2021年8月29日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (862) 「時前川・オピラシェナイ川・知志矢川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

時前川(ときまえ──)

tuki-oma-i
杯・そこに入る・もの(川)
(典拠あり、類型あり)
宗谷岬の南南東 9 km ほどの所に「萌間山」という標高 122 m の山があるのですが、「時前川」は萌間山の南麓を流れています。このあたりは「峰岡」という地名でしたが、「峰岡」に改称される前は地名も「時前」だったようです。

1980 年代の土地利用図には「峰岡」という地名が描かれていますが、現在の地理院地図には記載がありません。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「トキマイ」という名前の川が描かれています。「再航蝦夷日誌」では「トキマヱ」で、「竹四郎廻浦日記」では「トキマイ」と記録されています。

永田地名解には次のように記されていました。

Tukimai  ト゚キマイ  元名「ト゚キモイワ」ナリ杯山ノ義或ハ云フ「ト゚ーキオマイ」ニシテ杯ヲ忘レ置キタル處
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.431 より引用)
どうやら元は「山の名前」ではないかとのこと。ちょうど良い具合に「萌間山」があるのですが、山田秀三さんの「北海道の地名」には次のように記されていました。

峰岡 みねおか時前 ときまえ
萌間山 もいまやま
 稚内市宗谷地区東岸南部の地名。前のころは時前と呼ばれていたが,今は峰岡と改名。ただし川名は今でも時前川である。萌間山は時前川下流の北岸にある美しい独立丘で,特に峰岡部落の方から見ると,全くトゥキ(tuki 酒椀)を伏せたような姿である。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.166 より引用)
「ト゚キマイ」は、やはり「萌間山」関係のようですね。永田地名解には「萌間山」についての記述もありました。

Mo iwa  モ イワ  小山 「ヘマシュベッ」ノ傍ニアリ此邊ノアイヌ「モイマ」ト云フ元名ハ「ト゚キモイワ」ナリ杯ノ如キ小山ノ義
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.430 より引用)
どうやら現在の「萌間山」が tuki-mo-iwa で「杯・小さい・山」と呼ばれていて、その麓を流れる川を tuki-oma-i で「杯・そこに入る・もの(川)」と呼んだ、ということのようです。

現在は「時前川」が「萌間山」の麓を流れていて、「一の沢川」が時前川の南側を流れています(南支流)。明治時代の地形図を見ると、「一の沢川」が「ト゚キマイマサラママ」とあり、「時前川」は「クリキシトキマイ」となっていました。

「ト゚キマイマサラマ」は {tuki-oma-i}-masar-oma で「時前川・浜の草原・そこに入る」と読めそうでしょうか。「クリキシトキマイ」は kurkasi-{tuki-oma-i} で「上面一帯・{時前川}」かと考えてみましたが、kurkasi という語にあまり記憶がないので、参考程度ということで。

kurki で「えら」という意味があるので、kurki-us-tuki-oma-i で「鰓のある時前川」という解釈もできなくは無いのですが、ちょっと意味がよくわからないことになるので……。「鰓」が湧き水の比喩とかだったら面白いのですが。

オピラシェナイ川

o-pira-us-nay?
河口・崖・ついている・川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
国道 238 号の「峰岡橋」と宗谷岬の中間あたりに「泊内橋」という橋があります。これは「泊内川」を渡る橋で、かつては同名の集落(泊内)もありました。ただ、1980 年代の土地利用図にも集落としての「泊内」の文字は見当たらないので、割と早い時点で無人になっていたのかもしれません。

「オピラシェナイ川」は「泊内川」の南支流で、道道 889 号「上猿払清浜線」に「オピラシェナイ橋」があります。余談ですが、「オピラシェナイ川」は国土数値情報では「オピラシュナイ川」となっています。

音からは o-pira-us-nay で「河口・崖・ついている・川」と読めるのですが、不思議なことに古い記録にその名前を確認することができません。ただ、大正時代に測図された「陸軍図」には「オピラシュナイ沢」とあるので、少なくとも大正時代までは起源を遡ることができそうです。

「北海道地名誌」にも次のように記されていました。

 オピラシュナイ沢 泊内川の右小支流の沢。川口に崖ある川の意。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.399 より引用)
まぁ、やはりそうなりますよね。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「ヲサウシ」という地名を確認できるのですが、これはどうやら「目梨泊橋」と「泊内橋」の間にある岬状の地形を指しているようなので、「オピラシェナイ川」とは直接の関係は無さそうです。

知志矢川(ちしや──)

chis?
立岩
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
国道 238 号で「泊内橋」を渡って更に北に向かうと、沖合……と言ってもすぐ目の前なのですが……に「竜神島」という島(というか岩)が見えるのですが、そこから 400 m ほど北のあたりを「知志矢川」が流れています(250 m ほど南には「上知志矢川」も流れています)。

「東西蝦夷山川地理取調図」には何故か記載がありませんが、「再航蝦夷日誌」には次のように記されていました。前後関係を確認するために少し長目に引用してみます。

     ヲニキルンヘ
小川有。砂道つゞきなり。幷て
     ヲカシヘトマリ
幷て
     ニナルヱラニ
幷て
     ヲフカルモナイ
小川有。陸の方平山つゞき
     チシヤ
此処にも夷人の塞と云もの有る也
     アマンボ
番屋有。夷人壱軒。(中略)
     トマリナヱ
図合船懸り澗有。砂道よろし。
松浦武四郎・著 吉田武三・校註「三航蝦夷日誌 下巻」吉川弘文館 p.129 より引用)
特にこの順序におかしな点は見当たらないのですが、「東西蝦夷山川地理取調図」では「ヲフカルナイ」の隣が「トマリナ」になっているので、「チシヤ」と「アマンボ」が飛ばされたということになりますね。

「竹四郎廻浦日記」でも「再航蝦夷日誌」と同じ順序で記録されていました。

     ヲフカルシナイ
此所当時は何もなけれ共往昔六軒有し由云伝ふ。此辺に至りて山に樹木有るを始て見る(丑向)。
    字チ シ
前に小島有。地名は其を号るに、此辺より岩石多く甚だ足踏場至てわろし(丑向)。
    字アマンホ                                 トマリナイ
(松浦武四郎・著 高倉新一郎・解読「竹四郎廻浦日記 下」北海道出版企画センター p.310 より引用)
永田地名解には次のように記されていました。

Kisa nai   キサ ナイ   燧澤 此邊ノアイヌ「チサナイ」ト呼ビテ其意義ヲ知ラズ
Kisa shuma  キサ シュマ  燧石 此邊ノアイヌ「チサシュマ」ト呼ビテ其意義ヲ知ラズ
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.430 より引用)
さすがは世界の永田さんですね。「地元のアイヌはその意味を知らないが、この地名の意味はこうだ!(ドヤァ)」ということのようですが……。

「チサ」は「キサ」が訛ったもので、kisa は「火を打つ(起こす)」という意味だとのこと。確かにハルニレの木のことを chi-kisa-ni と呼び、摩擦熱で火を起こすのに使ったと言われるので、永田氏がドヤ顔になるのも理解できます。

ただ、松浦武四郎は「前に小島有。地名は其を号る」と記していました。そして実際に「竜神島」という小島もある以上、kisa ではなく chis で「立岩」と考えるのが自然ではないでしょうか。

chis-nay は「立岩(のところの)川」で、川、または地名と区別するために「竜神島」のことを chis-shuma で「立岩(の)岩」と呼んだ……ということではないかと思われるのです。

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