(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
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レカセウシュナイ川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
浜頓別の市街地の西側に広がる「クッチャロ湖」は、東側(下流側)の「大沼」と西側(上流側)の「小沼」の二つに分かれています。「レカセウシュナイ川」はクッチャロ湖(大沼)の最南端に注ぐ川の名前です。この川はかなり疑問の多い川で、地理院地図には「レカセウシュナイ川」とあるにもかかわらず、国土数値情報には「ルカシュナイ川」という名前で記録されています。ということで、まず「どちらの川名が正しいのか」というところから話を始める必要があるのですが、道道 84 号「豊富浜頓別線」の橋にも「レカセウシュナイ川」とあったので、おそらく現地では「レカセウシュナイ川」という名前で通用しているものだと思われます。
「東西蝦夷山川地理取調図」や松浦武四郎の各種著作には、「レカセウシュナイ川」あるいは「ルカシュナイ川」に相当しそうな記録を見つけることができません。「東西蝦夷山川地理取調図」は現在の「頓別川」に相当する川が「クッチャロ湖」に注ぐように描かれているなど、地理認識の点でも妙なところが散見されることもあり、クッチャロ湖周辺の記録としてはやや心許ないところもあります。
幸いなことに、明治時代の地形図にはこの川が描かれていました。川名は「レカセウシユナイ」と描かれているように見えますが、最初の文字は「レ」ではなく「シ」のようにも見えます。
より大縮尺の地形図にもこの川は描かれていましたが、こちらは「ピカセウシュナイ」と描かれているように見えます。
現在の川名が「レカセウシュナイ」で、古い地形図には「シカセウシュナイ」あるいは「ピカセウシュナイ」と描かれているように見えるのですが、これが「ピパセウシュナイ」であれば、{pipa-sey}-us-nay で「{カラス貝}・多くある・川」と読めそうです。「ピパ」が「シカ」に転訛して、そして「シ」を「レ」に転記ミスした……と言ったところでしょうか。
「ルクシナイ」説
「角川日本地名大辞典」には「北西部の字界をなすレカシウシュナイ川はアイヌ語のルクシナイで『道が通る川』の意」とありました。なるほど、この考え方ならば「レカセウシュナイ」が「ルカシュナイ」に化けたのも理解できます。ru-kus-us-nay で「路・通行する・いつもする・川」の -us が抜けて ru-kus-nay で「路・通行する・川」になったという考え方ですが、-us が抜け落ちるのは本当にいくらでも例がありますからね。
「レカセウシュナイ川」に沿って南に向かうことで、丘の鞍部を越えて頓別川沿いの「楓」地区に出ることができます。「レカセウシュナイ川」は大正時代に測図された「陸軍図」では「レカシゥナイ川」という名前になっていて、これが国道数値情報の「ルカシュナイ川」の元になったと考えられそうです。
「レカセウシュナイ川」または「ルカシュナイ川」を ru-kus-nay と考えるのは実際の地形からも首肯できるものですが、ただ明治時代の地形図には、明らかに「ピカセウㇱュナイ」と描かれているんですよね。ちょっとこれが「レ」または「ル」の誤りだったとは流石に強弁しづらいものがあるのですが……。
オサチナイ川
(典拠あり、類型多数)
「クッチャロ湖」の流出河川は、湖の名前の由来となっている「クッチャロ川」ですが、クッチャロ湖の「小沼」と「大沼」の間の川も「クッチャロ川」という名前で、また小沼に注ぐ川のひとつも「クッチャロ川」という名前です。別の言い方をすれば、頓別川河口付近に注ぐ「クッチャロ川」という川があり、その途中に「大沼」と「小沼」がある、ということになります。「クッチャロ川」を遡ると、道道 84 号「豊富浜頓別線」のあたりで「仁達内川」と「オサチナイ川」に分かれます。道道 84 号はオサチナイ川沿いを遡り、トキタイ山の北側を抜けて猿払村に入ることになります。
更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」には、次のように記されていました。
オサツナイ川
仁達内川の小枝川。オ・サッ・ナイは川尻の乾く川の意。尾札部などと同じ。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.190 より引用)
やはり o-sat-nay で「河口・乾いている・川」と考えて良さそうですね。「トキタイ山
(典拠あり、類型あり)
オサチナイ川には「菊水川」や「三線川」、「中島川」など多くの西支流がありますが、これらの支流を遡った先に、標高 291.5 m の「トキタイ山」があります。トキタイ山の山頂は東側が浜頓別町で、西側が猿払村です。更科さんの「アイヌ語地名解」には、猿払村の章で次のように記されていました。
トキタイ山
浜頓別町との境の小山。ト・キタイは沼のかしらの意。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.192 より引用)
ということで、どうやら to-kitay で「沼・頭のてっぺん」と考えられそうで、もう少し具体的に表現すると「沼・奥」ということになりそうです。「トキタイ山」は、「東西蝦夷山川地理取調図」にも「トウキタイノホリ」という名前で(山として)描かれています。ただ「東西蝦夷──」で描かれている場所は現在の「頓別川」と「クッチャロ川」の間で、山の西側は幌延町の「問寒別川」の流域として描かれているので、現在の位置ではなく、浜頓別町・幌延町・猿払村の境界にある標高 356.3 m の山を指していた可能性がありそうです。
ただ、明治時代の地形図を見ると、ほぼ現在の位置に「トキタウシ」とあるので、位置認識にズレが生じたとすると、それは明治以前の出来事だったということになりそうです。
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