名前の川があり、当麻の市街地の南南東あたりで合流しています。道道 486 号「豊田当麻線」が「東協和橋」でポン牛朱別川を渡っていますが、この橋から見て北東に標高 195.9 m の小ぶりな山があります。この 195.9 m の三等三角点の名前が「どことなく島根県の「十六島 」を彷彿とさせる名前ですね。
この「ポン牛朱別川」という川名もちょいと注意が必要で、「東西蝦夷山川地理取調図」には「ホンウシヽヘツ」という名前の川が描かれていますが、これは旭川市内を流れる「ポンウシベツ川」と呼ばれる川のことだと考えられます。
では現在の「ポン牛朱別川」はどう呼ばれていたのか……という話ですが、明治時代の地形図では「ルウプ子マップイセ」という名前で描かれていました。なるほど、これなら「るっぷない」と化けたのも理解できそうです。
問題は「ルウプ子マップイセ」をどう解釈したものか……という点です。{rupne-mat} は「{老婦人}」で puyse は「霧」あるいは「煙」と言ったところなのですが、「老婦人の霧」というのは地名としては類型が無く、かなり意味不明な感じがします。
無理やり解釈をこじつけるならば、牛朱別川を {rupne-kur} で「年長者」と呼ぶ流儀があって、そのパートナーとして {rupne-mat} で「老婦人」と呼んだ「ポン牛朱別川」は霧が多かったので {rupne-mat}-puyse と呼んで区別した……とかでしょうか。これは全くの想像でしか無いですが……。
ちなみにこの「ルウプ子マップイセ」ですが、知里さんの「上川郡アイヌ語地名解」にも記録がありません。明治時代の地形図以外には見かけない名前なので、何かの間違いかもしれないなぁ……と思ったりもしたのですが、「留府内」という三角点名が現存することで「ルウプ子マップイセ」の実在が証明された?と言ったところでしょうか。
とりあえず {rupne-mat}-puyse で「老婦人・霧」と呼ばれる川?があり、それが rupne-nay で「年長の・川」に略されたと解釈するしか無さそうですね……。
知里さんの「──小辞典」では、rupne は「大きくアル(ナル)」と言う意味だとされていますが、中川先生の「アイヌ語千歳方言辞典」では「体が大きい。粒が大きい。年齢が高い」という 3 つのパターンが併記されていました。地名では onne(年長の)を「大きい」という意味で使用することがあるため、ちょうど逆のパターンのように思えます。
雲内山(うんないやま)
(??? = アイヌ語に由来するかどうか要精査)
「留府内」三角点の南、「幸見内」三角点の東南東に「黒岩山」という標高 481.7 m の山があるのですが、何故かこの山の頂上に「「雲内山」三角点のある「黒岩山」山頂の西には谷が伸びていて、明治時代の地形図ではこの谷を「イナンウンヤ
知里さんの「上川郡アイヌ語地名解」では、次のように記されていました。
イチャヌンナイ(Ichan-un-nai 「鮭鱒の産卵場・ある・沢」)
(知里真志保「知里真志保著作集 3『上川郡アイヌ語地名解』」平凡社 p.330 より引用)
この記録からも「黒岩山」の西から北に流れる川は ichan-un-nay で「鮭鱒の産卵場・ある・川」と見て良さそうで、何故か ichan- が省略された un-nay が近くの山の名前に転用された……と言った風に見受けられます(この三角点は 1916 年に設定されたとのこと)。ただこの名前は定着しなかったのか、いつの間にか「黒岩山」という別名が考案され、大正時代に測図された「陸軍図」では既に「黒岩山」として描かれるようになっていました。「雲内山」は幻の山名になってしまったと言えるのかもしれません。
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