こちらは毎度おなじみ、川ではなく河跡湖(三日月湖)の「智恵文沼」でした。ちなみに「智恵文」という地名自体が chep-un-to(魚・入る・沼)の音訳と言われていますが、全く同名の河跡湖ができてしまったので何ともややこしいことに……。
智恵文駅(W51)
河跡湖「智恵文沼」が離れていったなーと思っている間に列車は速度を落とし、智恵文駅に到着です。ご覧の通りのダルマ駅舎ですが、勇知駅や問寒別駅、筬島駅のような「更新工事」が行われたもののようですね。どちらかと言えば、智恵文駅のほうが先に手直しが行われたようで、既にちょいとくたびれた感じすら漂います。北海道の自然環境は過酷ですからね……。
もはや言わずもがなですが、「本場の味」はサッポロビールですね。
智恵文駅は 1911 年に名寄から恩根内までの路線が開通した際に設置された「初期メンバー」の駅のひとつです。かつては貨物扱いもあったのですが、駅前の農業倉庫らしき建物の存在もそのことを裏付けているようですね。
それでは、次の「北星駅」に向かいましょう。
北星駅(W50・2021/3/13 廃止)
智恵文を出発して僅か 2 分ほどで 4326D は速度を落とし停車しようとしていました。駅のすぐ手前で踏切を渡り……北星駅に到着です。ちょいと先に川が見えていますが、こちらは正真正銘、本物の天塩川です。
北星駅は線路の北側にホームがあり、少し離れたところに待合室が存在していました。駅前には民家が数軒見えるのみですが、古い航空写真などを見ると、どうやら昔から民家の数はそれほど多くなかったように見えます。
智恵文駅と北星駅の間は僅か 1.9 km しかありませんでしたが、北星駅は 1959 年になんといきなり駅として新設されています。当時の国鉄は随分と大盤振る舞いだったのだなぁ……という風にも感じられますが、ここも「上雄信内」のあたりと似たような感じで、近くに天塩川を渡る橋がなく、また鉄道に並行する道路事情が貧弱だったことが考慮された、ということのようです。
北星駅と言えば、「毛織の北紡」のホーロー看板が貼られた駅舎が有名でしたが、しっかりと「本場の味」も存在をアピールしていました。この「北星駅」も「極端にご利用の少ない駅」に見事にノミネートされ、他のいくつかの駅とともに今年 3 月に廃止されてしまいました。
謎の潰れた乗用車
北星駅の南側には天塩川との間に平地があり、農地として利用されています。ん、あれは……?どこからどう見ても乗用車ですが、よく見ると車体後部が見事に潰れてしまっていますね。雪道でスリップしてロールオーバーでもしたのかと思いましたが、ここは農地のど真ん中です。普通に考えれば「不法投棄」なんでしょうけど、だとしてもどうやってここまで車を運んできたのかという謎が残ります。
Google マップの航空写真でも、それらしき車体を確認できます。牧草地っぽいのでトラクターが入る道はあるようですが、私道のような気もしますよね。使わなくなった車を農場主の方が倉庫代わりにしていたという可能性も……あるかも?
宗谷本線は、ふたたび天塩川のすぐ横の隙間をすり抜けるように走ります。この崖はそれほど長いものではありませんが、並行する道路は存在しません。
吉野川を渡ります。結構な水量ですが、九度山と朱屋朗山の間を流れる川で、源流の一つである「ピヤシリ沢川」を遡ると「ピヤシリ山」に辿り着きます。やはり雪解け水を集めるこの時期は元気がいいですね。
智東駅(廃止)
吉野川の前後には平地が広がっていて、天塩川にかかる「東恵橋」とつながる道路が整備されています。吉野川沿いには住友ゴムのテストコースもあるので、テストコースに出入りするための唯一の道路でもありますね。川沿いの平野部(テストコースの南)は農地として利用されていることもあり、かつてはこのあたりにも人家が何軒かあったようです。 そして智恵文駅から 6.3 km、日進駅まで 4.7 km の地点に、かつて「智東駅」が存在していました。1924 年に駅として開業後、1987 年に JR 北海道が発足した際に「臨時駅」に格下げされ、冬季は全列車通過という扱いになります。
おそらくこのあたりが「智東駅」の跡だと思われます。
智東駅の跡を通過すると、宗谷本線は再び天塩川のすぐ近くを走ります。ただ北星-智東間とは異なり、線路と川の間に道路が並行しています。
宗谷本線が天塩川の端っこをすり抜ける場所はこれまでもいくつもあり、もう慣れっこになっていましたが、この区間がどうやら最後とのこと。名寄から南側の宗谷本線は抜本的な改良が行われた区間ですが、名寄以北が手つかずのままなのも理解できてしまいますね。
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