2022年2月6日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (907) 「島牛川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

島牛川(しまうし──)

suma-us-nay???
岩・ついている・川
(??? = アイヌ語に由来するかどうか要精査)
美瑛川の西支流で、美瑛町五稜のあたりを流れています。五稜の集落から下流側は、川に沿って国道 452 号が通っています。

「ルーチシポクオマナイ」

明治時代の地形図には、現在の「島牛川」の位置に「ルーチシポクオマナイ」という名前の川が描かれていました。{ru-chis}-pok-oma-nay であれば「{山の鞍部}・下・そこに入る・川」と読めそうでしょうか。

五稜の西では国道 452 号が絶賛建設中なんですが、どうやら尾根の上を縦走する区間があるようで、そこが ru-chis と認識されていたのかもしれません。

なぜ「島牛川」に?

ただ問題は、どこから「島牛川」という名前が出てきたのかというところで、明治時代の地形図には「オイチャヌンペ川」の北側の、現在「ポン美瑛川」と呼ばれる川の位置に「シユマチセナイ」という川が描かれていました。

この「シユマチセナイ」ですが、実際の川よりも大きな川として描かれているという不審な点があります。一方で「島牛川」の位置に描かれた「ルーチシポクオマナイ」は随分と短い川として描かれています。

「再篙石狩日誌」の記録(聞き書き)

丁巳日誌「再篙石狩日誌」には次のように記されていました。

     ヒエブト
 より十丁計も上りて少し高き処え上りて、山々の様子筆記して下りけるに、其大略
     ヲイチヤヌンベ
     ミマナイ
     ルベシベ
 等皆右の方小川也。此ルベシベは相応の川也。ソラチえ山越此処より至て近しと聞。またしばし行て
     ヒハウナイ(ピパウシ)
     ヒヱヽサイ
 等右の方小川のよし也。此川源ソラチえ近しと。またしばし上りて、
     ホロナイ
     シキウシナイ
     ヲキケナウシ
 左りの方小川。ヘヽツの山つゞきのよし也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.273-274 より引用)
この「ヒエブト」は美瑛川と辺別川の合流点であると考えられます。「十丁計も上りて少し高き処え上りて、山々の様子筆記」とあるので、これらの川筋の情報は現地調査ではなく聞き書きだったと推察されます。

ただ聞き書きとは言え、記録された内容は現在の川名との整合性も高く、たとえば「オイチヤヌンベ」が「オイチャヌンペ川」で「ルベシベ」が「瑠辺蘂川」であると考えられます。となるとその間にある「島牛川」は「ミマナイ」ということになりますが……。

「東部登加智留宇知之誌」の記録

一方で、戊午日誌「東部登加智留宇知之誌」には次のように記されていました。

     ベ ヽ ツ
(中略)其よりしてまた未申の方に向ひ、また午の方等と指して行こと凡二十丁余にして
     ヲマクンヘツ
川巾七八間、両岸柳・赤楊有るによつて、是を倒してわたる。此川ビエヘツえ落るよし。行ことまた(南)の方に向て八九丁にして
     トウセンナイ
川巾六七尺、赤楊を倒して越る。こへて茅原又五六丁過て
     ホロ(コ)ツナイ
川巾五六尺、此川トウセンナイと合てビエえ落るよし。其処小山有。其(山)
     シユマチセビラ
といへる大岩窟の有る崖有。山は皆槲柏にして有るが、皆落葉なして山皺も粲然と見えわかるが故に、処々に奇石のあるもまた分明ふんみように見えわかりたり。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.149-150 より引用)
改めて見てみると、同じ川(美瑛川)の記録とは思えないくらい一致する部分がありません。この違いは「再篙石狩日誌」は聞き書きで「東部登加智留宇知之誌」は実地踏破だったためと考えられますが、面白いことに「東西蝦夷山川地理取調図」は両方の記録がブレンドされた形で描かれています。具体的には西側(南側)が聞き書きベースで、東側(北側)が実地調査ベースと考えられます。

「午手控」の記録

もう少し「東部登加智留宇知之誌」を引用して「再篙石狩日誌」との整合性を把握しておきたいのですが、引用する量が多くなりそうですので、「登加智留宇知之誌」の元ネタと考えられる「午手控」から引用してみます。

    ヘヽツ
 大川也。歩行わたり、此川端枝川多し。両岸赤楊多し。又二十丁計にして。原
    ヲマクンヘツ
 小川、此川ヒヱヘ落る也。原十丁計
    トウセンナイ
 小川、ヒヱヘ落る也。又原を少し行て
    ホロコツナイ
 小川、ヒヱヘ落る。此川トウセンナイと合て行也。此小川の向小山有。其山根大岩又は大岩崖有。又此川の南を上へ上り、平山の上小ざゝ原計行こと凡一里ニ而、下に
    ホロナイ
 此川ヒヱヘ落る。此辺なら計、旱藕多し。今日の道凡七里辰巳の方計、然し凡巳也。
 泊り。今日小沼ニ而は、蛙子多く鳴り
十日出立
 山道凡一里、槲柏多し。かや原也、
    カヲナイ
 小川またこへかや原しばし行、十五六丁
    シキウシナイ
 小ざゝ、かや多し 十七八丁来り、二丁計さゝ原下り
    ヲキケナシ
 大川、巾十間計、かちわたり、ふかし。さゝ原也。柳・赤楊多し。此原よりヒヱ、へヽツ、チクヘツ岳見ゆ
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 五」北海道出版企画センター p.49 より引用)
随分と長かったですが、「ヘヽツ」が「辺別川」で「ヲキケナシ」が「置杵牛川」と見て良さそうでしょうか。「登加智留宇知之誌」でも「ホロ(コ)ツナイ」の次は「シユマチセビラ」「ホロナイ」「カヲナイ」「シキウシナイ」「ヲキケナシ」となっていたので、「シユマチセビラ」以外は「午手控」と一致していることがわかります(まぁ「登加智留宇知之誌」のネタ元が「午手控」なので、一致しているのは当然なのですが)。

距離を含めて検討

今更ですが、これまでの情報を表にまとめてみました。「東西蝦夷山川地理取調図」と「再篙石狩日誌」における「ヲイチヤヌンベ」の位置(前後関係)は少々疑わしいため 2 つ記入していますが、実際に地図に描かれているのは 1 つのみです。

東西蝦夷山川地理取調図再篙石狩日誌登加智留宇知之誌現在の川名(推定)
ヒヱブトヒエブトベヽツ辺別川
ヲイチヤヌンベ?ヲイチヤヌンベ?(約 2.2 km)
ヲマクンヘツ-ヲマクンヘツ北瑛川??
ヲイチヤヌンベ?ヲイチヤヌンベ?(約 0.9 km)
--トウセンナイ夕張川??
(約 0.6 km)
ホロアツナイ-ホロ(コ)ツナイ美田川??
-ミマナイ?シユマチセビラ
(約 2.4 km)
ルベシベ?ルベシベ?ホロナイ瑠辺蘂川?
(約 3.9 km)
--カヲナイ
(約 1.7 km)
シキウシナイ-シキウシナイ
ヒハウシフトヒハウナイ(ピパウシ)(約 2.1 km)
ホロナイホロナイ-
-シキウシナイ-
ヲキナシヲキケナウシヲキケナシ置杵牛川

この表から読み取れることですが、一つは現地踏破の際に「オイチャヌンペ川」のあたりを通っていない可能性が考えられるという点です。松浦武四郎の一行が美瑛川沿いを遡った際に、現在の国道 452 号に近いルートを通ったとすると、「オイチャヌンペ川」を実見していないと考えても不自然ではありません。

二つ目は、「午手控」や「登加智留宇知之誌」に出てくる「ホロナイ」が、距離的に現在の「瑠辺蘂川」である可能性が高そうだ、ということです。

三つ目でようやく本題に近づきますが、「ホロコツナイ」(=美田川?)の近くに「シユマチセビラ」という「大岩崖」があるということです。suma-chise-pira は「岩・家・崖」と読めますが、これは現在の「五稜橋」のあたりを指していると思われます(橋の北側の山かと思いますが、確証はありません)。

「島牛川」は「岩の傍の川」だったか

明治時代の地形図には、現在のオイチャヌンペ川の *北側* を流れる「ポン美瑛川」の位置に「シユマチセナイ」と描かれていました。ただ実際の「シユマチセビラ」はオイチャヌンペ川の *南側* にあったと考えられるので、川名を取り違えたと言うよりは作図の際に位置を間違えた可能性がありそうな気がします。

となると現在の「ポン美瑛川」が「ルーチシポクオマナイ」だったのか? と考えたくなります。「ポン美瑛川」が「{山の鞍部}・下・そこに入る・川」と呼ぶに相応しいかですが、大抵の川は山の鞍部の麓から流れているので、当たり前じゃないかと言われたら返す言葉がありません(汗)。

現在の川名は「島牛川」なので「シユマチセナイ」とは少々異なりますが、suma-us-nay で「岩・ついている・川」をそのまま漢字にした可能性があるのではないか……というお話でした。

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