2021年8月8日日曜日

「日本奥地紀行」を読む (121) 湯沢(湯沢市)~横手(横手市) (1878/7/19)

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第二十信(続き)」(初版では「第二十五信(続き)」)を見ていきます。

悪性の馬

湯沢で昼食をとったイザベラは、再び北に向かって移動を再開します。

 そこから一〇マイルの道路は、火事を見ようとやってくる地方の人々でごった返していた。良い道路で、楽しい地方であった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.239 より引用)
イザベラは湯沢から横手に向かったのですが、国道 13 号経由で 18.7 km 程度のようなので、「10 マイル」(約 16 km)という記録とも大きく差異は無いようです。当時のイザベラはこのあたりにおいてもそれなりに正確な地図、または地理情報を得ていたと考えられそうですね。

イザベラは「良い道路で、楽しい地方であった」と記していますが、具体的には「多くの社があり、慈悲の女神(観音)の像が祀られていた」ことを好ましく感じていたようです。

一方で、イザベラが乗っていた馬は相当な問題児だったようで……

私の馬は、まったく悪性のひどい馬であった。彼の頭は腹帯に二重に鎖でつないであるが、男や女、子どもを見ると必ず耳をそばだて、彼らに向かって噛みつこうと跳びかかるのであった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.239 より引用)
あー、もの凄くストレス MAX な感じでしょうか。これだけ馬が荒れるには、何らかの理由があったのでしょうが……。イザベラはこの馬の暴れっぷりに音を上げて、何度も下馬してしばらく歩いたりしたようですが、「また馬に乗るのはとても難しかった」と記しています。その理由ですが……

というのは、私が鞍に手をかけた途端に、馬は後脚をあげて私を蹴ろうとするからであった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.239 より引用)
災難でしたね……としか言いようがありませんね。イザベラの旅を「ロデオ」に変えてしまったこの暴れ馬ですが、これでも馬子が綱を引いていたらしく、まだ最悪の事態は避けられていました。しかし……

とうとう横手ヨコテまで来たが、馬はその長くてうす暗い街路を主として後脚を使って進んだが、臆病な馬子の手から綱を振り切ったので、私はくしゃくしゃに振り回されて、身体がゼリーにでもなってしまうのではないかと思うほど痛くて苦しかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.240 より引用)
横手の市街地に入ったところで、ついに馬子から綱を振り切り、完全に制御不能な状態になってしまいます。「身体がゼリーにでもなってしまう」というのは面白い表現ですが、原文では shaking me into a sort of aching jelly! となっていました。

なお、時岡敬子さんはこの部分を「わたしは痛みと怖さでぶるぶる震えてしまいました!」と訳出していました。見事な訳ですが、「ゼリー」がどこかに消えてしまった感もありますね。

イザベラは、このような「悪性の馬」が出てくるメカニズムを次のように考えていたようです。

馬が悪くなるのは、調教のときに苛めたり、乱暴に取り扱ったからだと聞いていたものであったが、日本の馬の悪さの説明にはならない。というのは、人々が馬をこわがるのは大変なもので、彼らは馬を恐るおそる取り扱う。馬は打たれることも、蹴られることもない。宥めすかしながら馬に話しかける。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.240 より引用)
「おーおー、よしよしよしよしよしよしよしよし……」と口にしながら動物を宥めすかす光景が目に浮かびますね。でも輓馬にはバシバシ鞭打つ印象もありますが……。

概して日本では、馬の方がその主人よりも良い生活をしている。たぶんこれが馬の悪くなる真因であろう。「しかるにエシュルンは肥え太って、足で蹴った」(『旧約聖書』申命記、三二章一五節)。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.240 より引用)
うーん……、確かに馬は「商売道具」なんで、ぞんざいに扱って病気になっては困る……という意識はあったのかもしれないですね。それにしてもこのロジック、「馬」を「政治家」に変えても全く違和感がないというのが……。

不運な町

イザベラ一行は横手に到着しました。これから一泊する横手の町については、次のように記していました。

 横手は人口一万の町で、木綿の大きな商取引きが行なわれる。この町のもっとも良い宿屋でも、りっぱなものは一つもない。町は見ばえが悪く、臭いも悪く、わびしく汚く、じめじめしたみじめなところである。町の中を歩いて通ると、人々は私を見ようと風呂から飛び出てきた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.240 より引用)
イザベラ姐さん、相変わらず飛ばしてますね……。

男も女も同じように、着物一枚つけていなかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.241 より引用)
この手の描写はこれまでも何度か出てきましたが、イザベラが旅した頃の東北では、少なからずトップレスの女性も居たみたいですね。

宿の亭主はたいそう丁寧であったが、竹の梯子を上って、私を暗くて汚い部屋に案内した。部屋には、怒りたくなるほどたくさんの蚤や蚊がいた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.241 より引用)
ノミや蚊、あるいはシラミやアリなどは道中でイザベラを大いに悩ませたわけですが、最近は町中では随分と蚊が少なくなった、なんて話も聞こえてきます。寝室に蚊が居ない、あるいは布団にダニが居ないというのは素晴らしいことですが、そうすることによって思いもよらぬ形でしっぺ返しを食らうことが無いか、常に考えておきたいものです。

失望

「暴れ馬」に体力を削られ続けたイザベラですが、移動の途中でそんなイザベラを勇気づける情報が入ったようです。

横手では毎週木曜日に雄牛を殺すということを途中で聞いたので、夕食にはビフテキを食べ、もう一片は携行しようと心に決めていたのだが、着いてみると、全部売り切れで、卵もなかった。そこで米飯と豆腐という哀れな食事をした。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.241 より引用)
「日本奥地紀行」普及版の第 20 信は 7/21 に「神宮寺」で記したとあります。本稿の日付は出来事のあった日付を文中から読み取って *計算して* 出しているのですが、それによるとイザベラが横手に宿泊したのは 7/20 で、翌日の 7/21 に横手を出発して神宮寺(秋田県大仙市)に到着したと考えられます。

1878 年の 7 月 20 日は土曜日なので、木曜日に解体した牛が売り切れていたとしても不思議は無いですし、牛のためだけに五日間滞在する訳にもいかなかったのでしょうね。こうしてイザベラの「ビフテキ食うぞ計画」は絵に書いた餅で終わってしまったのでした。

山形で買った練乳は捨てなければならなかったので、いくぶん餓じい思いをした。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.241 より引用)
「練乳」には無糖のものと加糖のものがあり、日本では加糖のものが一般的かと思います。イザベラが時折言及する「練乳」は condensed milk の和訳のようで、無糖の練乳は evaporated milk となるようなので、やはりイザベラはあの甘い練乳を携帯していたということなんでしょうか。1878 年に「練乳」があったということに驚いてしまうのですが……。

たくさんの蚤や蚊に歓迎されたイザベラでしたが、翌朝はお忍びで神社を見に行くことにしたようです。

私は疲労やら、蟻に咬まれた炎症で、何やら気分がすぐれなかったが、翌朝早く、いつもの朝のように暑くて霧が出ていたが、神道の社、すなわちお宮を見に行った。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.241 より引用)
行く先々で「見世物」として扱われることに辟易していたイザベラですが、この時は朝早かったこともあってか、群衆の好奇の目から逃れることに成功しています。

一人で出かけたのだが、群集に会わずにすんだ。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.241 より引用)

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