2021年9月23日木曜日

「日本奥地紀行」を読む (123) 横手(横手市)~六郷(美郷町) (1878/7/20)

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第二十信(続き)」(初版では「第二十五信(続き)」)を見ていきます。

葬式

イザベラは横手市内の神社(詳細不明)をこっそり視察した後、すぐさま北に向かって出発したようです。

 横手を出ると、非常に美しい地方を通過して行った。山の景色が見え、鳥海山チョーカイザンがその雪の円屋根をときどきのぞかせた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.242 より引用)
「雪の円屋根」という表現はちょっと詩的なものですが、原文では the snowy dome となっていました。……割とそのままと言うか、なるほどそう来たか、という感じの訳ですね。ちなみに時岡敬子さんは「雪をかぶった鳥海山頂」と訳していましたが、時岡さんの訳のほうがスムースな感じがしますね。

モノ川は最近の出水で土手を崩し橋を流していたので、二隻の危なっかしい渡し舟で横切った。そして六郷ロクゴーという人口五千の町に着いた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.242 より引用)
これはちょっと理解に苦しむ文章です。意味するところは明瞭で「雄物川を渡し舟で渡った」ということなのですが、横手から六郷(仙北郡美郷町)に向かう場合は雄物川を渡らない筈なんですね。可能性のある話としては、これは「雄物川」ではなく「横手川」での出来事だったか、後に雄物川を渡る際のエピソードを誤った場所に挟んでしまったか、と言ったところでしょうか。

ここはりっぱな神社や寺院があるが、家屋は特にみすぼらしかった。群集が猛烈に押し寄せてきたので、私はこのときほど窒息しそうになったことはない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.242 より引用)※ 原文ママ
イザベラはこれまで何度も行く先々で群衆の好奇の視線に晒されているのですが、ここでも相変わらずだったようです。イザベラにとっても、そして読者にとっても「またかよ」という話なのですが、イザベラは毎度毎度表現を変えながら自らの苦難を語ってくれていて、律儀だなぁと……。

仏式の葬式に参列

イザベラは北海道の平取を目指して旅をしている訳ですが、同時に「日本への理解を深める」ことも目的としていたように思われます。各地の産業(農業のみならず工業も)の情報が異様なほど詳細に記されているのは、日本という「謎の国」に関する正確な情報を欲していたイギリスの意向が反映されていたものと考えられますが、これは言ってしまえば「イギリスが日本を食い物にするための基本情報」となる性格のものだったと(個人的に)考えています。

一方で、「牧師の娘」でもあるイザベラは「日本人の宗教観」にも多大な関心を寄せていたと考えられます。教会もイザベラの旅のスポンサーだったこともあってか、「未来の信者候補」の冠婚葬祭についても、これから実に事細かくレポートされることになります。

 そこでは、警察の親切な取り計らいのおかげで、相当な金持ちの商人の仏式の葬式に参列することができた。その厳粛さと端正さは、大いに私の興味をそそった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.242 より引用)
普通は「通りすがりの外国人」がお葬式に呼ばれるわけも無いわけで、どこからかその情報を聞きつけたイザベラが参列を申し出た、と考えるのが自然ですよね。

「伊藤」黒幕説

毎度のことながら「時の人」になってしまったイザベラが葬儀に参列するとなっては大騒動になりそうなものですが……

私は日本の婦人の着物を茶屋から借りて、頭に青い頭巾をかぶって行ったから、誰にも気づかれなかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.242-243 より引用)
葬儀に参列する段取りは「通訳」兼「付き人」の伊藤が調整したとして、イザベラの着付けは誰か別の人間が行ったと考えるのが自然かと思います。着付けを行った人物はイザベラが葬儀に参列することを聞かされていなかったのか、あるいは伊藤が口止めしたか……と言ったところでしょうか。

最近イザベラをスパイ呼ばわりしてしまうことが多いのですが(ぉぃ)、改めて考えてみると伊藤も「優秀なスパイ」の素質のある人物ですし、下手をすると「二重スパイ」だったとしても不思議の無さそうな人物でですよね。

イザベラがこれまで着物を着たことがあったのかどうかは不明ですが、やはり慣れない着物にはストレスを感じたようで、「非常に疲れを感じた」と記していました。イザベラが疲れを感じた理由は他にもあったようで……

私のなすべきこと、してはいけないことを、伊藤は多く指図したので、それを忠実に守った。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.243 より引用)
あー。まぁ当然だろうと言えばそれまでですが、イザベラの一挙一投足は全て「監修:伊藤」だったということですね。後に「通訳の元勲」と称されることになる伊藤も、この時は未だに「駆け出しの兄ちゃん」だった筈なのですが、年齢の割に異様にしっかりしていたということがわかるエピソードです。これはやはり二重スパイの可能性が

私はただ、外国人を親切にも出席させてくれた人々の気に触らぬようにとのみ心配していた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.243 より引用)
イザベラが葬儀に参列できたのは「警察の親切な取り計らい」があってのことだったようですが、なるほど、警察から他の参列者にも話が通してあったということですね(これもよく考えたら当たり前の話ですが)。

事前に警察とのネゴシエーションを行ったのは伊藤だと思われるのですが、もしかしたらハリー・パークス公使の名前などもちらつかせながら、警察が首を縦にふるしか無い状況を作り出した……ということなのかもしれません。このエピソードは「伊藤黒幕説」で考えてみると色々と楽しめますね(ぉぃ)。

仏式葬儀体験レポート(遺体編)

イザベラの「仏式葬儀体験レポート」は、内容の具体的な描写に入りました。

ふつう死亡したときには、頭を北向きにする《北は、日本人が生存中は用心して避ける方角である》。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.243 より引用)
これは、日頃は「北枕」を避けるという話ですね。

そしてフスマの近くに安置し、襖と亡骸なきがらの間に新しいおゼンを置く。その上に油皿を置き灯芯の火を灯し、米の練り粉のなまのままの団子と、一皿の線香をあげておく。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.243 より引用)
燭台とお供えと線香の話ですね。このあたりの風習は今もそれほど変わらないような気もしますが、最近はそもそも自宅で葬儀を執り行うこと自体が少なくなっているようにも思えるので、もしかしたらもっとシンプルになっているのかもしれませんが……。

人が死ぬと坊さんは、直ちに戒名カイミョー《死後の名前》を選び、白木の位牌に書き、死体の傍に坐る。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.243 より引用)
「戒名」の理解についても、それほどおかしな点は見当たりません。このあたりの考え方は、今以上に広く人口に膾炙していたものと考えられそうでしょうか。

ゼン、お椀、お茶碗などに精進料理を盛り、その傍に置く。お箸はお膳の逆の位置、すなわち左側に置く。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.243 より引用)
遺体の脇に精進料理を盛る……とありますが、これは今も行われる作法なのでしょうか……? 仏壇にご飯を供えるのは日頃から行われる作法だったかと思いますが、それと同列のものでしょうか。ただ仏壇にはお箸は供えないですよね。

四十八時間が経つと、死体をお湯でゆすぎ、棺に入れる支度をする。坊さんはお経を唱えながらその頭を剃る。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.243 より引用)
お坊さんが遺体の頭を剃るというのは、これはさすがに現在では見かけないですよね。戒名を授けられる時点で仏様に弟子入りしたことになるので、遺体も得度が必要だ、ということなんでしょうか。

金持ちも貧乏人も、すべての場合に、着物はふつうの製品であるが、真白いリンネルか木綿である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.243 より引用)
遺体が白装束を纏うのは、イザベラが旅した時代から不変のようですね。

イザベラの「仏式葬儀体験レポート」は非常に仔細なもので、実はこの後もまだまだ続きます。もはやスポンサー向けの内容というレベルを超えて、比較宗教学、あるいは文化人類学のテキストとできそうな内容ですが、主題である「冒険譚」からやや離れたトピックであると思われる割には「普及版」でも多くがカットされずに残されていることからも、イザベラもこの項は幅広い読者に対して意味のある内容だと考えていたのかもしれません。

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