(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。
岡島(おかしま)
(典拠あり、類型あり)
枝幸町の地名で、徳志別川と北見幌別川の中間、やや北寄りのあたりです。道の駅「マリーンアイランド岡島」のあるところですが、厳密にはもう少し南側、漁港のあるあたりの地名です(道の駅のあるあたりは「ツシマコタン」と呼ばれていたみたいです)。「東西蝦夷山川地理取調図」には「チトシマコタン」「カムイウシ」の南側に「ウカウシユマ」という地名?が描かれています。「再航蝦夷日誌」には「ウカイウシユマ」とあり、「竹四郎廻浦日記」には「ヲカウウシ」とあります。
永田地名解には次のように記されていました。
Uk shuma ウㇰ シュマ 手玉石 「ウク」ハ取ルノ義古ヘ山中ノ熊王ト海中ノ「山中の熊王」と「海中の海 馬 ト戰ヒシガ熊ノ力ヤマサリケン海馬ヲ取リテ引キ裂キタリシガ神來リテ其熊ヲ取リテ引キ裂キ海岸ニ投ゲタリ其熊ト海馬ハ岩ニ化シ遂ニ海馬ノ上ニ熊ヲ置キタル岩石トナリシト云フ小説アリ
ただ、「ウカウシユマ」や「ヲカウウシ」という記録から考えると、これは ukaw-suma で「重畳している・岩」と考えて良いと思います。この地名をデスマッチ譚にする構成力も素晴らしいものですが、「ウカウシュマ」を「岡島」にしてしまったのもお見事!ですよね
オンネシトシスマリコタン川
(? = 典拠あり、類型未確認)
岡島小学校と道の駅「マリーンアイランド岡島」の間あたりを流れる川の名前です。前述の通り、道の駅のあるあたりは嘗て「ツシマコタン」と呼ばれていましたが、「東西蝦夷山川地理取調図」には「チトシマコタン」という地名?が描かれていました。永田地名解には次のように記されていました。
Chi tushmak kotan チ ト゚シュマㇰ コタン 奔リ行ク處 日沒セヌ内ニ奔リ行ク處「ト゚シュマㇰ」ハ奔リ行ク意
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.440 より引用)
「chi-tusmak で「我ら・急ぐ」あるいは「急がされる」というのはこれまで見たことがない解で、もっと地名らしい解釈ができるのではないかと色々と考えてみました。たとえば tus は「縄」で「蛇行した川」を指す場合があるので、tus-mak(-oma)-kotan で「蛇行した川・後背(・そこにある)・集落」と考えられないか……などとも思ったのですが、それだと chi- をどう解釈したものか、と迷ってしまいます。なんとなくスッキリしないですが、永田地名解を追認するしか無いのかな、と。
この何ともスッキリしない「急がされる集落」ですが、「午手控」には次のような「解説」がありました。
ホンチトシマコタン幽霊云々の妥当性はともかく、何らかの理由で日没後の移動を控えるべきだった、ということなのかもしれませんね。日没後の移動を控えるという話は永田地名解の補足とも一致するので、そのような話が語り継がれていた可能性がありそうです。
昔し土人多く居り、皆死して仕舞、夜々幽霊が出しが故に、昼の間計り歩行ねばならぬと云所
モシナイ川
(典拠あり、類型あり)
北見幌別川の河口近くで合流している「ニシナイ川」という南支流があるのですが、その「ニシナイ川」の支流が「モシナイ川」です。元々は北見幌別川に直接合流していたものが、北見幌別川の流路改修により便宜上「ニシナイ川」の支流になってしまった、というのが正確なところかもしれません。明治時代の地形図では、現在の「ニシナイ川」が「ウエンナイポ」になっているものと、「ウエンナイポ」とは別にニシナイ川相当の川(川名不明)が流れていたように描かれているものがありました。(川名不明)は「エシエュナイ」と描かれているようにも見えますが、やや不明瞭なので……。
話を「モシナイ川」に戻しますと、「東西蝦夷山川地理取調図」には「モシンナイ」という川が描かれていました。また明治時代の地形図には「モシリナイ」と描かれているので、mosir-nay で「島・川」と考えて良さそうに思えます。
「モシンナイ」とあるのは mosin-nay のことで、音韻変化の法則を考えると mosir-nay が mosin-nay に変化するのはむしろ自然なことです。
現在の枝幸町下幌別のあたりは川沿いに農地が広がっていますが、もともとは北見幌別川が蛇行を繰り返し、中洲がいくつも存在していたようです。「モシンナイ」という川名はそのあたりに関連したものだと思われます。
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