やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の
地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。
エサンベ
esampe
岬
(典拠あり、類型あり)
猿払村の道の駅「さるふつ公園」の沖合に「エサンベ鼻北小島」という島がある……いや、あったのですが、波と流氷による長年の浸食により、最近、ついに海没してしまったことが確認されたのだそうです。
道の駅のある「浜鬼志別」には、漁港から見て南東にある「エサンベ鼻北小島」のほか、漁港から見て北に位置する「海馬島」という島(岩礁)もあります。1939 年に「インディギルカ号」が座礁したのは「海馬島」のほうです。
エサンベ=「恵山辺」
1980 年代の土地利用図には「猿骨」の北に「恵山辺」という地名が描かれていました。おそらく「えさんべ」と読んだのだと思われますが、残念ながら現在の地理院地図には記載がありません。
島の名前にも「エサンベ鼻」とあるように、本来は岬状の地形を指していたと思われるのですが、猿骨と浜鬼志別の間の岬状の地形と言えば道の駅のあたりしか無いので、「エサンベ」も本来は道の駅のあたりの地名だったと考えられそうです。
「東西蝦夷山川地理取調図」には「エシヤンベ」という岬が描かれていました。また「再航蝦夷日誌」には「イシヤンベ」とあるほか、「竹四郎廻浦日記」にも「イシヤンベ 小岩岬」とありました。やはり岬の名前と見て良さそうですね。
永田地名解にも次のように記されていました。
Esanbe エサンペ 岬(岬前ニ飛島二アリ)
地理院地図を見ると、道の駅の前には話題の「エサンベ鼻北小島」を含めて 3 つの島(岩礁)が描かれています。永田方正は「飛島 2 つ」としていますが、これはまぁ誤差の範囲ですよね。
岬の名前か島の名前か
更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」には、次のように記されていました。
エサンベ
現在は天北線芦野駅の北東、猿骨沼の対岸に当たる海岸の集落をそうよんでいる。行政的にも宗谷郡猿払村字エサンベである。
これは 1980 年代の土地利用図で確認できた「恵山辺」のことですね。やはり「エサンベ」で良かったようです。
エサンはこれまでもいくどか出た岬のことであり、ベはペでものであって岬のものという意味である。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.190-191 より引用)
確かにそうなのですが、
知里さんの「──小辞典」には
e-san で「
岬」とあり、また
esampe も「
岬」とありました。
esampe エさㇺペ 岬。[<e-san-pe(そこに・出て来ている・者)]
ですので、「エサンベ」も素直に「岬」と考えて良いかと思うのですが、更科さんは次のように続けていました。
永田方正氏は地名解で「岬。岬前に飛島二アリ」と述べている。従ってこれは単に岬ではなく、岬の前にある飛島を呼んだ地名である。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.190-191 より引用)
うーん、なるほどそういう解釈もできちゃいますかね……。個人的にはちょっと考えすぎのようにも思えるのですが……。
前述の通り、本来の「エサンベ」は道の駅「さるふつ公園」のあたりの地名なので、道の駅の名前も「さるふつ公園エサンベ」あたりに微修正されると胸アツなんですが……。
浜鬼志別シネシンコ(はまおにしべつ──)
sine-sunku?
一本の・エゾマツ
(? = 典拠あり、類型未確認)
こちらも現在の地理院地図には記載のない地名ですが、1980 年代の土地利用図には「浜鬼志別」の北西に「浜鬼志別シネシンコ」と描かれていました。また「浜鬼志別シネシンコ」と「知来別」の間には「知来別シネシンコ」という地名も描かれていました。
陸軍図には、「浜鬼志別シネシンコ」相当の位置に「シムシンコ」と描かれていました(「知来別シネシンコ」相当の位置には地名の記入はなし)。明治時代の地形図には「シ子シュンケ」と描かれていましたが、位置が「浜鬼志別シネシンコ」と「知来別シネシンコ」の中間あたりになっていました。
「一本の椴松」から
永田地名解には次のように記されていました。
Shine shunk シネ シュンク 一本ノ椴松 今ハ「レプシユンク」トモ名クベク三本ノ椴松アリ
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.432 より引用)
確かに
sine-sunku で「
一本の・エゾマツ」と読めます。「
椴松」は
hup と呼ぶ場合が多く、
sunku は「エゾマツ」と解釈されますが、知里さんの「植物編」によると……
注 1.── súnku の語原わ不明であるが,支那語 sung に酷似しているのわ不思議である。外來語らしい感じもする。本來のアイヌ語でわ,エゾマツをも hup と云ったらしい。→§411,注 3,參照。
なお、田村さんの辞書(アイヌ語沙流方言辞典)には
sunku の項に「エゾマツ(『シンコマツ』)」と記されていました。「エゾマツ」を「シンコマツ」と呼ぶ流儀もあったようですね。
「一本の蝦夷松」があっちにもこっちにも
単なる「シネシンコ」ではなく「浜鬼志別──」を冠していたのは、「知来別シネシンコ」との区別のためだったのかもしれません。更科さんの「アイヌ語地名解」には、次のように記されていました。
シネシンコ
猿払海岸の字名で、五万分の地図では浜鬼志別から一㌔ほど北西海岸沿いの小集落にシムシンコと記入されているが、古い五万分図では浜鬼志別より四㌔ほど離れてシネシュンクと書いてあり、知来別の地元ではこれを「こっちシネシンコ」といい、鬼志別の方を「向うシネシンコ」と呼んでいるという。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.190 より引用)
ちょっと面白い記録だったので引用してみました。「一本の蝦夷松」が複数存在したというのも不思議な感じもしますが……。ちなみに
志根新古という当字もある。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.190 より引用)
「シネシンコ」に「志根新古」という字が充てられる場合もあったのだとか。なかなか傑作ですね。
余談
興味深いことに、「東西蝦夷山川地理取調図」や「再航蝦夷日誌」「竹四郎廻浦日記」には、それらしき地名が見当たらず、代わりに「シユルクヲマナイ」という川が描かれていました。
「シユルクヲマナイ」は
surku-oma-nay で「
トリカブトの根・そこにある・川」と読めます。アイヌはトリカブトの毒を
鏃に塗ることで狩猟や仕掛け弓に用いる弓矢の殺傷能力を高めていましたが、同じトリカブトでも産地によって毒性の高さに違いがあったようで、強毒性のトリカブトの所在は極めて重要な情報だったようです。
永田方正がこのあたりの地名調査に来た際に、土地のインフォーマントが「機密情報」である「トリカブト群生地」の情報を伏せるべく、適当に「浜辺の一本松」の話をでっち上げたところ、実は椴松が三本あった……とかだったら面白いなぁと考えてみました。
チヒナイ川
pira-chimi-nay?
崖・左右に分ける・川
(? = 典拠あり、類型未確認)
猿払村知来別の北西を流れる川の名前です。地理院地図にも川として描かれていますが、残念ながら川名は記されていません。
明治時代の地形図では、「チラオペツ」(猿払村知来別)と「ナイウドロ」(稚内市宗谷村苗太路)の間に「オン子ウコイキウンナイ」と「ウソシユナイ」という川が描かれていました。どうやら位置的には「オン子ウコイキウンナイ」が現在の「チヒナイ川」に相当するように見えます。
ボクシング川?
永田地名解には次のように記されていました。
Ukoiki ush nai ウコイキ ウㇱュ ナイ 古戰場
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.432 より引用)
ukoyki は「喧嘩する」という意味で、より具体的には「殴り合い」や「取っ組み合い」など、実力行使に類するものだったようです。
ukoyki-us-nay で「
殴り合い・いつもする・川」と読めそうです。
onne-ukoyki-us-nay だと「古い・殴り合い・いつもする・川」と読みたくなりますが、
onne はあくまで「年老いた」という意味であり、「古い」は
husko とのこと。なので
onne-ukoyki-us-nay でも「古戦場川」と考えるのは少々苦しいように思えます。
「チヒナイ」は「ヒラチヒナイ」?
そして、更に不思議なことに、「東西蝦夷山川地理取調図」を見ると「ウコヱキウナシナイ」と「ナエウトロ」の間に「ヒラホフ」「ヒラチヒナイ」「チヒエレ」という地名(川名かも)が記録されています。
「チヒナイ川」は「ヒラチヒナイ」に由来している可能性が高そうですが、厳密には明治時代に一度失われて、現在はかつての「オン子ウコイキウンナイ」の代わりに復活した、という風に見えます。
「ヒラチヒナイ」についても、永田地名解に記載がありました。
Pira chimi nai ピラ チミ ナイ 崖ヲ割リテ流ルル川 「チミ」ハ割ル
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.432 より引用)
「『チミ』は 1000%」とか言われたらどうしようかと思ったのですが(
それはそれで面白いかも)、なるほど、「チヒ」は「チミ」が訛ったのでは無いか、と考えたのですね。
pira-chimi-nay で「
崖・左右に分ける・川」ではないか……という説のようです。
このあたりは海沿いに標高 4~50 m ほどの台地が接していて、台地と海岸の間が崖状になっています。その台地を割って川が流れているので、まさに「崖を左右に分ける川」と言えそうです。
現在の「チヒナイ川」はかつての「オン子ウコイキウンナイ」で、本来の「ヒラチヒナイ」は「オン子ウコイキウンナイ」と「ナイウドロ」の間の(別名)「ウソシュナイ」のことだったとも考えられそうですが、この川は現在の「チヒナイ川」以上に「台地を割っている」ように見えます。
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