2021年3月31日水曜日

冬の愛媛・大分フェリー旅 2020 (53) 「不思議の国の日出 JCT.」

別府 IC を通過して、ゴルフボール避けの覆道?も通過して、大分自動車道の起点である「日出 JCT.」を目指します。「日出」は「ひじ」と読むのですが、当たり前のように読める人もいれば、「えっ!?」と驚かれる人も居そうでしょうか。

別府湾 SA

次の「別府湾 SA」は ETC 出口もあるようです。緑色基調の標識のなかでいきなりの紫色には度肝を抜かれたものですが、今はすっかり馴染んでしまった印象があります。慣れって恐ろしいものですね。
左手に、いかにも別府らしい山が見えてきました。これは「伽藍岳」の北東尾根でしょうか。山の雰囲気がどことなくカリフォルニアっぽい感じで、ちょっと懐かしく思えたり……。
別府湾 SA が見えてきました。別府湾 SA の駐車場は本線の右側にあるので、左側にはランプウェイ以外は何もありません。ETC の普及とともに増えてきたタイプの構造ですね。昔は通行券を交換するなどの不正行為があったので、この手の構造の SA は比較的珍しかったのですが……(有名なところでは浜名湖 SA など)。

日出 JCT.

さて、日出 JCT. まであと 2 km となりました。「東九州自動車道」と「大分自動車道」の分岐点で、「大分自動車道」の起点でもあります。
1.8 km 先の「日出 JCT.」の案内図が出てきました。別府から北に向かう場合、真っ直ぐ走れば中津経由で小倉へ、そして左に向かえば日田経由で鳥栖・福岡へ……と考えたくなります。JR だと南北の幹線である「日豊本線」と、大分から西に向かう「久大本線」に相当するのですが、どちらがメインルートかと言えば、間違いなく小倉に向かう「日豊本線」がメインルートでしょう。
ところが、この案内図を見ると、直進すると鳥栖に向かう「大分自動車道」に入ってしまうように描かれています。引き続き「東九州自動車道」で中津・小倉に向かうには、左に流出する必要があると言うのです。

左へ行くには真っ直ぐ、真っ直ぐ行くには左へ

日出 JCT. まであと 1 km となりました。「東九州道」「日出バイパス」は左に流出、「大分道」へはこのまま直進と説明されています。
「西に向かって大分道に入るには直進、北に向かってそのまま東九州道を走るには左折」ということで、直感的な方向とは逆に進む必要がある……ということになります。

もともとこの区間は大分道として開通したものの、その後東九州道が整備された際に東九州道に編入?されたために、なんとなく違和感のあるレイアウトになってしまった、ということのようです。左右が逆であれば全く違和感は無かったんですけどね。

ドライバーに全力でアピール!

車線の左には「中津・宇佐 左分岐」、そして右には「日田・湯布院 直進」と出ています。
広域情報案内板も、左が「北九州方面」で右が「大分道鳥栖方面」です。そしてわざわざ左側の柱にも小型の案内図がつけられています。
またしても「中津・宇佐 左分岐」「日田・湯布院 直進」ですね。
日出 JCT. まであと 600 m となりました。案内する内容は 1 km 地点のものと同じですが、よく見ると左に向かう矢印は黄色くなっているのですね(路面も一部黄色くなっています)。柱の左右にも「宇佐」と「湯布院」への案内が追加されていますが……なるほど、上のパネルには「宇佐」と「湯布院」への案内が無いのですね。

四コマ看板

中央分離帯にはこんな案内も。「中津 宇佐」とありますが……
続いては「大分 空港」ですね。
その次が「分岐 近し」で……
最後が「左へ」でした。
まるで四コマ漫画のようですね。形振り構わず必死にアピールしていることが良く見て取れます。間違えてしまった人がどの程度いたのかはわかりませんが、次の「由布岳スマート IC」までは 7.7 km もありますし、「湯布院 IC」までは 16.7 km もあります。間違えた後のインパクトは結構なものがありそうです。

手つかずのスペース

左側車線に「北九州」の文字が見えてきました。
続いて「中津方面」ですね。
ここまで見てきた感じでは、あらゆる手を尽くした感もありますが、まだ左側のウォールが手つかずですね(焚き付けてどうする)。

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2021年3月30日火曜日

冬の愛媛・大分フェリー旅 2020 (52) 「ゴルフボールに要注意」

公道最速のあの車の再登場に度肝を抜かれたこともあってか、うっかりカントリーサインの存在を忘れてしまいそうになりました。東九州自動車道で大分市から別府市に向かう場合は、「由布市挾間町」(──はさままち)を経由することになるのですね。
このカントリーサインを見ても想像がつくと思いますが、大分郡挾間町は 2005 年に庄内町・湯布院町と合併して「由布市」となったとのこと。大分市との合併を選ばなかったのは「鶏口牛後」なんでしょうかね。

高崎山

カントリーサインのようなものが続きますが、これは自治体のサインではなく「高崎山」のサインのようですね。
「高崎山」と言えばサルですね。「高崎山自然動物園」があるのですが、「高崎山は野生のサルに餌付けしています」とのこと。「野生」の定義を考えさせられますね。

ここから別府市

「挾間トンネル」を抜けて、続いて少し先にある「鳥越トンネル」に入ります。
「鳥越トンネル」を抜けると……
別府市に入ります。トンネルの途中で別府市に入っているのですが、カントリーサインはトンネルを抜けた先に立てたようです。左に見えるのは大分県道 51 号「別府挾間線」のループ橋です。
ドラレコの動画から起こした写真?は見るに堪えない状態でしたので、ここはストビューで(すいません)。

霧と横風

別府と大分の間の海岸部には新たに高速道路を建設するだけのスペースが無かったので、東九州自動車道は市街地からかなり離れたところを通ります。片斜面上に建設されていることもあってか対向車線が見えませんが、ちゃんと一段下を通っています。
霧が多いことを警告する標識ですが……。上の「キリ」の文字が無いと何の標識だか良くわからないですね。東九州自動車道や大分自動車道は別府湾から湿った空気が流れ込むことから、とにかく霧が多いのだとか。市街地を避けて山手に道路を建設したことが、霧に関しては完全に裏目に出ているような感じもしますね。まぁ、他に選択肢が無かったのでやむを得ないのですが。
大分 IC と別府 IC の間には 5 つのトンネルがあります。特に別府市内に入ってからはトンネルと高架橋で繋いだ区間が多いため、トンネル出口の横風もシャレにならないのかもしれませんね。
風は海側から吹き込むことが多いのか、海側(右側)には防風柵らしきものも見えます。

別府へは別府 IC から

東九州自動車道……開通当初は「大分自動車道」だったでしょうか……は、別府 IC の手前で市街地のすぐ傍に接近します。鶴見岳の山麓にあたるあたりです。
別府 IC の出口が見えてきました。別府 IC なんで「別府」とだけ書かれていますが、なぜか左側にも「別府」の案内が。何故並べる必要が……?

ゴルフボールに要注意

別府 IC を過ぎて、「扇山トンネル」で大分県道 11 号「別府一の宮線」の下を抜けると、覆道のような区間に突入します。
この鉄骨製のドームですが、左にある「別府扇山ゴルフ倶楽部」からの「飛来物」が高速道路上に落下しないように設けられている……と思われます。レイアウトを見た感じでは、余程派手に引っ掛けない限り高速道路側にゴルフボールが飛ぶことはなさそうですが、念の為……ということなんでしょうね。
似たような「ゴルフボール避け覆道」は東海北陸自動車道にもあったと記憶しています。ただ、長さはここの圧勝のような気が……。

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2021年3月29日月曜日

冬の愛媛・大分フェリー旅 2020 (51) 「公道最速のあの車」

「昭和電工ドーム大分」の近くの東九州自動車道をのんびりと走っていたところ……
右手にいきなり、公道最速の誉れ高い Probox が!(Succeed かもしれませんが)
さすがは公道最速の Probox、あっさりと車間を広げていきました(汗)。

地元密着型のネーミング

東九州道は、大分市に 4 つ IC があるようです。「大分宮河内 IC」の次の「大分米良 IC」が近づいてきました。
更に逆光の中を西に向かうと、今度は「大分光吉 IC」が近づいてきました。IC の名前は「○○東」だったり「○○中央」だったりするケースが多い印象がありますが、大分の場合は地元密着型のネーミングなんでしょうか。

緑ゆたかな大分 IC

大分光吉 IC をすぎると、東九州道は大きく右に向きを変えます。前方に見えるのは「鶴見岳」や「由布岳」でしょうか。
大分 IC まであと 3 km、別府 IC までは 17 km です。光の加減で右下に虹のようなものが見えてしまっていますね。
そして大分 IC にやってきたのですが、意外なことにかなり緑豊かな場所にあるようです。県庁所在地の名前を背負う IC なので、もっと殺風景な場所だと思っていたのですが……。

冬用タイヤ規制時 この先でタイヤチェック

大分 IC を通過して別府方面に向かいます。相変わらずの逆光ですが、ちょうどいい具合に道路橋が太陽を遮ってくれました。
橋には「冬用タイヤ規制時 この先でタイヤチェック」という横断幕が張られていたのですが……
偶然にも Google ストリートビューにも同じ横断幕が写っていました。

公道最速の誉れ高いあの車、再び

大分 IC の先の東九州道をのんびりと走っていたところ……
またしても右手にいきなり公道最速の誉れ高いあの車が! ナンバープレートを確認しましたが、別の車だったようです。間に SA や PA は無いので当然といえば当然なんですが……。

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2021年3月28日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (818) 「雄武・当沸川・イナシベツ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

雄武(おうむ)

o-mu-i
河口・塞がる・ところ
(典拠あり、類型あり)
オホーツク総合振興局のエリアでは最も北に位置する自治体の名前です。国鉄興浜南線の終点だったところですので、まずは「北海道駅名の起源」を見ておきましょうか。

  雄 武(おむ)
所在地 (北見国) 紋別郡雄武町
開 駅 昭和 10 年 9 月 15 日
休 止 昭和 19 年 11 月 1 日
再 開 昭和 20 年 12 月 5 日
起 源 アイヌ語の「オ・ム・イ」(川口がふさがる所)から出たもので、現在川尻と呼ばれているところの雄武川の名から出たものである。
(「北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.200 より引用)
町名は「雄武」で「おうむ」ですが、駅名は「おむ」と読んでいたのでした。引用文中にもあるように「雄武」は川名由来ですが、「雄武川」は雄武駅の近くではなく、隣の「雄武共栄仮乗降場」の近くを流れていました。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「ヲムト」という名前の河川?が描かれていました。現在の地形図を見ても、河口のあたりは砂州で捻じ曲げられていて、ちょっとした潟湖のようになっているので、それで to(沼または湖)と呼んだ可能性もあるかもしれません。

「再航蝦夷日誌」には次のように記されていました。

     ヲヽム
ヲムとつむる也。川有。巾十間。船渡し。夷人小屋壱軒。馬は歩行渡り也。此川上にまた沼有るよし也。
松浦武四郎・著 吉田武三・校註「三航蝦夷日誌 下巻」吉川弘文館 p.135 より引用)
ふむふむ。「沼有るよし」とあるので、やはりちょっとした潟湖があったと考えられそうですね。

「竹四郎廻浦日記」には次のように記されていました。

     ヲ ム
小休所一軒(梁一間半、桁五間)有。然し毎には昼飯所なる由。此度は二日路通せし故、爰にて茶斗を出す。前に川有。巾十余里、遅流にして深し。沢目広く、土地肥沃にして茅多く生ず。船渡し。越て夷家一軒(アカイ家内六人)、此者渡し守をする也。
(松浦武四郎・著 高倉新一郎・解読「竹四郎廻浦日記 下」北海道出版企画センター p.336 より引用)
どうやら江戸時代から「ヲヽム」「ヲウム」「ヲム」などのパターンがあったようで、現在「おうむ」に落ち着いているのも原点回帰と言えるのかもしれません。

永田地名解には次のように記されていました。

Omu-i  オムイ  川尻塞ル處 暴風雨ノ時川尻塞ル川ナリ○雄武村
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.446 より引用)
o-mu-i で「河口・塞がる・ところ」と考えたようです。「北海道駅名の起源」もこの解を踏襲したようですね。川は -pet-nay をつけるのが慣例ですが、石狩川や沙流川のような(その土地における)大河は -pet-nay をつけずに呼ぶこともまた慣例でした。

果たして「雄武川」が -pet-nay のつかない「特別待遇」だったかどうかは不明ですが、河口が良く塞がるという圧倒的な特徴が、やがて川全体を指すようになったと考えても不思議はないような気もします。

当沸川(とうふつ──)

to-ut??
沼・脇腹
(?? = 典拠あるが疑問点あり、類型未確認)
雄武川の南東を流れる川の名前です。雄武川は沿岸流の運んだ砂で良く河口が塞がる川でしたが、当沸川は沿岸流が形成した砂州で河口が完全に塞がれてしまい、本来は直接オホーツク海に出る筈が、已む無く北西に向きを変えて雄武川に合流するようになったと考えられます。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「トウウツ」という名前の川が描かれています。明治時代の地形図には「トユ川」という名前で描かれていますが、より縮尺の大きな地図では「トーウツ」となっていました。「トユ川」は誤記だった可能性もありそうですね。

永田地名解には次のように記されていました。

Tō ut  トー ウッ  沼脇 鮭上ル沼ナリ
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.446 より引用)
あれ、またしても -pet-nay の無い形ですね。to-ut は確かに「沼・脇腹」で、沼に横から突っ込む川の名前としては(-pet-nay がつかないことを除けば)妥当なものです。

山田秀三さんの旧著「北海道の川の名」には、次のように記されていました。

 ut は「あばら骨」。地名ではウッ・ナイ(あばら・川)と同じに使う。松浦図には沼形を描く。トー「沼」に、あばら骨のような形でついていた小川の称か。他地でこの名なら to-put(沼の・口)である。
(山田秀三「北海道の川の名」モレウ・ライブラリー p.95 より引用)
あー。そうなんですよね。道庁アイヌ政策推進室が公開している「アイヌ語地名リスト」にも「ただし、to-ut は地名としては一般的でないと思われ、to-put、to-putu などの可能性もあると思われる」にもある通り、to-ut よりは to-putto-putu(どちらも「沼・口」)のほうが地名としては自然なんですよね。-pet-nay がついていたなら、ある程度は納得できるのですが……。

イナシベツ川

inaw-ni-us-pet
木幣・木・多くある・川
(典拠あり、類型あり)
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
雄武川を溯ると、「砂金山」の西で「イソサム川」が南から合流しています。イソサム川と雄武川の合流点から更に雄武川を溯ると、少し先で「イナシベツ川」が南から合流しています。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「エナヲヌウシヘ」(または「エナヲナウシベ」)という川が描かれていました。

表記に揺れがあるのは、ちょうど図の境界あたりに位置していたため、なぜかどちらの図にも描かれてしまい、しかもその際に表記が揺れた……ということだと思われます。

「竹四郎廻浦日記」には「エナウシベ」という名前の川が記録されていました。また永田地名解には次のように記されていました。

Inauni ush pet  イナウニ ウㇱュ ペッ  木幣樹ノ川 「イナウニ」又「ウト゚カンニ」ト云フ
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.446 より引用)
ふむふむ。「エナヲヌウシヘ」の「ヌ」(あるいは「ナ」)が謎だったんですが、なるほど inaw-ni でしたか。inaw-ni-us-pet で「木幣・木・多くある・川」と読めそうですね。イナウの素材となる樹木が多く生えている川、ということなんでしょうね。

永田地名解が補足として記した「ウト゚カンニ」は、萱野さんの辞書に次のように記されていました。

ウト゚カンニ【utukan-ni】
 ミズキ.神に捧げるためのイナウを作る材料.イナウの材料はミズキとヤナギの 2 種類に限定していた.
(萱野茂「萱野茂のアイヌ語辞典」三省堂 p.112 より引用)
あー、ちゃんと調べればちゃんと書いてあるものなんですね……。念のため知里さんの「植物編」もチェックしてみたところ……

 注 3.──北見國紋別郡にイナウニ・ウㇱ・ペッ 「木幣樹・多くある・川」なる地名あり,永田翁の註に “「イナウニ」又「ウト゚カンニ」ト云フ”とある(C, p. 446)。彼地でわ「イナウニ」とゆうだけでミズキを意味したらしい。
(知里真志保「知里真志保著作集 別巻 I『分類アイヌ語辞典 植物編』」平凡社 p.58 より引用)
あああ。ちゃんと調べればちゃんと書いてあるm(ry

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2021年3月27日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (817) 「モサラマン川・シケトシナイ川・オタコムシュベ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

モサラマン川

mo-sar-oma-p?
小さな・葭原・そこに入る・もの(川)
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
雄武町東部に「オニシ沼」という名前の海跡湖がありますが、モサラマン川は「オニシ沼」に注ぐ河川のひとつです(もう一つは「御西川」)。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「モサルマフ」という名前の川が描かれていました。明治時代の地形図には「モサラマン」という名前で描かれています。

永田地名解にも記載は見当たりませんが、更科さんの「アイヌ語地名解」に詳らかに記されていました。

 モサラマン
 紋別郡興部町の隣の部落名。正確な行政の字名ではモサラマンオニシということで、御西川の支流から出た地名であることはたしかである。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.299 より引用)
「正確な行政の字名では」としながら「雄武町」が「興部町の隣」となっているあたり、なんとも不思議な感じもしますが……。

更科さんは「モサラマンオニシ」と記していましたが、陸軍図を見た限りでは大正時代の頃から「モサラマン」という表記が一般的だったようです。現在、国道 238 号がモサラマン川を渡っているあたり、あるいは少し北あたりが「モサラマン」の集落に相当します。このあたりの幹線道路の変遷を追うのも面白そうですが、本題から外れるので……。

モサラマンとは小さい方の湿地に行くという意味で、日本的には湿地から流れ出て来るという意味である。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.299 より引用)
そうですね。mo-sar-oman で「小さな・葭原・行く」と考えられそうでしょうか。ただ「東西蝦夷──」には「モサルマフ」とあり、これを mo-sar-oma-p で「小さな・葭原・そこに入る・もの(川)」と読むこともできそうです。

どちらかと言えば mo-sar-oma-p のほうがより一般的な形なんじゃないかな、と考えています。

シケトシナイ川

sike-tak-us-nay??
荷物・取りに行く・いつもする・川
(?? = 典拠あるが疑問点あり、類型未確認)
「日の出岬」の西を流れる元沢木川と、その更に北西を流れる「オタコムシュベ川」の間を流れる川の名前です。残念ながら地理院地図には川名が描かれていません。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「シケトシナイ」という名前の川が描かれていて、明治時代の地形図にも「シケトチナイ」と描かれています。「再航蝦夷日誌」にも「シケトシナイ」と記されていました。

永田地名解には次のように記されていました。

Shike tochi nai  シケ トチ ナイ  荷ヲ卸ス澤 姥百合ヲ取リ脊負ヒ來リテ此處ニ置キ休ム處
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.447 より引用)
うーむ、これはどう考えれば良いのでしょう。確かに sike は「荷を負う」と解釈できますが……。あ、tori で「逗留する」という意味になるようですので、なるほど sike-tori-nay で「逗留する・滞在する・澤」と考えた、ということでしょう。

ただ、「竹四郎廻浦日記」には「シケトクシナイ」と記録されているので、これだと sike-tori-nay と考えるのは少し厳しくなりそうな気もします。永田地名解の言う「ウバユリを運ぶ際の休憩処」というのはいかにも取ってつけた感があるので一旦忘れるとして、「シケトシナイ」あるいは「シケトクシナイ」をどう考えたものか……。

sik-etok で「目・の前」と解釈できるので、sik-etok-us-nay であれば「目・の前・そこにある・川」になりそうですが、なぜそんな名前にしたかが良くわかりません。

また sike-tak で「荷物・取りに行く」と考えることもできます。これは、「アイヌ語千歳方言辞典」によると次のような仕草を意味するとのこと。

シケタㇰ siketak 【動 1】 山でクマなどを捕った時に、頭と毛皮を先に村に下ろし、後から肉をとりに行く; <sike「荷物」tak「~をとりに行く」。
(中川裕「アイヌ語千歳方言辞典」草風館 p.210 より引用)
あ、これだと永田地名解の内容とも整合性がありそうな感じでしょうか。sike-tak-us-nay で「荷物・取りに行く・いつもする・川」と考えて良いのかもしれません。

オタコムシュベ川

o-tapkop-us-pe
河口・丸山・ついている・もの(川)
(典拠あり、類型あり)
シケトシナイ川の北西を流れる川の名前です(循環参照ですね)。「東西蝦夷山川地理取調図」には「ヲタツコムシヘ」という名前の川が描かれています。

明治時代の地形図には「オタㇷ゚コㇷ゚ウㇱュペ」という名前の川が描かれていました。この「ウㇱュ」というのは如何にも永田地名解っぽいなぁ……と思っていたのですが、どうやら案の定だったようで。

O tapkop ush be  オ タㇷ゚コㇷ゚ ウㇱュ ベ  小山
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.447 より引用)
またしても知里さんがブチ切れそうな、ざっくりしすぎの解釈が記されていました。o-tapkop-us-pe は「河口・丸山・ついている・もの(川)」と解釈できそうですが、これを「小山」にしちゃうのは、いくら何でもまとめすぎなのでは……(汗)。

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2021年3月26日金曜日

冬の愛媛・大分フェリー旅 2020 (50) 「九六位」

突然ですが、大分市に入りました。末広川の「末広ダム」の近くなのですが、このあたりの大分市と臼杵市の境界は……「よく分からない」としか言いようの無いような。
前方にトンネルが見えていますが、その手前が橋になっているのが見えるでしょうか。実はこの橋を渡ると再び臼杵市に戻るのですが、流石にややこしくなるからか、臼杵市に戻った旨は案内がありません。
長さ 2,290 m の「九六位トンネル」(くろくい──)に入ります。この「2,290 m」という長さですが、残念ながら日本の道路トンネルのトップ 100 にも入らないとのこと。高速道路のトンネルの中では 96 位とか、九州のトンネルの中では 96 位になったりしないかな……と、密かに願っていたりします。
トンネルは入口から出口まで一定の曲率で僅かに左にカーブしていました。地質や地下水には特に問題がなく、自由に掘削できる場所だったのかもしれません。
ちなみに、臼杵市はトンネルの途中までで、その先は再び大分市です。

おいマジか

「臼杵 IC」の次の IC である「大分宮河内 IC」が近づいてきました。「おおいたみやがわうち──」と読むのですね。
東九州道をゆったりと流していたのですが……はい??

大分宮河内 IC

大分宮河内 IC の出口車線が左に分かれてゆきます。そして本線には再び追い越し車線が。どうやらここからしばらくは完成 4 車線区間のようです。
大分宮河内 IC はトランペット型ではなく「準直結 Y 型」(の亜種?)と呼ばれるタイプのものです。上下線の出口車線が立体交叉している点がユニークですが、専有面積を小さくする効果がありそうですね。
この手の話は上から見れば一目瞭然ですよね。

速度自動取締機 設置路線

大分宮河内 IC を通過すると、再び道路脇にこんな看板が。
毎度おなじみ「速度自動取締機 設置路線」の看板ですが……。
ほどなく前方にアーチが見えてきましたが、これは N システム(速度違反ではなく手配車のチェック用)ですよね?

謎のマーキング

大野川と乙津川を渡って、「大分松岡 PA」まであと 1 km の地点にやってきました。奥に見えるドームは「昭和電工ドーム大分」こと「大分スポーツ公園総合競技場」みたいですね。
あれっ、道路に謎のマーキングが……(わざとらしい)。きっと宝の場所を示していて、掘り出したら何かが出てくるのでしょう。
謎のマーキングのすぐ先には、厳重に保護された撮影装置の姿が。
Google ストリートビューだとこんな感じです。2020 年 11 月撮影ということのようですから、写真は 9 ヶ月ほど前ということになりますね。

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