2021年6月30日水曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (131) 「日和トンネル」

増毛町岩老を通過し、引き続き北へと向かいます。「無名橋」なる橋が見えてきましたが、これって素直に「名無しの橋」という理解で良いのでしょうか……?
またしても、岬の下を突き抜けるトンネルが見えてきました。
このトンネルは「汐岬トンネル」という名前のようです。前後に覆道はありません。

日和トンネル

「汐岬トンネル」を抜けると、今度はトンネルが二つも見えてきました。左奥に見えるトンネルは旧トンネルかと思ったのですが、どちらも現役のトンネルだったようです。
手前のトンネルは比較的新しいもので、「日和トンネル」という名前でした。
そう言えば、漫画家の増田こうすけ先生を名乗る twitter アカウントが現れたそうですね。「ご注意ください」とのことで、注意が必要なようです(何に)。

湯泊トンネル

「日和トンネル」の左奥に見えていたのが、湯泊岬の下を抜ける「湯泊トンネル」です。「日和トンネル」は土砂災害対策と線形改良で比較的近年に建設されたように見受けられますが、こちらは結構昔からあるような佇まいですね。

銀鱗の滝

トンネルを抜けると海沿いを右に曲がります。国道 231 号(および国道 232 号)では何度も見かける風景ですね。
右側に駐車場が見えますが、この先のトンネル(と覆道)が結構長いので、タイヤチェーンの脱着を促す場所なのかもしれません。
トンネルの手前右側には「銀鱗の滝」があるそうですが……?

黒岩トンネル

トンネルの入口が見えてきました。手前に短い覆道区間がありますが、鳥居のような形をしていますね。
このトンネルは「黒岩トンネル」と言うのですが……
「トンネル災害用信号機」があるなど、ここまでのトンネルとは気合の入り方が違いますね……。
しかも手前には「この先 3100 m 間 通行注意」と出ています。黒岩トンネルの入口から 3.1 km 先は「日方泊トンネル」のど真ん中なのですが、旧道だと日方泊川を渡るあたりのようですね。日方泊川の先の旧道も崖の下を通っていて、落石や土砂災害の危険が多そうなところでしたが……。
黒岩トンネルの中はごく一般的な断面のトンネルで、途中にカーブがあったりする訳でもありません。
トンネルを抜けた先は覆道になっていて、緩やかに右にカーブしています。

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2021年6月29日火曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (130) 「『武好』は『ブヨシ』?」

細川……あ、いや、増毛町の話題を続けます。「武好覆道」を抜けて 150 m ほど走ると、次の……
「武好トンネル」です。トンネルということは覆道ではなくトンネルなんですが……(何を言っているのだ
トンネル区間は覆道区間の半分程度しかありません。そう言えば范文雀さん、懐かしいですよね(いきなり何を)。

古い地図を見ていると、天狗岳の東側の「増毛山道」沿いに「武好ブヨシ驛遞駅逓」が描かれていました。「ブヨシ」と読ませるのであれば puy-us-i あたりだった可能性がありそうですね。そして「ブヨシ」の由来によっては「雄冬」の原型とされる「ウフイ」の由来も変わってくるかも……!?

赤岩覆道

「武好トンネル」を抜けると、また 150 m ほど先に次の覆道が見えるのですが……おおお、これは……! このような状態を「描画完了前のポリゴン」と評した人もいましたが、確かにそんな風にすら見えてしまいますね。
この覆道は「赤岩覆道」とのこと。赤岩岬の東隣に「赤岩岬覆道」がありましたが、こちらは「赤岩覆道」です。覆道の北側を「アカイワ川」が流れていることによるものか……と思ったのですが、もともとこの一帯が「赤岩岬」に由来する「赤岩」という小字だったことによるものかもしれません。

赤岩トンネル

前方にふたたび赤岩岬のような岩岬が見えてきました(名称不詳)。
「曲線半径 55 m」の警告もお出ましです。
トンネルが見えてきました。このあたりでは珍しく前後に覆道の無い、純粋な(?)トンネルのようですね。名前は「岩尾トンネル」とのこと。

岩尾・岩尾・岩老・岩尾

「岩尾トンネル」を抜けて、「岩尾橋」で「マルヒラ川」を渡ります。前方に集落が見えていますが……
「岩尾トンネル」「岩尾橋」と来ましたが、集落の名前は「岩老」です。
集落の名前は「岩老」ですが、温泉の名前は「岩尾温泉」なんですよね。まぁ、iwaw-o-i で「硫黄・そこにある・もの(川)」が元の形だと思われるので、どちらも間違いでは無いと言えそうです。
それはそうと、このロゴ(フォント?)、どことなく既視感もありますが、とてもいい味が出ていますよね。

増毛市街まであと 17 km

増毛町岩老を抜けて、引き続き北北東に向かいます。
増毛市街まであと 17 km とのこと。増毛町雄冬から 5 km ほど進んだことになるでしょうか。

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2021年6月28日月曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (129) 「赤岩岬とフレシマ」

というわけで増毛ましけ町に入りました。細川たかしがヅラ疑惑を否定したことで知られる増毛町です(もういい)。
この先の交叉点を右折すると「雄冬岬展望台」に行けるとのこと。高台には駐車場とトイレもあり、ちょいと歩いた先に展望台があるみたいです。まだ行ったことが無いので、いつか行きたいですね(良く考えたらこの日は時間があったので、立ち寄っておけば良かったのですが)。

増毛町中心街まで 22 km

増毛町に入りましたが、まだ増毛の中心街まで 22 km もあります。石狩市浜益区浜益から浜益区雄冬までは 18 km 弱しか無かったらしく……雄冬はあくまで「中間地点」に過ぎなかった、ということになりますね。
増毛町雄冬の北側、オフユ川やケマフレ川が流れているあたりは、山容も比較的穏やかということもあってか覆道などは設置されていません。

赤岩岬

前方に右カーブが見えてきました。そしてカーブの先には大きな岩が見えます。ということは……?
おおお。岩に見えたのは想像を遥かに超える大きさの岩山だったのですね(汗)。遠近法恐るべし……。
この岩山は「赤岩岬」という名前で、高さは 73 m もあるようです。国道 231 号は赤岩岬の真下を一気にトンネルで抜けるようです。
赤岩岬を抜けるトンネルですが、名前は「雄冬トンネル」とのこと。出口も見えているので、決して長いトンネルではありません。

赤岩岬覆道とフレシマ覆道

赤岩岬から増毛町岩老まではトンネルと覆道が数多く設置されています。赤岩岬の下を通る「雄冬トンネル」を抜けて 200 m ほどで次の覆道が見えてきました。
この覆道の名前は「赤岩岬覆道」とのこと。それにしても、赤岩岬から少し離れたところに何故このネーミング……?
「赤岩岬覆道」を抜けると、すぐ(50 m くらい?)次の覆道です。「フレシマ」とあり、残りの 2 文字が欠落していますが、「覆道」……ですよね?
ちなみにこの「フレシマ」は hure-suma で「赤い・岩」のことだと考えられます。ただ「赤岩岬」の元の名前は「ケマフレ」だったと言われているので……偶然の空似なんでしょうか。

武好覆道

増毛町雄冬から、「雄冬トンネル」を含めると 4 つ目の覆道が見えてきました。
ところでこの写真、ちょっと気になるものが写っていますね。
休工中……なのは良いとして、こちらなんですが……
バーベキュースナック、でしょうか?(ポイ捨てはやめましょう)

覆道の入口が見えてきましたが、見事にガラスに付いた水滴にピントが合ってしまいましたね……(汗)。
ちなみにこの覆道は「武好覆道」と言うのだそうです。由来は何なんでしょう……?

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2021年6月27日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (844) 「落切・イチヒレ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

落切(おちきり)

not-chikir??
岬・足
o-chikiru??
そこで・向きを変える
(?? = 典拠あるが疑問点あり、類型未確認)
枝幸町問牧の集落の北にある地名(通称かも)で、現在も同名のバス停があります。同名の川も流れていて、その河口は北緯 45 度線の僅かに北に位置しているようです。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「ヲチシベ」という名前の川が描かれていました。「再航蝦夷日誌」には「ヲチキリノツ」という岬と思しき地名が記されていますが、「竹四郎廻浦日記」にはそれらしき記録が見当たりません。

「河口・足」説

永田地名解には次のように記されていました。

Ochikiri  オ チキリ  渉リ場 小川ナリ「チキリ」ハ脚ノ義
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.438 より引用)
確かに chikiri は「足」を意味しますので、o-chikiri は「河口・足」と言った感じでしょうか。元は o-chikiri-us-i で「河口・足・ある・もの」あたりの可能性もありそうです。ただ、他に類型を見ないように思えるので、ちょっと引っかかるのも事実です。

更科さんの疑問

更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」にも、次のように記されていました。

オチキリは昔からそう呼んでいるところで、永田方正氏は「渉り場。小川ナリ「チキリ」ハ脚ノ義」とある。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.196-197 より引用)
ここまでは良いですね。まだ続きがあるのですが……

チキリは足であるが、われわれの足ということであり、オは川口であるから、直訳すれば、川口のわれわれの足ということになるが、それが渉り場ということになるかどうかうなずきがたい。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.196-197 より引用)
ということで、更科さんも「なんか変だぞ」と考えていたことが窺えます。さらに興味深いことに、田村すず子さんの「アイヌ語沙流方言辞典」には次のように記されていました。

cikir チキㇼ【名】[概](所は cikiri(hi) チキリ(ヒ))[ci-kir(?)・足][動物] ①(人間以外の動物の、机等の)足(ももから先まで全部)。cikir us otcike チキルㇱ オッチケ 足(脚)つきのお膳、座卓。re cikir us pe レ チキルㇱ ペ 三本足のついたもの(火鉢の中のごとくをこう表現した)。《S》 ②動物の後ろ足。☆対語 tapcikir タㇷ゚チキㇼ 前足。{E: an animal's hind leg(s).}
(田村すず子「アイヌ語沙流方言辞典」草風館 p.52 より引用)
田村さんは chikir を「人間以外の動物の足」と明記していました(手元の他の辞書を確認しても、いずれも「動物の足」でした)。となると更科さんが「われわれの足」と考えたのも少々おかしいことになってきます。

更科さんは「落切」の解釈について、次のようにも考えていたようです。

地方によって、山をキリというところがあるので、川ロのわれわれの山となるかもしれないが、地図の上では、それらしい山も見当らないので、疑問の地名として研究の余地がある。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.197 より引用)
山田秀三さんならともかく、更科さんが「疑問の地名」「研究の余地がある」とするのは珍しい……ですよね。

「河口・削れている」説

「北海道地名誌」には次のように記されていました。

(通称)落切 (おちきり) この名は一般に使わないが,バス停名として使われている。川口が削られているの意と思う。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.412 より引用)
これも更科さんの文章っぽい感じですね。o-{chi-kere} で「河口・{削れている}」と考えたようですが、なるほど、これはありそうな解ですね。ただ、落切川の河口付近は特に削られているように見えないという大きな問題があります。

「岬・足」説?

この「疑問の地名」について、「午手控」には次のように記されていました。

ヲチキリ
 本名ノチキリのよし。此川一ツにて中程にて二ツに切、両方え水が切れて下るによって也。此川ヲチキリとベライウシの南川へ下るが故に号る也
松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 六」北海道出版企画センター p.405-406 より引用)
これまたちょっと不思議なことが書いてありますね。落切川は途中で二手に分かれていると言うのですが……。「ベライウシ」は現在の目梨泊のあたりを指しているようですので、目梨泊の南を流れる川と言うと「モウケシタンベ川」か、その南隣の川あたりでしょうか。

実際には、落切川の北には山があり、どう転んでも目梨泊方面に分水していたとは考えられません。ただ、落切のすぐ北に(目梨泊までは行かないものの)分水の可能性を窺わせる鞍部がありました。

(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
落切川の北東側に伸びている尾根に鞍部があり、鞍部の南にも標高 8~90 m ほどの山が二つほど確認できます。これを not-chikir で「岬・足」と呼んだ……ような気がしてきました。

「午手控」からは、元々は「ノチキリ」で転じて「ヲチキリ」となったと読み取れますが、not-chikiro-{chi-kere} で「そこで・{削れている}」と呼ばれるようになった……と考えることもできそうです。あるいは o-chikiru で「そこで・向きを変える」とも解釈できるかもしれません。

イチヒレ川

e-{chi-kere}??
水源・{削れている}
(?? = 典拠未確認、類型あり)
落切の南に位置する問牧には「問牧川」が流れていますが、その南支流の名前です。何故今頃……と訝しく思われるかもしれませんが、これにはちょいと事情が……(汗)。

この「イチヒレ川」ですが、「東西蝦夷山川地理取調図」にはそれらしき名前を確認できませんでした。明治時代の地形図には「タン子ペナ」という川の支流として描かれていますが、実際よりはるかに短い川として描かれてしまっていて、川名の記入もありません。

結論から言えばこの川名の由来は全くわからないのですが、「ヒ」が「キ」だったとしたら「イチキレ川」となり、e-{chi-kere} で「水源・{削れている}」の可能性があるなぁ……というお話です。「落切川」が o-{chi-kere} かもしれない……ということからの類推でもあるのですが、音が似ていて両者が混同された可能性もあるかもしれません。

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2021年6月26日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (843) 「問牧」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

問牧(といまき)

tuyma(-k)-i??
遠い(・強勢)・もの
(?? = 典拠あるが疑問点あり、類型未確認)
枝幸町北部の地名で、同名の川も流れています。「東西蝦夷山川地理取調図」には「トイマキ」という名前の川が描かれていました。「再航蝦夷日誌」には「トヱマキ」とあり、また「竹四郎廻浦日記」には「トイマキ」と記されています。概ね「トイマキ」だったと見て良さそうでしょうか。

永田地名解には次のように記されていました。

Toimaki  トイマキ  ? 川名、鮭上ル川ナリ
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.438 より引用)
「鮭が上る」という有益な情報も記されていますが、肝心の地名解については「?」だったようです。

「畑の後ろ」説

更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

奥行はそれほど深くないが、支流が多く、その中にトレプタトイマキ(うばゆりを掘るトタイマキ)などという支流もあり、キトタウシュナイ(行者蒜をとる沢)などと共に、植物性食糧を集める川筋であったことが知れる。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.197 より引用)※ 原文ママ
このような背景から、更科さんは次のように考えたようです。

トイは土とか畑とかいう言葉であり、マキはマㇰでうしろとか山手という意味があるが、この地名には川の名であるというのにナイ(川)もペツ(川)もついていないものが多いので畑のうしろの川の意味らしい。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.197 より引用)
ということで、toy-mak で「畑・後ろ」と考えたようです。toy は「土」であり、また chi-e-toy の省略形として「食用土」と解釈する場合もありますが、他にも「畑」や「原」あるいは「墓」などに解釈できます。

「崩れた出崎」説

うっかりしていましたが、問牧には国鉄興浜北線の駅がありました。ということで「北海道駅名の起源」を見てみると……

  問 牧(といまき)
所在地 (北見国)枝幸郡枝幸町
開 駅 昭和 11 年 7 月 10 日
休 止 昭和 19 年 11 月 1 日
再 開 昭和 20 年 12 月 5 日
起 源 アイヌ語の「ツ゚イ・パケ」(くずれた出崎)から出たものである。
(「北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.191 より引用)
あらっ、解釈が分かれましたね。tuy-pake で「崩れた・出崎」というのはいかにも地名らしい解釈で首肯できるものですが、ただ古い記録での裏付けが取れないんですよね(かつて「トゥイパケ」と呼ばれていたことを示唆する記録が見当たらない)。

「遠いもの」説

toy-mak で「畑・後ろ」か、あるいは tuy-pake で「崩れた・出崎」なのか……という話ですが、個人的にはどちらも引っかかるものを感じます。さてどうしたものか……と思ったのですが、「午手控」に次のような記録を見つけました。

トイマキ
 昔し喰物無き時山へ行、土を喰し也と。トイマウシの本名なるが訛りし也
松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 六」北海道出版企画センター p.405 より引用)
「土を食べる」というのは随分と衝撃的ですが、知里さんによると……「樺太アイヌの生活」の文章が秀逸なので、そのまま引用してしまいましょう。

チエトィは či-e-toj「我等が・食べる・土」の意である。チカリペに必ずチエトィを用ひるのは,野草のアクを抜き,海豹の強烈な油を適当に中和するのに役立つかららしい。アイヌは,チエトィの入ったチカリペは「甘い」といひ,「チカリペ程,美味しい御馳走はない」といふ。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『樺太アイヌの生活』」平凡社 p.193 より引用)
要は「調味料」として珪藻土を用いていた、ということのようです。松浦武四郎の書きっぷりとは随分と趣が異なるのは、誤解があったのか、アイヌが話を盛ったのか、あるいは本当に土を食べていたのか不明ですが……。

閑話休題、「午手控」には「本名はトイマウシ」だと記されています。tuyma は「遠い」という意味なので、tuyma-us-i は「遠い・そこにある・もの」と考えられそうでしょうか。

tuyma-us で受けるのは若干おかしな感じもするのですが、やがて -us が省略されて tuyma-i となり、ただこれだと法則的に -i が落ちてしまうので、そうならないように強勢の -k が挿入されて tuyma(-k)-i で「遠い(・強勢)・もの」と呼ばれるようになった、と考えられるかもしれません。

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2021年6月25日金曜日

春の道北・船と車と鉄道で 2016 (128) 「『バスユータン場所』は今」

国道 231 号「浜益トンネル」の、二つ目の大きな右カーブに差し掛かりました。ここは「雄冬岬トンネル」と「浜益トンネル」の接合部だと考えられますが、海側(左手前)に向かっていた筈の「雄冬岬トンネル」の旧ルートはきれいに塞がれてしまったように見えます。
片側交互通行規制はトンネル接合部の前後だけなので、今回もあっさりと終了です。
「浜益トンネル」の、旧「雄冬岬トンネル」区間を北北東に向かいます。もう出口が見えてきましたね。
「雄冬岬の前後はトンネルが沢山ある」という認識でしたが、実のところは「二ッ岩トンネル」と「浜益トンネル」に集約されてしまっていたのでした。「雄冬岬トンネル」「タンパケトンネル」「ガマタトンネル」と「千代志別トンネル」をつなぐ覆道も含めて「浜益トンネル」に一体化してしまったことが大きいですね。

石狩市浜益区雄冬

浜益トンネルを抜けて「浜益区雄冬」に出ました。海沿いということもあり、立派な防風柵が海側に立っています。防ぐ対象は風雨のみならず高波も、なのかもしれませんね。
「二の滝川」に架けられた「白銀橋」を渡ります。雄冬集落は大半が増毛町内にありますが、南側の一部は「石狩市浜益区雄冬」です。
「雄冬橋」を渡ります。橋の下を流れる川が「電話下川」という名前らしいのですが……。Hey what's up?

「バスユータン場所」は今

雄冬集落に入りました。ここは、まだギリギリ石狩市浜益区雄冬です。
「とど岩橋」という橋が見えますが、この橋の下も船着き場でしょうか(川では無さそうな気が)。すぐ北に「雄冬漁港」があるのですが、石狩市内にも船着き場を持って置きたかった……ということでしょうか。
なお、橋を渡った先に「バスユータン場所」という看板が立っていましたが、既に撤去済みです。

何故こんなところに境界が

国道 231 号は緩やかに右にカーブしています。カーブの途中からは 40 km/h 制限になるようです。
カーブを抜けた先からは増毛町です。
何故こんなところが市町境になっちゃったんだろうと不思議に思いますが、沖合に「とど島」という島があり、魹島と「雄冬山」の尾根を結ぶラインを境にした、ということのようですね。

もう少し南側の「タンパケ」あるいは「ガマタ」のあたりを境界にしても良かったんじゃないかと思えてきますが、そうならなかったのは「漁業権」絡みの「調整」があったのかな……と想像したりします。

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