2022年2月4日金曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (222) 「樺太の連絡船と鉄道」

「稚内市北方記念館」の話題をもう少しだけ続けます。海と灯台と、遠くに島(樺太でしょうか)が描かれている壁画の手前には、船の模型が飾られていました。
これは「稚泊連絡船」として稚内と大泊(現在のコルサコフ Корсаков)の間を結んでいた「亜庭あにわ丸」の模型のようです。
樺太の玄関口だった「大泊」については、次のように紹介されていました。文中には 1941 年時点で人口 21,779 人とあり「樺太第二の都市に成長」とされていますが、少なくとも人口の面では「豊原支庁」の中でも「落合町」のほうが多く、また「敷香町」「塔路町」「恵須取町」は 3 万人を超えていたので、南樺太の市町村としては 6 番目に人口の多かった町ということになりそうです。

「稚泊連絡船」と「稚斗連絡船」

稚内と、樺太の玄関口だった大泊を結んだ「稚泊連絡船」を紹介するパネルもありました。航路開設時の船の名前が「壱岐丸」で「???」となったのですが、関釜かんふ連絡船から転用されたとのこと。
北海道と樺太を結ぶ定期航路は「稚泊連絡船」の他にも、民間会社によって稚内と本斗(現在のネヴェリスク Невельск)の間にも開設されていました。大泊港のある「亜庭湾」は冬場に氷結することがあったようですが、西海岸は沿岸流の関係で流氷が来ないというメリットがあったのかな、と想像したりします。
また、そもそも稚内から「稚泊連絡船」で大泊を経由して樺太西海岸に向かうのは遠回りとなる上に、稚泊航路が開設された時点では豊原と(西海岸の)真岡を結ぶ「豊真線」が未開通だったこともあり、稚泊航路開設の翌年に稚内から直接(西海岸の)本斗を結ぶ航路が開設された、ということのようです。
「稚斗連絡船」には「【ちと れんらくせん】」という読み仮名が付記されていますが、明らかに 3 文字目が消された形跡があります。これはもしかして「う」が消された……とかでしょうか。「斗」を「闘」の略字として使う流儀もあったかと思いますので、そうなると「斗」を「とう」と読んでもおかしくない……とも考えられる、かもしれません。

樺太鉄道地図

連絡船で樺太に上陸してからの交通手段としては、鉄道の建設が進んでいました。樺太最大の都市となる豊原が海から離れた場所に位置していたこともあり、大泊と豊原の間に軍用軽便鉄道が建設されたのが「樺太の鉄道」の始まりだったようです。
パネル内で紹介されていた「樺太鉄道地図」と同じもの(複製だと思いますが)が別のパネルに入れられて、イーゼルに置かれていました。「樺太鉄道地図」というネーミングからは南樺太の鉄道路線図のように思えてしまいますが、これは「樺太鉄道」という鉄道会社の路線図だったようです。
この路線図では終点が「南新問」となっているので、1930 年から 1936 年頃の路線図ということになりそうですね。

豊真線のループ橋

大泊から豊原を経由して栄浜(現在のスタロドゥプスコエ Стародубское)までの間は、既に 1911 年(明治 44 年)に「樺太庁鉄道」の「泊栄線」が開通していましたが、豊原と西海岸の真岡の間を結ぶ「豊真ほうしん」の全通は 1928 年(昭和 3 年)まで待たされることになります。
樺太の東西を横断する鉄道は峠越えが必要となるため、「豊真線」は雄大なループ橋を建設することで峠越えを実現しました。
これは同じループ橋を山側から眺めたものでしょうか。昭和初頭に建設された橋梁にしては随分と近代的な構造に見えますね。

最後の稚泊航路

やがてソ連の対日参戦により南樺太は戦場となり、住民の内地への避難が行われるようになります。稚泊連絡船「宗谷丸」は 1945/8/22 にソ連軍の「航行禁止令」を無視して大泊を出港し、これが稚泊航路の最終就航になったとのこと。
さすがのソ連も疎開船を撃沈するようなことは無かった……という筈も無く、同日(1945/8/22)には留萌の沖合で「三船殉難事件」が起こっていました。

連絡船の襲撃はもちろんソ連軍だけではなく、1945/7/14 には米軍により青函連絡船 11 隻が沈没、または航行不能に追いやられています。翌日には唯一の生き残りだった「第一青函丸」も空襲され沈没しています。

そう考えると「稚泊連絡船」が終戦まで生き残ったのは奇跡的に思えてきますが、実は「亜庭丸」が壊滅した青函連絡船の代船として転用され、1945/8/10 に空襲で沈没していたとのこと。これまで米軍の空襲を受けることなく、また「三船殉難事件」の当日に大泊から稚内まで無事帰着した「宗谷丸」は、実はもの凄い豪運の持ち主だったのかもしれません。

1945 年・夏

2 階展示室の一角には「樺太──1945年(昭和20年)夏」と題されたエリアがあり、9 人の女性の写真が掲出されていました。
1945/8/20 の真岡における「九人の乙女」の悲劇はご存じの方も多いと思いますので敢えて詳細は語りません。こういった悲劇は二度と繰り返してはならないことで、そのために法的な「安全装置」を設けた筈なのですが、その「安全装置」を無力化しようとする試みが進んでいるのは残念でなりません。
「九人の乙女」の写真の横には、何故か戦後の電話交換機が展示されていました。「電話交換手って何? 勝手に繋がるんじゃないの?」と疑問に思う世代への配慮でしょうか。
樺太と北海道を結んでいた海底ケーブルが展示されていました。今では遠距離間でも衛星経由で通信できる……と思われるかもしれませんが、帯域や遅延を考えると、海底ケーブルの優位性は今も変わらないようです。

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