2021年7月18日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (850) 「豊牛」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

豊牛(とようし)

puy-ta-us-nay?
エゾノリュウキンカの根・掘る・いつもする・川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
浜頓別町斜内と頓別の中間あたりの地名で、かつて国鉄興浜北線に同名の駅もありました。ということで、まずは「北海道駅名の起源」を見ておきましょう。

  豊 牛(とようし)
所在地 (北見国) 枝幸郡浜頓別町
開 駅 昭和 11 年 7 月 10 日
休 止 昭和 19 年 11 月 1 日
再 開 昭和 20 年 12 月 5 日
起 源 アイヌ語の「トイ・カム・ペッ」(土のかぶさる川)と、「プイ・タ・ウシ」(エゾリュウキンカの根を掘る所)の間にあるので、牛が豊かになるようにとの地元の要望で、豊寒別の「豊」と、プイタウシの「牛」を合わせて「豊牛」と名づけたものである。
(「北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.190 より引用)
あっ……(もの凄いネタバレ感が)。豊牛のあたりは国道 238 号が海沿いを通っているほか、道道 586 号「豊牛下頓別停車場線」が内陸部に向かって伸びているのですが、道道 586 号を 1.5 km ほど走ったところに「豊寒別川」が流れています。また、「豊牛」のあたりの大字も「豊寒別」のようです。

頓別から神威岬まで

松浦武四郎は主に海沿いを回ることが多かったこともあり、海岸部の地名は今から思えばもの凄い粒度で記録が残されています。浜頓別町頓別から神威岬の間でも、なんと 20 もの地名・川名が確認できます。その中には確かに「フタウシナイ」というものがあるのですが……資料によって位置や順序に異同があり、ちょっとややこしそうな感じです。ということで、久しぶりに表にしてみました。

東西蝦夷山川地理取調図永田地名解陸軍図現在名
トンヘツトー ウン ペッ舊濱頓別頓別
ラエチシカライチシュカラㇷ゚
シヨチヤシシヨー チャシ
コイトイコイ ト゚イェ
フヱタルエサンプイ タ エ サン
ヲアンケイオ アンケイ
マウタシヤエマウ タ サエ
ワツカクシナイワㇰカ クㇱュ ナイブタウシ豊牛?
ヘニウシナイ
シヤクナイオ プト゚ シャㇰ ナイ
ウロマナイ
カヤヌウシカヤ ニ ウシ
フㇷ゚ タ ウシ
ムクタウシナイムㇰタ ウシモブタウシ?豊浜?
フタウシナイ
リカヲルシナイリカ オルシ
ウエンナイホウェン ナイ ポ
アホヽナイアパオ ナイ
シヤウナイシ オ ナイ ポ斜内?斜内?
ソウシユツショー シュッ
アマンホアマン ポㇰ
ホムリウシ
カモイエトピリカノカ神威岬
「豊牛」はまさかの合成地名で、「豊」は「プイタウシ」に由来するという話ですが、松浦武四郎が「フタウシナイ」と記録した地名は、永田方正によって「フㇷ゚ タ ウシ」と微修正を加えられた上に「ムㇰタ ウシ」との位置関係が逆転し、ついには現在の「豊牛」の位置に移転した……と言うことでしょうか。

「ブタウシ」はどこからやってきた?

松浦武四郎が記録した当時の地名の位置を確認するには、明治時代の手書きの地形図を見るのが早いのですが、豊牛と斜内の間で図が折り曲がった形でスキャンされていることもあり、鍵となりそうな「フタウシナイ」の位置を確認することができません。

ただ、少なくとも現在の「豊牛」のあたりに「フタウシナイ」に相当する川が見当たらない……とは言えそうです。となると陸軍図が現在の「豊牛」の位置に「ブタウシ」と描いたのは何故だろう……という疑問が湧いてきます。

「プイタウシ」か「フプタウシ」か

ここで注意しておきたいのが、現在「豊浜」と呼んでいるあたりの旧地名と思しき「ムクタウシナイ」の存在です。この地名は、陸軍図では「モブタウシ」と描かれているように見えます。これは「ブタウシ」の亜種として認識していたことを窺わせます。

「フタウシナイ」は puy-ta-us-nay で「エゾノリュウキンカの根・掘る・いつもする・川」と読めるのですが、面白いことに永田方正も松浦武四郎も異なる解を残しています。

Hup ta ushi  フㇷ゚ タ ウシ  椴松ヲ伐ル處
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.436 より引用)
ふむふむ。確かに hup-ta-us-i で「トド松・切る・いつもする・ところ(川)」と解釈できますね。そして松浦武四郎に至っては「午手控」にこんなメモを残していました。

フタウシナイ
 沖にフタと云岩有るよし
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 六」北海道出版企画センター p.409 より引用)
さて、これらの記録をどう考えたものでしょうか。どちらが信を置けるかと言われたら、今回は永田説に軍配を上げたくなります。「午手控」の説はかなりいい加減に思えますし、松浦武四郎が土地のインフォーマントに一杯食わされた感すらあります。

「フヱタルエサン」の存在

では「プイタウシ」ではなく「フㇷ゚タウシ」が正しいのか……という話になるのですが、少し話を戻して、改めて「ブタウシ」移転の謎を考えてみます。永田方正は「フㇷ゚ タ ウシ」という地名を記録した一方で、「プイ タ エ サン」という地名も記録しています。不思議なことに明治時代の地形図には出てこないのですが、現在の「浜頓別ウィンドファーム」の北あたりと推定されます。

この「プイ タ エ サン」は松浦武四郎が「フヱタルエサン」と記録したものと同一だと考えられます。これは puy-ta-ru-e-san で「エゾノリュウキンカの根・掘る・道・そこで・浜の方に出る」と読めそうです。

「プイタウシ」は何処に

要するに「豊牛」が「豊寒別」と「プイタウシ」の合成地名だ……ということはほぼ確定で良いと思われるのですが、肝心の「プイタウシ」がどのあたりに位置していたのかが明確ではない、ということになります。

ここからは想像ですが、「プイタウシ」は現在「豊浜」と呼ばれているあたりの地名だったのでは無いでしょうか。松浦武四郎が「沖にフタという岩がある」とし、永田方正が「トド松を切るところ」としたのは、どちらも一杯食わされたのではないでしょうか。「エゾノリュウキンカの根」の産地は秘匿に値する情報だったので、その場その場で適当に言い逃れたのではないか……という想像です。

「フヱタルエサン」が「ブタウシ」に?

そして、豊寒別川の下流域は湿原が広がる居住不適地だったため、コタン(村落)があったとすると山裾のあたり(現在「新豊寒別神社」があるあたり)か、更にその奥だったと想像できます。

新豊寒別神社の近くには道道 586 号が通っていて、海側に向うと豊牛に出ることができるのですが、かなり古くからこのルートが認知されていて、このルートを puy-ta-ru-e-san(プイタウシに向かう下り坂)と呼んだのではないでしょうか。

だとすると、「フヱタルエサン」が「浜頓別ウィンドファーム」のあたりの地名として記録されているのはおかしい、ということになってきますが……(汗)。

本来は「プイタルエサン」だったのが、いつしか正確な意味が忘れられ、「プイタウシ」の成れの果てである「ブタウシ」という地名で呼ばれるようになるも、「ブタ牛」ではあんまりだ……と言うことになって、「じゃあ『豊牛』はどうよ?」となったんじゃないか……などと考えてみました。

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