(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。
ポンピラナイ川
(典拠あり、類型あり)
中頓別町敏音知には道の駅「ピンネシリ」がありますが、そこから少し南に頓別川を遡ると「稚宇遠川」が合流しています。稚宇遠川沿いを南に向かうと「豊平」という集落があり、ポンピラナイ川が西から稚宇遠内川に合流しています。中頓別町はほぼ全域が頓別川の流域ですが、松浦武四郎の著作群や永田地名解にも情報が乏しい印象があります。ただ、改めて考えてみると、頓別川の流域が交通の要衝となるのは明治以降の話で、それ以前はたとえば枝幸・歌登の「徳志別川」と同レベルの扱いだったとも言えそうです。徳志別川の上流部の記録が無いに等しいのを見ると、頓別川上流域の情報が乏しいのも然もありなん、なのでしょうね。
この「ポンピラナイ川」ですが、幸いなことに「北海道地名誌」に言及がありました。
ポンピラナイ川 稚宇遠川の左小川。アイヌ語で小さい崖川の意。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.410 より引用)
ですよね。pon-pira-nay で「小さい・崖・川」と解釈できます。言い訳が長かった割には本題が一瞬で終わってしまってすいませんすいません……。マップの沢川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
稚宇遠川が頓別川に合流する地点の近くで、頓別川に合流する支流の名前です。頓別川から見ると「稚宇遠川」と「マップの沢川」はどちらも支流で、マップの沢川のほうが僅かに下流側で合流している、ということになるでしょうか。中頓別の地名について言及した資料が少ない……ということは先程も記した通りですが、少なくとも明治時代の手書きの地形図は残っていて Web で閲覧可能な状態にあります。ただ、川は無数に描かれているものの、川名まで記入のある例が極めて少ないという状況だったりします。
そんな中で、この「マップの沢川」は、明治時代の地形図にも川名が記入されている稀有な例だったりするのですが、辛うじて最後の 3 文字が「オマプ」であることは判読できるものの、残りの文字が欠けていて名前の由来を読み解くことができません(故に「マップの沢川」なのかもしれません)。
ただ、幸いなことに「角川日本地名大辞典」に次のように記されていました。
地内のマップの沢川は,アイヌ語で「トレプ・オ・マップ」といい,「大うばゆりのある所」を意味するものと思われる(アイヌ語地名の研究)。
(「角川日本地名大辞典」編纂委員会・編「角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)」角川書店 p.1271 より引用)
なるほど……! 問題の地形図を見ると「オ」の上は「ロ」かなと思ったのですが「プ」でしたか。そう言われてみるとその上の 2 文字も「トレ」と読めそうに思えます。turep-oma-p であれば「ウバユリの根・そこにある・もの(川)」と解釈できますね。とりあえず、この「マップの沢川」でわかることは、このあたりの川にもアイヌ語の名前があり、それが記録されることは無かった……ということでしょうか。惜しいことをしたものですね……。
チョッコノ沢川
(??? = アイヌ語に由来するかどうか要精査)
中頓別町敏音知と松音知の間あたりで頓別川に合流する「チュピタウシユナイ川」という川がありますが、「チョッコノ沢川」はチュピタウシユナイ川の南支流の名前です。それらしき川は明治時代の地形図にも描かれていますが、本来はそれぞれ独立した河川である筈の「チョッコノ沢川」と「パンケノ沢川」が途中まで同じ川として描かれていたりするので注意が必要です。この場で話題にできるほどのバックグラウンドは皆無なのですが、この「チョッコノ沢川」、もしかしたら so-kot で「滝・くぼみ」に由来する可能性がある……かもしれません。
もちろん、川のどこかが「お猪口」に見えたから、という可能性もじゅーぶんにあるんですけどね……。
パンケノ沢川
「パンケノ沢川」は「チョッコノ沢川」と同じく「チュピタウシユナイ川」の南支流です。ここで今更ではありますが、頓別川筋についての記録を「竹四郎廻浦日記」から引用してみます。此川上右の沼ヲントキタイの裏に行、左リウロコヘツの後ろに距り少し上に沼有。此沼サルフツの後ろに到り、河源はフウ子シリ、ヒン子シリ等いへる嶽有。其後ろはテシホ川筋なるバンゲナイに当候よし(シケシユヒ申口)。
(松浦武四郎・著 高倉新一郎・解読「竹四郎廻浦日記 下」北海道出版企画センター p.317 より引用)
……これが頓別川に関する情報の全てだったりするんですよね(汗)。注目すべきは「テシホ川筋なるバンゲナイ」で、素直に読めば中川町の「パンケナイ川」のことだと考えられます。「アイヌの交通路」は現在では廃れてしまったルートも少なくないのですが、大きな特徴として「とにかく距離を重視」という考え方があります。これは、短距離で結ぶことを何よりも重視して、どれだけ急勾配であっても意に介さない……ということになりますね。
故に、トンネルの掘削技術が発達した現代になってルートが蘇るケースも少なくありません。
浜頓別のアイヌは「頓別川」のことを「天塩中川に抜けるルート」と捉えていたことになりますが、中川町の「パンケナイ」に抜ける際に遡上した川が「パンケノ沢川」だった可能性がありそうです。あの「ルークシュポール川」と同じような考え方の川名だったのではないでしょうか。
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