2021年9月20日月曜日

「日本奥地紀行」を読む (122) 横手(横手市) (1878/7/20)

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第二十信(続き)」(初版では「第二十五信(続き)」)を見ていきます。

鳥居

夕食に血のしたたるビフテキを食すという夢が儚くも崩れ去った傷心のイザベラでしたが、翌朝はお忍びで神社見学?に向かいました。

 宮の境内に入るのに、例によって鳥居トリイをくぐった。鳥居は二〇フィートの高さの二本の大きな柱からなり、横にはりをわたしてある。上の梁は柱の上に突き出ており、両端が上にはねていることが多い。よくあることだが、全体がにぶい赤色に塗られていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.242 より引用)
まずは毎度のことですが、「鳥居」に関する形状の描写から入ります。20 ft は約 6 m ですから、神社で見かける一般的なサイズの鳥居でしょうか(村の祠の鳥居であれば、もう少し小さい気がします)。「にぶい赤色」というのは、現在良く見かける「朱色」よりも「緋色」に近いものだったのかな、と想像したりします。

イザベラは「鳥居」の名の由来について、「奉納された鳥が鳥居の上に良く止まるようになったから」ではないか、と記しています。鳥居には注連縄が架けられている場合がありますが、その注連縄については次のように記していました。

注連縄には藁の飾り房と紙片が下がっていて、入口にかけ渡してあるが、神道の特別な象徴となっている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.242 より引用)
ちなみに原文では次のようになっていました。

A straw rope, with straw tassels and strips of paper hanging from it, the special emblem of Shintô, hung across the gateway.
(Isabella L. Bird, "Unbeaten Tracks in Japan" より引用)
原文の文脈も、訳文も、特に異論を差し挟む余地のなさそうなものです。

イザベラが訪れた神社はどこ?

イザベラが訪れた神社が一体どこにあったのかは、文脈からは読み取れなかったのですが、そこそこの規模の神社であったことは間違いなさそうに思えます。

石を敷きつめた境内には美しい花崗岩の灯寵が同じく美しい花崗岩の台座の上にいくつか立っていた。これはほとんどどこの神社でも、お寺でも、つきものとなっている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.242 より引用)
Google Map で見てみると、横手には多くの神社があることがわかりますが、山の中にある神社が多いようにも思えます。街中に広大な森を持ち、立派な鳥居と石庭を持つような神社と言えば……どこなのでしょうか。横手城の南南東に「秋田神社」と呼ばれる神社があるようですが、そこのことなのか、それとも……?

神社は「空っぽ」

「日本奥地紀行」の「普及版」では、神社に関する記述はここまでで終わっていますが、「完全版」では例によって仔細な描写が含まれていました。

 日本のこの地域では、灯寵は普通、片側を月を表す三日月にくり貫き、反対側は太陽を表して丸く開けてあるが、この徴は自然を掌る男性と女性の原理を表す中国の概念を象徴している。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.88 より引用)
ひょえー。これは気にしたことも、また考えたこともありませんでした。言われてみれば三日月型の穴もあったような気がします。神社に行く機会があれば確かめてみたいです……。

イザベラはこのあたりの素養をアーネスト・サトウの論文から得たようで、寺院と神社の違いは、神社が「その信仰のように」空っぽであるところだ、としています。寺院のお堂には立派な仏像があるのが常ですが、神社には「鋼鉄を磨いた鏡」がある以外は何もない、としています。

それどころか、サトウ氏が神道について書いている学術論文の一つで言うには、神社は時には仏教に汚染されていた場合を除いては、この鏡でさえ箱の中に封印されているという。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.88 より引用)
「御神体」が箱の中に封じられているのは、その神秘性を高めるための舞台装置とも言えそうな気もします。「御真影」が「御神体」と同レベルに、あるいはそれ以上に尊ばれるようになったのは、もう少し後の時代の話でしょうか。

イザベラが「神道」の信条を「空っぽである」としたのは興味深いことで、これは神器である「鋼鉄を磨いた鏡」そのものが信仰の対象ではないと見抜いていたようにも思えます。また「八百万の神」という言い回しにも象徴されるように、神道における「神様」は絶対的な存在ではない(無数に存在する)というところも、イザベラの宗教観とは相容れないものがあったのかもしれません。

「二拍三礼二拍」?

イザベラは、神社に詣でた人々の所作を次のように記していました。

 私が扉のまえに立っていると、数人の人々が来て戸口のところに吊るしてあるひどく擦り切れた鈴の紐を引っ張って、カラカラとひどい不協和音のする鈴を鳴らした。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.88 より引用)
「ひどい不協和音のする鈴」というのがイザベラらしいですが、確かにチャイムなどと比べると、カランコロンと鳴る鈴の音はプリミティブな趣があります。

それから、彼らは両手を叩き合わせぶつぶつと数語をつぶやき、三度お辞儀をしてから、また手を叩き、去って行ったが、この全動作はおよそ 1 分半かかった。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.88 より引用)
現在は「二礼二拍手一礼」という作法がありますが、これを「作られたマナー」とする向きもあるようです。確かにイザベラが記録した作法は「拍手 → 三礼 → 拍手」と読めますし、「二拍三礼二拍」とでも言うべきものだった可能性もありそうです。

「二礼二拍手一礼」を批判する方法論の一つとして、「祈り」の時間の欠如を挙げるものを目にしました。イザベラが記録した所作には「ぶつぶつと数語をつぶやき」とあり、これが「祈り」に相当するものである可能性がありそうです。こう考えると、「二礼二拍手一礼」は同人誌即売会における人気サークルの頒布作法と同様に、ひたすら高速化を追求したもののようにも思えてしまいます(話が飛躍しすぎでは)。

「神道」と「仏教」の補完関係

イザベラは神社への参拝について、次のような洞察を加えていました。

規則的な参拝への参加は要求されていず、神官の介在が必要とされるのは稀であり、聖職者(神官)たちの政治権力は神道ではほとんどみられず、それは将来の状況への関心もほとんどない点が仏教とは異なっている。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.88-89 より引用)
そう言われてみれば、少なくとも近所の神社から「○月○日に参拝に来るように」と言われることは無いような気もします。また神社に参拝したとしても神職の方と言葉をかわすことが無いのが通常です。

「将来の状況への関心もほとんどない」というのは、たとえば「三途の川」や「地獄」「極楽」などの、死生観にかかわる要素が見受けられないということでしょうか。そういった「人間ならではの悩み」に対するケアが行われていないように見えるという点も、イザベラが違和感をおぼえた理由のひとつかも知れません。

明治以前は「神仏習合」が当たり前だったわけですが、これは「神道」のみでは機能に足りないところがあった……ということだったような気もしてきました。現在も「うちは仏教ですから」という理由で神社への参拝を拒否する人はあまり見かけないようにも思えますし、「仏教」と「神道」は対立要素と見做されることは無いようにも思えます。

「仏教」がそれ単独で「宗教としての機能」が完全であるかどうかは……どうなのでしょう。「仏教」と「神道」が併存し、あるいは混淆してきた歴史を考えると、必ずしも仏教が完全なものであるとは言えないような気もしますが、あるいはこれが仏教の寛容性を示している可能性も考えられます。

少なくとも無数の神社が昔から綿々と続いてきたことは事実ですし、「仏の教え」がありながら「神様」への信仰が失われることは無かったのも事実なわけで。「仏教」がグローバル・スタンダードで、「神様」がアニミズムとも通じるもののあるローカルルールだったとすれば、平和裏に共存できたのもなんとなく理解できそうな気がするような……?

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