2021年11月23日火曜日

「日本奥地紀行」を読む (125) 六郷(美郷町) (1878/7/20)

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第二十信(続き)」(初版では「第二十五信(続き)」)を見ていきます。

この記事内の見出しは高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。当該書において、対照表の内容表示は高梨謙吉訳「日本奥地紀行」(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元にしたものであることが言及されています。

葬式(続)

イザベラは、たまたま移動の途中で「相当な金持ちの商人の仏式の葬列」があることを知り、ささっと身繕いをして葬式に参列することにしました。改めて読み直してみると、凄い行動力ですよね。

イザベラの「仏式葬儀体験レポート」は例によって例のごとく仔細な描写が続き、ついには読経の瞬間を迎えます。読経は程なく終わり、間もなく出棺しようかというところです。

客が全部到着すると、お茶菓子が出された。もうもうと香が焚かれ、読経の唱和があり、やがて墓場に向かってぞろぞろと動き始めた。その間に私は寺の境内の門のところに立っていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.245 より引用)
突然「寺の境内」が出てきた印象がありますが、葬儀は亡くなった商人の自宅で行われ、その後寺院の近くの墓場に埋葬された、ということでしょうか。

 行列には亡くなった人の父や母は入っていなかった。しかし行列をしている会葬者はすべて親戚のものであると思われた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.245 より引用)
行列、すなわち葬列に亡くなった商人の父母が含まれていなかったのは、喪主という位置づけだったのでしょうか。会葬者がすべて親戚ではないかという指摘には「本当かな」と思いたくなりますが、かなり裕福な商人だったとのことなので、本家の他に分家もいくつもあったのかもしれません。

仏式葬儀体験レポート(出棺編)

自宅での読経のあと、遺体は寺院に運び込まれました。

戒名を書いた細長い木札を最初の僧が持ち、蓮の花を次の僧が持ち、次に十人の僧が続いた。二人ずつ並んで読経を唱和した。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.245 より引用)
「細長い木札」とあったので「卒塔婆かな」と一瞬勘違いしたのですが、どう考えてもこれは「位牌」のことですよね。自宅でお経を読んだあと、寺院で再び読経が行われた、ということのようです。

次に棺が来た。四人の男がそれを台に載せて運び、上に白い布がかけてあった。それから未亡人、その他の親族が続いた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.245 より引用)
これは現代でも「出棺」の風景として良くみるものでしょうか。

棺は寺の中に運ばれ、台の上に安置された。香が焚かれ、祈祷がなされ、次にセメントで縁をつけてある浅い墓場へ棺が運ばれた。僧侶が祈祷している間に、適当な高さまで土が盛られ、人々は散会した。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.245 より引用)
現代の葬儀と決定的に違うのは火葬ではなく土葬というところで、そのため「火葬場」に類する場所の描写がありません。火葬場の代わりに寺院での読経があったのかな、と考えたりもしますが、火葬場で読経があったかと言われるとちょっと記憶に無く……(しばらく身内の葬儀に立ち会ってないもので)。

派手な服装の未亡人は、お伴もなく、一人で家へ帰った。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.245 より引用)
これはちょっと気になる一文ですね。若い未亡人のその後が案じられます。

仏式葬儀体験レポート(まとめ)

飛び入りで葬式に参列したイザベラは、次のように感想を記していました。

泣き男が雇われることもなく、嘆き悲しむ様子も見えなかったが、これほどおごそかで、うやうやしく、礼儀正しい儀式はないであろう《私はそれから多くの葬式を見た。主として貧乏な人の葬式であって、儀式の手間を大分はぶいて坊さんが一人であったが、それでも儀式の端正さは特に目立った》。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.245-246 より引用)
なるほど、確かに「泣き男」のようなエキストラは、日本のお葬式では見聞きしないですよね。「嘆き悲しむ様子も見えなかった」と評されると、随分と淡々とした、あるいは淡白な印象を受けますが、これは日本人の「感情を表に出さない」という資質が現れたもののようにも思えます。イザベラは世界各国を旅しているので、どうしても他国の葬礼が比較対象になるのでしょう。

僧侶に対する謝礼は二円から四十円あるいは五十円まである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.246 より引用)
そう言えば「地獄の沙汰も金次第」という格言は何時頃からあるのでしょうか。「格差社会」というキーワードも脳内に浮かびますが、どちらかと言えばそれ以前の「封建社会」の残滓のような気もしますね。

墓に土を盛ってしまうと、その上に実物大の桃色の蓮を立てる。また、漆塗りのお盆をあげる。その中には、お茶や酒、豆、菓子をのせた漆塗りのお椀がある。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.246 より引用)
「お供え」の風習ですね。日本ではごく当たり前の風習ですが、諸外国ではどうなのでしょう。墓標のあるところ「お供え」ありなのか、必ずしもそうとも言えないのか、ちょっと気になるところです。

「諸礼筆記」による服喪のルール

ここからは「普及版」ではカットされた部分ですが、日本人が「喪に服す」際の決まりや作法について、かなり詳しく記されています。イザベラが単なる興味で記したと言うよりは、将来の植民地候補の理解を深めるための内容という側面もあったんじゃないか……と考えたくなりますね。

「諸礼筆記」(原文では Shorei Hikki)という冠婚葬祭のルールを示した書物があったようで(1706 年)、「両親を埋葬した際の服喪」については次のように記されていたようです。

適切に儀式が執り行われた後、父であれ母であれ親に対する服喪が 50 日間続き、その期間は子どもたちは酒を慎み、その間毎日、他の寺でも宮でもなく、埋葬の行われた墓と寺を訪れなければならない。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.89 より引用)
ちなみに「父母」ではなく「夫や妻、兄弟姉妹や子」については、日参の期間が 50 日ではなく 20 日に短縮されます。兄弟や子よりも両親を重視するのは儒教的な色合いを感じさせますね。

両親の場合、喪の第 2 期は 1 年間続き、前述の親戚の場合は 90 日間であり、そして両親ないし夫の服喪期間を守らないと 1 年間の罰則の苦役が課せられる。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.89 より引用)
50 日間(あるいは 30 日間)の日参を終えても、その後 1 年間(あるいは 90 日間)は服喪期間として慎み深く振る舞うことが求められ、またそれが守られなかった場合に罰が与えられたとあります。

 友人たちは 7 日目に、そしてその後 50 日過ぎるまで 7 日ごとに墓参りをしなければならず、50 日目には、僧侶がお経をあげ、弔問者たちは供物を取り替える。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.89 より引用)
これは現代でも「初七日法要」あるいは「四十九日法要」として執り行われる儀式のことでしょうか。日本の仏式葬儀に慣れた者にとっては割と当たり前の儀式ですが、そう言えば他の仏教国でも似たような法要が存在するのでしょうか?

百ヵ日目に儀式的な墓参が行われ、このとき墓石が建てられる。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.89 より引用)
現代では予め「家の墓」を建てておくケースが少なくないと思いますが、これが「正しい作法」だったのでしょうか。

次の墓参は命日に行われ、三回忌、七回忌、十三回忌、十七回忌、五十回忌、百回忌が行われる。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.89 より引用)
「三回忌」と「七回忌」は割とすんなりと出てきますが、その次は「十三回忌」でしたか。素数が多いですが 11 はスキップされているので、これも何か意味があるんでしょうね……。

戒名を書いた位牌を死後、家の仏壇に置き、同様のものを寺の棚(位牌堂)にも置き、僧侶に対する遺族の気前のよさに応じてその前に食べ物を供える。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.89-90 より引用)
お供えの充実ぶりは「遺族の気前の良さ」を示していたのですね(汗)。

日本人の「死者への崇拝」

「諸礼筆記」による法要や墓参のルールについて詳述した後、「墓参り」の姿から見た日本人の「死者への崇拝」についてのイザベラの分析が続きます。

 親戚の定期的な墓参りのとき、漢字かサンスクリットを書いた木片または長い木の板(卒塔婆)が、墓石にあげられる。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.90 より引用)
お、今度こそ「卒塔婆」の登場ですね。お墓に時折新しそうな卒塔婆を見かけますが、なるほどあれは定期的な法要の際に供えられていたのですね。

この死者への崇拝のすべては、しかしながら、中国の祖先崇拝とはまったく異なっています。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.90 より引用)
大変興味深い指摘ですが、残念なことに詳細が記されていませんでした。江戸時代……要するに徳川家が支配する封建社会……では「朱子学」が重視されましたが、これって要は「儒教」ですよね。日本における葬礼の作法も江戸時代に体系化された(前述の「諸礼筆記」などによる)と思われるのですが、それでもイザベラの目には「朱子学」の母国での作法と「まったく異なっている」と映ったというのはどういうことなのでしょう。

イザベラは 40 代で日本旅行をした……というところまでは覚えているのですが、その前後にどこを旅していたかは詳しく覚えていませんでした。この表現からは既に中国(清国)を旅していたようにも見えますが、イザベラが実際に中国を旅したのは「日本奥地紀行」の 16 年後だったようなので……謎ですね。まぁ、実際に旅をする前から書物などで現地の文化の理解に努めていた、ということなのだと思われますが……。

埋葬と喪の礼儀は非常に厳格な規則により統制されています。葬式は多々ある仏教の宗派の流儀によって異なりますが、しかし、常に仏教の僧侶の手によってなされます。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.90 より引用)
これもちょっと興味深い指摘でしょうか。江戸時代の「僧侶」が地方公務員のような権力を手にしていた……と言うと語弊がありそうですが、少なくとも葬祭に関しては公権力に限りなく近いものを握っていたと言えそうな気もします。「寺小屋」なんかもそうですが、農村の統治における非公式な構成員と言った感じでしょうか。

最後に、ちょっと長いですが最後のセンテンスを丸々引用させてください。

 同書は喪服者に関して以下の留意点を挙げているが、その最後の二つは、我が国においても全くあてはまらないというわけでもないのです。「友人や近所の人たちの葬式に招かれた時は、派手な着物や儀式の装いを避け、棺に付き添うときは、隣の人に大声で話しかけてはならないし──それは非常に無作法なことですから──、可能なときでも、葬式からの帰り道は飲み屋やお茶屋に寄ってはいけない。」
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.90 より引用)※ 原文ママ
このあたりの「文化の違いを越えた類似性」がどのようにして形成された(獲得した)のか、学問的な研究対象としても面白そうです。

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