2021年9月11日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (865) 「幕別(稚内市)・ウツナイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

幕別(まくべつ)

mak-un-pet
奥・そこにある・川
(典拠あり、類型あり)
稚内空港の南に「恵北」という地名があり、かつて国鉄天北線にも同名の駅がありました。恵北には「旧海軍大湊通信隊稚内分遣隊幕別送信所」が一部崩壊しながらも現存しているのですが、この送信所は太平洋戦争の開戦を意味する「ニイタカヤマノボレ」の暗号電報を送出したということでも知られています。

駅名改称の経緯

駅があった場所なので、まずは「北海道駅名の起源」を見ておきましょうか。

  恵 北(けいほく)
所在地 稚内市
開 駅 大正 11 年 11 月 1 日
起 源 もと「幕別(まくべつ)」といい、アイヌ語の「マク・ウン・ペッ」(奥に行く川)から出たものであるが、根室本線に幕別町があり、駅名を「止若(やむわっか)」といってまぎらわしいことから、昭和 38 年 10 月 1 日、この地の字(あざ)名の「恵北」と改めたものである。
(「北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.189 より引用)
「幕別」と言えばシェイクスピア……じゃなくて十勝の幕別町を思い浮かべる方が多いと思いますが、ややこしいことに「幕別駅」は稚内市恵北にあり、現在の幕別駅(根室本線の駅)は「止若やむわっか駅」という名前でした。

「稚内」という地名自体が「ヤムワッカナイ」に由来するということもあり、かなりややこしいことになっていたので、1963 年 10 月 1 日に「幕別」駅を「恵北」駅に改めて、翌月の 11 月 1 日に「止若」駅を「幕別」駅に改めるという、玉突き型の駅名変更が行われています。

失われた「幕別」

いつ「恵北」という地名が成立したのかは、手元の資料では明らかでは無いのですが、駅名の変更が 1963 年ですから、遅くともそれ以前ということになります。大正時代に測図された「陸軍図」では、駅名を含めて「幕別」と描かれていました。

更には、恵北の西側、大沼との間を「声問川」が流れていますが、この川はもともと大沼に注いでいて、名前も「幕別川」と呼ばれていました。現在は大沼を経由しない形で新川が開削され、上流部も含めて名前を「声問川」に統一してしまったように見えます。

つまり、稚内の「幕別」は「失われた地名」であり、川名の「幕別川」も「失われた川名」のように思えるのですが、実は今も「恵北」と南の「樺岡」の間に「マクンベツ川」という川が現存しています。「幕別川」の名前が「声問川」に変えられた後に、なぜかひょっこり昔の名前で出てきた、ということでしょうか。

ということで、本項の題名は「幕別」ではなく「マクンベツ川」にすべきという説もありますが、「幕別送信所」の名前の由来が気になる方もいらっしゃるだろうということで、あえて「幕別」とさせてもらいました。どうかご了承のほどを。

「奥にある川」の意味

永田地名解には次のように記されていました。

Makun pet  マクン ペッ  後背ノ川 沼ノ後背ニアル川ニシテ此邊ノ大川ナリ
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.426 より引用)
やはり「幕別」は mak-un-pet で「奥・そこにある・川」と考えて良さそうですね。「この辺の大川」とありますが、これは(既述のとおり)現在の「声問川」のことと考えられます。

個人的にはここまでの内容でほぼ納得していたのですが、山田秀三さんは「北海道の地名」にて次のように疑問を呈していました。

幕別 まくんべつ
 大沼(シュプントウ沼)の上(南東)の川名,地名。名のもとになったマクン・ペッ「後(奥の方,山の方)にある・川」の位置がはっきりしない。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.162 より引用)
こう前置きした上で、具体的には次のように不明点が記されていました。

明治31年5万分図や,今使っている5万分図では,声問川の,大沼から上の部分を幕別川(マクンペッ)としているが,道庁河川課編河川図(5万分図)では,その部分(本流)も声問川とし,その本流に,沼から2キロ半ぐらいの処で注いでいる東小支流の名をマクンペツ川としている。何か理由があるらしい。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.162 より引用)
かつての「幕別川」は現在「声問川」となっていますが、1980 年代の土地利用図でも既に「声問川」と表記されています。「道庁河川図」の内容が正解で、山田さんの手元にあった地形図の更新が遅れていた、と考えられそうです。

「枝川」なのか「大川」なのか

「幕別」は mak-un-pet であるという点では一致しているものの、「竹四郎廻浦日記」の記録と「北海道蝦夷語地名解」(永田地名解)の記録には、実は大きな乖離がありました。

 松浦氏廻浦日記に「シフントウホ(注:大沼らしい)と云沼あり。また左り(東側)の方本川(声問川の)。ハンケホシユシナイ,ヘンケホシユシナイ,マクンヘツ,此処枝川なるが,直に又本川と逢也」と書かれていることに注意したい。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.162 より引用)
確かに「竹四郎廻浦日記」には該当の内容が記されていました。また戊午日誌「西部古以登以誌」にも「其名義枝川と云儀也」との注釈がありました。永田地名解は「この辺の大川なり」としていたので、整合性が取れないですね。

道内各地にマクンペッがあったが,その多くは本流から分かれた小分流で,少し行ってまた本流と合している川筋の名である。それを「山側に入っている川」という意でマクンペッと呼んでいた。廻浦日記の書いたマクンヘツも正にその形である。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.162 より引用)
川と川は合流するものと考えがちですが、それなりの規模の川であれば、平野部で二手に分かれるということも十分にあり得る話です。十勝の幕別のあたりも、十勝川だけでもいくつもの流れに別れてはすぐに合流していて、多くの「中の島」が形成されていました。

また古くは十勝川の分流のひとつが幕別川、あるいはその支流である途別川に注いでいたという話もあったようで、山田さんは mak-un-pet を「山側を流れる分流」と考えていたようです。

個人的には、全ての mak-un-pet が「分流」であるとは限らないと思っているのですが、十勝でも稚内でも「分流」であることを示唆する記録があると知って「ぐぬぬ……」となっているところです。

ウツナイ川

mo-ut-nay?
小さな・肋・川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
現在は「声問川」と呼ばれている川の西側を流れている川の名前です。ウツナイ川はかつての「幕別川」と同様に大沼に注いでいる……ように見えますが、地形図をよく見ると、「声問川」に注ぐように人工的な新川を開削したようにも見えます。

明治時代の地形図には「モウツナイ」という名前で描かれていました。永田地名解にも次のように記されていました。

Mo ut nai  モ ウッ ナイ  脇川 沼脇ニ入ル川ナリ
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.425 より引用)
永田さんお得意の「ふわっとした解釈」が炸裂していますが、mo-ut-nay であれば「小さな・肋・川」と言ったところでしょうか。ut-nay は「肋・川」と解釈されますが、これは「背骨に対する肋骨のような形をした川」として、本流に合流する手前であえて直交する方向に向きを変える川のこと……とされます。

ただ、この考え方は知里さんの新説と思しき節もあり、松浦武四郎ututka を略したものとして、ut-nay は「脇腹のように波だつ浅瀬・川」と考えていたようです。ut を「脇腹」と考えるか「肋骨」と考えるか、由来は同一でありながら形容する様が全く異なるというのは、なかなか厄介な話で……。

「モウツナイ」と「ホンユシナイ」

ちょっと謎なのが、「東西蝦夷山川地理取調図」では「モウツナイ」が「大沼」の西側からまっすぐ大沼に注ぐ川として描かれています。一方で、現在の「ウツナイ川」は「大沼」の南東を流れています。明治時代の時点で既に現在の位置に「モウツナイ」と描かれているので、川名が移転したのは幕末以降でしょうか。

「竹四郎廻浦日記」には次のように記されていました。

 さて此処蒲柳・蘆荻原一里斗も上りて右の方 シフントウホと云沼有。また左りの方本川ハンケホンユシナイ、ヘンケホンエシナイ、マクンヘツ、此処枝川なるが直に又本川と逢也。此辺大沼有。
(松浦武四郎・著 高倉新一郎・解読「竹四郎廻浦日記 上」北海道出版企画センター p.531 より引用)※ ルビは引用者による
「左りの方本川ハンケホンユシナイ、ヘンケホンエシナイ、マクンヘツ」とありますが、これは「マクンヘツ」と「ヘンケホンエシナイ」「ハンケホンユシナイ」が同等の川(兄弟川)であるようにも読めます。「ユシナイ」または「エシナイ」というのはちょっと謎ですが、e-us-nay で「頭(水源)・ついている(接している)・川」とかだったりしたら面白いかもしれません。

無理やり話をつなげてみる

e-us-nay が「エシナイ」あるいは「ユシナイ」となり、大沼の西にあった mo-ut-nay と混同されて「モウツナイ」になった……と考えることもできたりしないでしょうか(めちゃくちゃ強引な推論ですが)。

そして「ハンケホンユシナイ」と「ヘンケホンエシナイ」および「マクンヘツ」が上流部では一本の川にまとまっていたのだとすれば、山田さんの「mak-un-pet 分流説」が俄然、有力な仮説に思えてきます。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


0 件のコメント:

コメントを投稿