2021年4月30日金曜日

冬の愛媛・大分フェリー旅 2020 (74) 「『鼻セレブ』があるのなら」

国東市国見町と豊後高田市の境界にある「新竹田津トンネル」の出口が見えてきました。このトンネルは「国見トンネル」よりも長く、旧・国見町にあるトンネルの中では一番長いものです(もっとも半分は豊後高田市のエリアですが)。
トンネルを抜けてすぐに、「竹田津隧道」を経由していた旧道と合流します。

ようこそ豊後高田市へ

相変わらずの逆光を、道路脇の林が遮ってくれていたのですが……ん、何か看板が見えますね。
なんと、「ようこそ豊後高田市へ」とあります。ボンネットバスのイラストが描かれていて、下には「昭和の町まで 24 km」とあります。
いつものことながら画質が残念すぎるので(改善計画発動中です)、Google ストリートビューで撮影されたものを見ておきましょう。

「鼻セレブ」があるのなら

「見目川」が流れる「豊後高田市見目」にやってきました。見目の北東には尾根が絶壁状に突き出している「長崎鼻」という岬があり、その近くにキャンプ場があるようです。「鼻リゾート」では無いのでご安心ください。
アイヌ語で「鼻」を意味する etu という単語がありますが、「鼻」から転じて「岬」という風にも解釈されます。北海道から遠く離れた九州でも「岬」のことを「鼻」と言う場合があるというのは、面白いですよね。

西国東郡香々地町

「見目川」は大分県内で完結する二級河川とのことですが、なかなか立派な標識が建てられていますね。
見目川の東の尾根は「長崎鼻」となりますが、西側の尾根はトンネルを掘らずとも抜けられる程度の高さになりました。ここから「宇佐神宮」までは約 28 km とのこと。順調に行けば 40 分程度の距離でしょうか。
国道 213 号は再び進行方向が西南西に変わりました。「スーパーかかぢ」という店の看板が見えますが、ここは 2005 年まで「西国東郡香々地町」(──かかぢちょう)という町でした。現在は「豊後高田市香々地」という大字として残っています(大字香々地の領域は旧・香々地町と比べて随分と狭くなったようです)。

トンネルナンバリングは続く

前方にトンネルが見えてきました。豊後高田市に入ってもトンネルラッシュは続くのでしょうか……?
……えっ! トンネルの手前にはまさかの「⑫ 香々地トンネル」の標識が! あれはてっきり旧・国見町オリジナルかと思っていたのですが、まだ続いていたのですね……。
「⑫ 香々地トンネル」のトンネルポータルには、絵やレリーフなどはありません。
トンネルの出口は緩やかに右にカーブしています。トンネルの中はそれほど古そうに見えないので、ポータルの痛みが逆に目立ってしまいますね。

失われたトンネル群

ちなみに、「⑫ 香々地トンネル」と次の「⑬ 松津トンネル」(しょうず──)の間は過去にルート変更が行われたようで、旧道には旧・香々地トンネル(正式名称未詳)を含めて 3 つのトンネルがあったようです。「旧・香々地トンネル」はいかにも昔風の、変わった形の断面のトンネルだったんですね。


2 つ目のトンネル(名称未詳)は、割とコンサバな設計のトンネルに見えます。現在も走行できそうな感じですね。


3 つ目のトンネル(名称未詳)は、2 つ目のトンネルと比べて長さが半分程度のものです。一直線に抜ける様は、まるで鉄道のトンネルのようですね。

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2021年4月29日木曜日

「日本奥地紀行」を読む (115) 金山(金山町) (1878/7/17)

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第十九信」(初版では「第二十四信」)を見ていきます。

農村統治(続き)

首記の通り、「日本奥地紀行」には「完全版」と「普及版」があるのですが、「普及版」が純粋に「紀行もの」を志向したのに対し、「完全版」はイザベラの「スポンサー」である政府筋向けの「報告書」としての姿勢が色濃く残るものです。第二十四信の最後に綴られている「農村統治」は、まさしく「報告書」に他ならない内容ですので、「普及版」でバッサリとカットされたのも、まぁ当然なのかもしれません。

 現在の米の物納から貨幣による納税の税制改革は、きわめて巧みな調整が必要とされています。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.84 より引用)
あー。言われてみれば当然の話なんですが、江戸時代は「年貢米」を納めるのが「納税」なんでしたね。現在は普通に「お金」を納めていますが、この変化も当時の農民にとっては「革命的」なものだった、と言うことなのでしょう。

この後に「土地は農民たちが敏感になる唯一の関心事で」と続くのですが、確かに日本人の「土地」に対する執着心は、ある意味「信仰」とも言えるレベルに達しているようにも思えます。イザベラは、物納から貨幣での納税への変更に際して農民が暴徒化するケースが普通に見られたことを記していますが、大抵は「県令かその代理人」の説明で引き下がったとのこと。

想像するに、これまでは「収穫した米の何割かを差し出せば良い」という、ある意味単純な仕組みだったのに対して、後の固定資産税に代表されるような「土地の所有」自体が課税の対象になるというところに軋轢が生じたケースがあったのではないでしょうか。

 私は戸長から農民の実態について聞き出そうとしてうまくいきませんでした。彼は今までの方が良かったと考えているように見えましたが、私は彼の言ったことに納得がいきません。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.84 より引用)
「戸長」は行政の一端を担う役職である筈ですが、それでも明治政府の推し進める「税制改革」に否定的だったんですね。明治政府の「富国強兵」という考え方は「民衆の富をいかに効率よく国が吸い上げるか」とも考えられるだけに、「地方自治」が蔑ろにされて中央集権化が加速することに対して「今までの方が良かった」と考えたのだとしたら、それはもの凄く慧眼ですが、さすがにそれは買いかぶり過ぎですよね。

自由化と二極分化

イザベラは明治政府による税制の改革について、次のように高く評価していました。

彼は自分の意思によって自分の土地を処分し、売り、彼の好むところのどんな作物でも植えつけする権利を有していて、もはや農奴のように土に縛り付けられていることはなく──旧体制下では実際上そうだったのですが──、上流階級の無数の特権と、彼ら自身の自由の諸限界は取り除かれたのです。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.84-85 より引用)
これも重要な指摘ですね。「士農工商」の身分制度は近代化の過程で名目上は解体されたことになりますが、「農地の所有」という概念が「農民という身分への固定」から解放されるために不可欠であった、というのは見落としがちです。

現在は、それぞれが所有しているものが査定されて権利証書が発行され、実際の耕作者に土地の権利が付与されていますが、しかしすべての鉱物採掘権はミカドに保持されていて、かくて天皇は全日本の荘園の領主であります。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.85 より引用)
そう言えば、江戸時代に農地を「所有」していたのは誰だったのかな、という疑問が出てきました。農地は領主(藩主)の所有物で、年貢米を納付することで農民に「耕作権」が付与されていた、ということなんでしょうか?

「農地の所有」は結果的に農民を身分制度から解放する基礎となりましたが、その代わりに所有した農地そのものが課税対象となりました。農地そのものが課税対象になるというのも多少引っかかるものを感じるのですが、農地を所有したならば農産物を生産して税金を払いなさい、ということでしょうか。

しかしながら課税の主たる賦課部分は農地の所有に課せられています──昨年、地税は地価の 2.5 パーセントに減じられ、やはり土地課税である地方自治体の税は、最大、地税の 5 分の 1 には限定されていますが。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.85 より引用)
土地の所有権が売買可能になったことで、生活に困窮した農民が土地を手放すことになり、やがて「地主と小作人」に二分されたということを我々は知っていますが、イザベラもその可能性を予期しつつ、「日本人の土地に対する執着心」がそれを阻むのではないか……という希望的観測を述べています。

土地を抵当に入れるための便宜は多く、このような方法で、小規模所有地は現在の自由所有権者の手から離れ、依存労働者人口を有する大地主の階級が発生するかもしれず、この変化に対する歯止めは、日本人の性格の特徴である土地に対する結びつきの強烈な執着に存しているのです。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.85 より引用)
結果的には、イザベラの「希望的観測」は実現しなかったわけですが……。

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2021年4月28日水曜日

冬の愛媛・大分フェリー旅 2020 (73) 「国見町最後のトンネル」

前方にトンネルが見えてきました。国見町伊美と国見町櫛海(くにみまちくしのみ)を結ぶ「⑩ 国見トンネル」のようです。
ついに二桁の大台に到達ということで、確かにこれだけトンネルが多ければナンバリングするのも意味のあることだよなぁ……と思えてきました。
「⑩ 国見トンネル」のポータルは、特に壁画なども描かれておらず、クラックの補修跡が多少あるものの、マスクメロン模様というわけでもありません。
もしかしたら、ここまでのトンネルの中では最も長かったかもしれない「⑩ 国見トンネル」を抜け……うわあっ!!
写真に落としても眩しく感じるというのは、相当なものですよね。

海の跡の遊水地?

「トンネルを抜けたら、そこは逆光だった」というのが続きますね……。17 時を少し回った頃なんですが、出口が西南西向きなので、ほぼマトモに太陽に向かって進むことを余儀なくされます。
幸いなことに、早くも西日は山に遮られました。このあたりの国道はほぼ真西に進んでいるのですが、ここもどうやら干拓地のようです。そう考えるヒントとなったものが左側に見えているのですが……
ヒントとなったのが、このトンネルです。これは旧道のトンネルだったようで、国道と旧道の間は遊水地のようになっています。この遊水地の部分も、かつては海だったということでしょう。
旧道と国道が分岐する交叉点にやってきました。国道は引き続き直進ですが、この先も干拓地と言うことのようです。

徳山行フェリー

「竹田津港」への案内が見えてきました。「徳山行フェリー」に乗船するにはこの先を右折して県道 522 号「竹田津港線」を北に向かえば良いとのこと。
画質も酷ければ逆光も酷いので、Google ストリートビューでも……。


300 m ほど先にある県道 522 号「竹田津港線」との交叉点が見えてきました。これまでの例で行けば、この交叉点が県道の「終点」になるのでしょうね。

遅れがやや拡大

信号に引っかかってしまったので、久しぶりにナビの情報をチェックします。到着予定時刻は 19:18 とのこと。前回確認した時よりも 5 分ほど遅くなっています。
旧・国見町にも「日本最小の青看板(?)」がありました。

竹田津隧道

この先で広域農道が左に分岐するよう……ように見えますが、実際には旧・国道が分岐しています。旧・国道の先に広域農道が繋がっている……と理解しましたが、勘違いだったらすいません。
旧・国道はトンネルのすぐ手前で分岐しています。電話ボックスが見えますが、非常用電話を兼ねていたりするのでしょうか……?
ちなみに、旧・国道のトンネル(竹田津隧道)は現在も通行可能のようです。


それにしても、このトンネルもかなり狭そうな感じですね。乗用車同士のすれ違いもギリギリなんじゃないでしょうか……。

⑪ 新竹田津トンネル

次のトンネルは「⑪ 新竹田津トンネル」です。「次は豊後高田市」とあることからもわかるように、旧・国見町(国東市)のトンネルはこれで最後です。いやー、確かにこれは結構な数でしたね。
ということで、「国見イレブン」のトリを飾る「新竹田津トンネル」に入ります。

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2021年4月27日火曜日

冬の愛媛・大分フェリー旅 2020 (72) 「マスクメロン?」

「⑧ 古櫛トンネル」を抜けて、かつての干拓地と思しき土地を通って北西に向かいます。左手に断崖が見えてきましたが、ここがかつての海岸線だった時代もあるのではないかと……。
沖合に姫島が見えます。地図で見た感じでは、少なくとも 4 つほどの島が繋がった陸繋島のように見えます。
国見町櫛来(くにみまちくしく)の北西の外れには「櫛来港海岸」があり、「くにみ海浜公園」や道の駅「くにみ」などの観光スポットが軒を連ねています。
このあたりは国見町の中心部から近く、また姫島行フェリーが発着する「伊美港」とは山ひとつ隔てているので、色んな意味で「ちょうどいい」立地なんでしょうね。

マスクメロン?

次のトンネルが見えてきました。日が差さない場所は随分と暗くなってきましたね。
次のトンネルは「⑨ 権現トンネル」とのこと。「伊美港」のある、国見町の中心部に向かうものです。
そしてこれが「⑨ 権現トンネル」のポータルですが……どう見ても「マスクメロン」ですよね。クラックを補修したのだと思いますが、芸術性すら感じさせます。
トンネルを抜けると「国見町伊美」です。

県道 524 号「伊美港線」

旧・国見町からは、「姫島行フェリー」と「徳山行フェリー」が、それぞれ異なる港から出ています。
「姫島行フェリー」が出ている伊美港へは、次の交叉点を右折です。
伊美港に向かう県道 524 号「伊美港線」の終点(交叉点)が見えてきました。県道 524 号の延長は約 300 m とのこと。

国東高等学校 双国校

伊美港には向かわずに、そのまま国道 213 号を西に向かいます。左にカーブして南西に向かうことになったのですが、西日が差し込んで眩しいですね……。
左側に「国東市役所 国見総合支所」があるとのこと。かつての「国見町役場」のようです。
信号を左折すると県道 31 号「山香国見線」で、山香・赤根方面に向かうみたいです。「山香」は旧・速見郡山香町のことで、現在は杵築市山香町です。「赤根」は国見町赤根で、旧・国見町南部の地名のようです。
ところで、よく見ると「大分県立 国東高等学校 ○○校」という案内があることに気がつきます。これは「国東高等学校 双国校」のようで、元々は「双国高等学校」だったとのこと。「双国」というネーミングは変わっているなぁと思っていたのですが、国東・国見で「双国」なのかもしれませんね(なんか「双日」みたい)。

旧道の「妙見トンネル」

この先は、伊美から竹田津に向かう「国見トンネル」を抜けるのですが、旧道と思しき「妙見トンネル」は左側に分岐した先にあるとのこと。
トンネルとしては現役のようですが、これは随分と狭そうですね……。

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2021年4月26日月曜日

冬の愛媛・大分フェリー旅 2020 (71) 「起源も由来も不明の奇祭」

国東市国見町岐部……かつての「熊毛村岐部」を北に向かいます。国道は「ライト点灯」の警告の先で左にカーブしていますが、まっすぐ進んだ先に旧トンネルがあるようです。
ということで先に旧トンネルですが、これを見た感じでは今も通行可能な状態のようですね。


ただ、断面のサイズがかなり小さいので、大型車のすれ違いは難しかったのでしょうね。

⑦ 水ヶ元トンネル

現在の「⑦ 水ヶ元トンネル」は手前で左に曲がって距離をショートカットしていますが、地形図で見た限りではトンネルの長さはそんなに変わらないようですね。
「水ヶ元トンネル ⑦ 国見町」の案内板は、割と手前のほうにありました。
トンネルポータルに絵などは描かれておらず、特に癖のないものです。
ちゃちゃっとトンネルを抜けて、西へと向かいます。
国道は緩やかに右にカーブして、北西方向に向きを変えました。おっ、海が見えますね(どうしても海に反応してしまう、海無し県民の性……)。

⑧ 古櫛トンネル

右に分岐する道が見えますが、どうやらこれが旧道のようです。旧道は岬の北側をグルっと回っていたので、トンネルは存在していませんでした。
トンネルの手前には「トンネル出口 交差点あり」の警告が。トンネルを出た先で旧道とクロスするみたいです。
ということで次の「⑧ 古櫛トンネル」が見えてきました。
この「⑧ 古櫛トンネル」という名前ですが、「古江」と「下櫛来」(しもくしく)をショートカットするトンネルなので「古櫛」なんでしょうね。久しぶりのストレートなネーミングでしょうか。

ケベス祭

トンネルの左側には何やらレリーフのようなものが見えます。下には「祭」の文字が。「ケペス祭」かな、と思ったのですが、どうやら「ケベス祭」が正解のようです。なんでも「起源も由来も不明の奇祭」とのこと。

干拓地?

かなり新しそうな「⑧ 古櫛トンネル」をささっと抜けて西に向かいます。
ぐわっ!
逆光が凄まじく眩しいですが、確かにトンネルを抜けた先に交叉点がありました。右からやってきて左に抜けるのが旧道で、国道は「櫛来川」を渡ってまっすぐ西に向かいます。川の位置や大きさが不自然なので、川を渡った先は干拓地の可能性が高そうです。

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