2021年11月3日水曜日

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「日本奥地紀行」を読む (124) 六郷(美郷町) (1878/7/20)

 

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第二十信(続き)」(初版では「第二十五信(続き)」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。当該書において、対照表の内容表示は高梨謙吉訳「日本奥地紀行」(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元にしたものであることが言及されています。

葬式(続)

今更ながらではあるのですが、この「葬式」といった見出しは、その殆どを高梨謙吉訳「日本奥地紀行」(平凡社)から引用しています(これまで明記できておらず申し訳ないです)。ただ、今回の「葬式」という見出しは「日本奥地紀行」には存在せず、高畑美代子さんが「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」において「便宜的に付けた小見出し」とされています。

「日本奥地紀行」の内容(トピック)表示は目次において行われていて、本文ではどのセクションがどの内容表示に相当するかは明記されていません。そのため時折ひとつの内容(トピック)が僅か数行で終わっている場合があったり、段落が分けられていない場合すらあります。

ところが今回の「葬式」のトピックは「普及版」だけでも 4 ページに亘る上に、「完全版」では更に 1 ページ近くが費やされているにも関わらず、トピックとしては「鳥居」のままとなっています。これは極めて不審であるという訳ではありませんが、分量のバランスを考えると何とも奇妙に思えます。

邪推をするとイザベラは仏式の葬儀に参列したことを目立たせたくなかったのか……と考えたりもしますが、仏式の葬儀に参列することがタブー視されるものかどうかもよくわからない、というのが正直なところです。

仏式葬儀体験レポート(棺桶編)

ちなみに、この「仏式葬儀──」という小見出しは完全なオリジナルです(一つのトピックであまりに文章が長くなる場合に、便宜的に付与しているものです)。

 六郷の近くの大曲オーマゴリという町で大きな素焼きの甕が製造され、金持ちは、死体を収容するときこれを用いることが多い。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.243 より引用)
「六郷の近くの大曲という町」は、現在は秋田新幹線の「大曲駅」のある「大仙市」のことと思われます(六郷から大曲までは 10 km ほどです)。遺体は木製の棺に横たえるものだ……と思っていたのですが、壺の中に遺体を折り曲げて収容するというクラシックな作法も残っていたことに驚かされます。

しかしこの場合には、二つの四角の箱があった。外側のものは、松材をていねいに削ったものである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.243 より引用)
この文脈で「しかしこの場合には」というのはちょっと唐突な感じがしますが、原文を見てみると……

At Omagori, a town near Rokugo, large earthenware jars are manufactured, which are much used for interment by the wealthy; but in this case there were two square boxes, the outer one being of finely planed wood of the Retinospora obtusa.
(Isabella L. Bird, "Unbeaten Tracks in Japan" より引用)
あー、なるほど。割とそのまんまだったようで、「この場合には」ではなく「今回の場合は」と訳出したほうがより自然だったでしょうか(時岡敬子さんは「今回は」と訳していました)。

Retinospora obtusa についても高梨さんは「松材」としていますが、時岡さんは「檜材」としています。ちらっと調べたところでは Retinospora obtusa は「ひのき」を指すのが現在では一般的なようです。

 貧乏な人は、いわゆる「早桶ハヤオケ」で、松材の桶に竹のたがをかけ、蓋をしたものである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.243-244 より引用)
ふーむ。どうやら「ひつぎ」も「壺(かめ)」も富裕層が用いるもので、庶民は遺体を「桶」に入れられていた、ということなんですね。この作法は全国的に一般的だったんでしょうか……? そう言えば今でも「棺桶」という表現を使用しますが、これって「棺」と「桶」なんですよね。

そしてまたしても「松材」ですが、こちらは原文では a covered tub of pine hooped with bamboo とありました。pine なので間違いなく「松」なのですが、もしかして直前の「松材をていねいに削ったもの」は「松材の桶」に引きずられたうっかりミスだったりするんでしょうか……?

イザベラは例によって、微に入り細に入った記述を続けます。興味深いのは、今回偶然参列することになった「相当な金持ちの商人の仏式の葬式」だけではなく、「一般的な作法」についても併記されていることなんですが、これはどこから情報を仕入れたのでしょう。全ては有能な通訳であり有能な助手でもあった伊藤の入れ知恵なのか、あるいは伊藤の先に情報源がいたのか……?

大金持ちは棺に朱砂を詰める。非常に貧乏な人は籾殻を用いる。しかしこの場合に、朱砂を詰めたのは口と鼻と耳だけで、棺には粗い香を詰めたそうである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.244 より引用)
「この場合に」は「今回の場合は」と読み替えたほうがしっくり来るかと思います。棺に朱砂ではなく「粗い香」を詰めたのは「相当な金持ち」だった証なんでしょうか。

亡骸はふつう坐る姿勢で桶や箱の中に置かれる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.244 より引用)
これは「屈葬」のことだと思われますが(違っていたらすいません)、明治時代に入ってもこのやり方が残っていたというのはちょっと意外でした。

屈葬ということは遺骸を折り曲げることになるのですが、「死後硬直」にはどのように対処したのだろうという疑問が出てきます。我らがイザベラ姐さんも同様の疑問を抱いたようで、次のように記していました。

人間の身体が、死後数時間して、箱の大きさぎりぎりのところまで入れるとはいえ、限られた空間にどうして押しこめることができるのか、私には分からない。硬直している死体を押しこむには、坊さんが加持祈祷をした土砂ドシャと呼ばれる砂をまけば死体は柔軟になるという。しかしこの説も破られたから、この作用は依然として謎である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.244 より引用)
これは……謎ですよね。

仏式葬儀体験レポート(葬儀編)

ここからは、現在で言う「告別式」の模様が詳述されています。もっとも現在の仏式の葬儀と似ているかと言われると、ちょっと確証は持てないのですが……。

 家の玄関の外側には小旗や飾りの棒が立っている。青い服装の上に翼に似たうす青い羽織をはおった二人の男が来る人を接待し、もう二人の男が水を入れた椀と白絹クレープの手拭いを差し出した。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.244 より引用)
これは「受付」に相当する仕組みですね。確かにそのようなものがあったような気も……。

私たちはそこから大きな部屋に入ってゆくと、部屋は非常に美しい多くの衝立で囲んであった。その襖には、蓮、鶴、牡丹が全くの金地の上に生きいきと描かれていた。部屋の隅に棺があり、白絹の覆いの下に安置してあった。その下の架台には、造花の白い蓮が非常に美しく並べてあった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.244 より引用)
こちらはなんとなく想像がつきますね。ふすまに蒔絵があったのは葬儀のためではなく、元々そのような襖のある部屋だったのかと想像しますが、実際はどうだったのでしょう。

亡骸の顔は北に向けてあって、六人の僧が非常に豪華な衣裳をして、棺の両側に坐り、さらにもう二人の憎が小さな臨時の祭壇の前に跪いていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.244 より引用)
「顔は北に向けてあって」という表現には若干違和感がありますが、そう言えば「屈葬」だったんですよね。ということは、甕(壺)の中に体育座りをした遺骸があり、その顔が北を向いていた、ということでしょうか。

「六人の僧が非常に豪華な衣裳をして」というのは、いかにも裕福だった商人の葬儀に相応しいものでしょうか。

 未亡人はきわめて美しい女性であったが、亡くなった人の近くに坐り、父と母の下座にあった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.244-245 より引用)
「父と母の下座にあった」ということは、亡くなった商人は比較的若かったということなんでしょうか。

彼女の後ろに子どもたち、親戚、友人が来て並んで坐った。いずれも青と白の羽織を着ていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.245 より引用)
現在では、お葬式と言えば黒づくめの喪服というイメージがありますが、喪服が「黒」になったのは明治中期以降という説もあるようで、イザベラが「青と白の羽織を着ていた」と記していることとも符合しています。

未亡人は顔を白く化粧し、唇は朱で赤くしていた。髪はていねいに結われており、彫刻のある鼈甲のかんざしで飾っていた。彼女は空色の絹の美しい着物を着て、りっぱな白クレープの羽織をまとい、真紅のクレープの帯は金の刺繍がしてあった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.245 より引用)※ ルビは引用者による
これは現在の葬式では見ることのできないスタイルでしょうか。イザベラは未亡人のことを「結婚式当日の花嫁のように見えた」と記していて、「葬式というよりもお祝いのよう」とも記しています。

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