2022年2月3日木曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (221) 「樺太日露国境標石」

「樺太鳥瞰図」と題されたパネルが貼られた一角にやってきました。よく見ると奥の方に「大韓航空機撃墜事件」のエリアが見えますが、実は 2 階展示室の中でも外れの方に位置しているんですよね。
パネルの横には巨大な「樺太鳥瞰図」があります。西側から南樺太を俯瞰したものですが、この構図だと真岡まおか(現在のホルムスク Холмск)から泊居とまりおる(現在のトマリ Томари)のあたりが「東海道」のようなメインルートに見えてしまいますね。実際には右側奥に見える豊原とよはら(現在のユジノサハリンスク Южно-Сахалинск)のあたりが北海道における札幌相当の位置づけなのですが……。
この鳥瞰図も、やはり吉田初三郎の作品だったようで、昭和 10 年代の樺太を描いたものとのこと。ところで、実際にこの鳥瞰図が描かれたのはいつ頃だったのでしょう。稚内エリアの鳥瞰図は戦後に入ってからの作品でしたが……。

豊原市鳥瞰図

南樺太の中心都市にして唯一の都市でもあった「豊原」の鳥瞰図もありました。画風やレタリングの雰囲気がいかにも戦前っぽい感じがしますが、実は 1979 年に制作されたものなのだとか。

樺太の歴史

「樺太の歴史」と題されたパネルが貼られていました。帰属をめぐる複雑な経緯とともに、北海道と樺太を結ぶ航路(船舶)の開設についても触れられています。
「樺太の歴史」を殊更難解にしているのが 1855 年の「日露和親条約」で樺太を「両国民の混住の地」としたことで、実際に条約の締結前にはロシア軍が南樺太を「占領」する事件も起こっています。

この事件については「サハリン島占領日記 1853-54」という題で和訳された書籍も刊行されていますが、そう言えばこの年表には出てこないですね……(和訳が出たのが 2003 年なので、それまでは余り知られていなかった?)。

樺太は長い間「島」であるか「半島」(大陸と陸続き)であるかすら不明だったくらいで、大陸とも交易が幅広く行われていました。蝦夷地(北海道)にも樺太経由で大陸産の品が入ってきていたようです。
前述の通り、樺太は「日露和親条約」で「両国民の混住の地」となりましたが、それ以前から複数の民族が暮らしていました。
パネルでは「樺太アイヌ」「ウイルタ」「ニヴフ」「サンタン」が紹介されていますが、「サンタン」はアムール川流域の民で、「ウイルタ」「ニヴフ」も大陸系の民族です。

一方で「アイヌ」はカムチャツカあたりから千島列島を経由して北海道にやってきたのではないかという説もあるようで、少なくとも「ニヴフ」や「ウイルタ」とは異なる方面からやってきた民族ではないかと見られます。
樺太を中心に据えて見た場合、「ウイルタ」「ニヴフ」は北(大陸)からやってきた民族で、「アイヌ」は南(北海道)からやってきた民族と見ることもできるかもしれません。そういったこともあり、樺太アイヌの多くは南樺太に居住していたようです。

1935 年・サハリンのアイヌ文化の記録

「樺太アイヌ」と言えば、登別生まれの知里真志保が一時期樺太で教鞭を執る傍らで調査を行っていたと聞いていますが、久保寺逸彦も現地調査を行っていたとのこと。
この現地調査には久保寺逸彦の師である金田一京助も同行していたのだそうで、金田一京助は 1907 年に「オチョボッカ」(後の落帆村 → 富内とんない村)で樺太アイヌ語の調査を行っていましたから、28 年後に再び樺太を訪れたことになりますね。

樺太日露国境標石

島国である日本は陸上の国境線というものを持つことはありませんでしたが、ポーツマス条約で南樺太を獲得したことで、初めて「国境線」というものを持つことになります。
土地には区画線の位置を示す「標石」が置かれていることが多いですが、国境にも同様に「境界標石」「中間標石」「中間標木」を置いたとのこと。
これは「第 4 号標石」のレプリカですが、オリジナルの所在は不明なのだそうです。

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