2021年2月28日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (811) 「若牛内川・班溪」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

若牛内川(わかうしない──)

wakka-us-nay
水・ある・川
(典拠あり、類型あり)
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
愛別川の「美志内橋」のすぐ上流側で合流している北支流の名前です。川の中流部に「協和温泉」という温泉があります。残念ながら地理院地図には「若牛内川」という名前の記載はありません。

この川は「東西蝦夷山川地理取調図」には描かれておらず、永田地名解や「上川郡アイヌ語地名解」にも記載がありません。前回の記事でも大量の「余談」をぶちまけてしまいましたが、仮に「東西蝦夷山川地理取調図」の内容が完全に信のおけるものだとすれば、この川は「チシコトンナイ」(chasi-kot-un-nay?)の片割れである可能性があります。

いつもの資料には記載が無かったものの、幸いなことに「北海道地名誌」に次のように記されていました。

 若牛内川(わかうしないがわ) 協和地区で愛別川に注ぐ右支流。川口上流 2 キロメートルで協和温泉(冷泉)が川畔より湧出している。アイヌ語で飲水ある川の意。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.318 より引用)
やはりと言うべきか、wakka-us-nay で「水・ある・川」と考えるしか無さそうな感じですね。

班溪(ぱんけ)

panke-{ay-pet}?
川下側の・{愛別川}
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
道道 101 号「下川愛別線」の「協和橋」のあたりで北から「パンケ川」が合流していますが、この「パンケ川」沿いに北上したところに「班渓」という地名があります。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「ハンケアンベ」という名前の川が描かれています。続いて丁巳日誌「再篙石狩日誌」を見てみると……

扨、此アイヘツの事は此イチヤンコエキなる者能くしり居る山中に附、其大略を聞取て樺明しもて筆記するに、先フトより七八丁上りて左りの方ウツクシナイ、右の方ヌフリコヽマツフ、ヌツハヲマナイ、左りの方チシフ(コ)トンナイ、並びてハンケアンヘ、しばし上りて右の方イシカリカリ(プ)しばし上りて左りのちサツクルベシベツ、此処よりテシホ川すじケ子フチえ山越によろしと。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.319 より引用)
昨日に続いて「愛別川の地理に詳しいイチヤンコエキ君」の登場ですが、「左りの方チシフ(コ)トンナイ、並びてハンケアンヘ、しばし上りて右の方イシカリカリ(プ)」とあります。「イシカリカリプ」は「狩布川」のことと考えられるので……うーん、ちょっと変な感じのする記録になっていますね。

ちょっと気になる点

イチヤンコエキが言うには、「チシコトンナイ」と「ハンケアンベ」は並んでいて、少し先に「イシカリカリプ」が右手から合流しているらしいのですが、実際の地形を見てみると「パンケ川」と「狩布川」の距離のほうが遥かに近いのですね。つまり、イチヤンコエキの言う「ハンケアンヘ」が現在の「パンケ川」であるか、ちょっと疑わしい……ということになります。

もっともこれは、「パンケ川」が現在の「協和橋」あたりで合流するのではなく、もう少し下流側まで合流せずに並んで流れていたと考えればクリアできる問題ではあります。極端な話、現在の「若牛内川」の下流部がパンケ川の成れの果てであったと考えれば、全て辻褄が合ってしまいます。

パンケ・アイペツ?

この「パンケ川」については、知里さんも次のように記していました。

 パンケ・アイペツ(Pánke-Aipet「川下の・愛別川」)
 ホロカ・アイペツ(Hórka-Aipet「後戻りする・愛別川」)パンケアイペツの左の枝川。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『上川郡アイヌ語地名解』」平凡社 p.332 より引用)
知里さんが「ホロカ・アイペツ」と記録した川は、現在「左股パンケ川」と呼ばれる川のことかと思われます。となると「パンケ川」は「パンケ・アイペツ」ということになりますね。

このネーミングについても少々引っかかる点がある(「ペンケ」と「パンケ」は本来同格の河川を区分するための接頭詞で、支流に冠するケースはあまり例が無いように思える、など)のですが、完全に本筋から外れる気がしてきたので今日はこの辺で。「班渓」は panke-{ay-pet} で「川下側の・{愛別川}」ですね、というお話でした。

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2021年2月27日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (810) 「伏古・美志内川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

伏古(ふしこ)

husko(-{ay-pet})
古い(・愛別川)
(典拠あり、類型あり)
愛別川の支流に「ヌッパオマ川」という川があるのですが、その北側一帯の地名です。husko は「古い」「古くある」という意味ですが、なぜか北側に「伏古山」という山があるだけだったりします。「山が古い」とは一体どういうことでしょう……?

知里さんの「上川郡アイヌ語地名解」には「愛別川筋の地名」という項もあるのですが、そこには次のように記されていました。

 フシコ・アイペツ(Húshko-Aipet「古い・愛別川」) 左,枝川。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『上川郡アイヌ語地名解』」平凡社 p.332 より引用)
あー、やはり愛別川の旧流があったのですね。そして山の名前は「伏古」が地名として成立してから、「伏古にある山」ということで「伏古山」になった、というオチなのでしょうね。

大正時代の陸軍図には既に旧流は描かれていませんが、明治時代の地形図には「シユマアイベツ」という名前で旧流がしっかり描かれていました(詳しくは http://www3.library.pref.hokkaido.jp/digitallibrary/dsearch/da/detail.php?libno=11&data_id=5-885-0 でどうぞ)。

なお、現在は「ポン川」という名前の川が道道 101 号「下川愛別線」の南側を流れています。この「ポン川」は愛別川からの分水が合流していますが、この分水がかつてのフシコ・アイペツを流用している可能性がありそうです。

ということで、「伏古」は husko(-{ay-pet}) で「古い(・愛別川)」だった、というお話でした。

美志内川(うつくしない──)

ut-kus-nay
肋・通行する・川
(典拠あり、類型あり)
道道 101 号「下川愛別線」から北に分岐する道があり、「美志内橋」で愛別川を渡っています。美志内川は「美志内橋」の 150 m ほど下流側で愛別川に合流する北支流の名前です。

永田地名解には記載が無いようですが、「東西蝦夷山川地理取調図」には「ウツクシナイ」という名前の川が描かれていました。また、知里さんの「上川郡アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 ウックシナイ(Ut-kush-nai「横川が・通つている・川」) この川には肋骨のような枝川がついているのでそう言つたらしい。左,枝川。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『上川郡アイヌ語地名解』」平凡社 p.332 より引用)※ 原文ママ

まぁ、「美志内」が「うつくしない」と読めた時点で半ば勝ったも同然なのですが、ut-kus-nay で「肋・通行する・川」ということのようです。ut は本来は「肋骨」(あばら──)という意味ですが、地名においては直角に近い角度で合流する川のことを「あばらぼね川」と呼んだとされます。

kus-nay は「通行する・川」で、川筋がそのまま交通路として使用された川で良く見かけます。現在の指標ではとても道路として良いルートとは思えませんが、とにかく距離を重視したアイヌの交通路と考えると、山向こうの比布川筋に出るルートの一つとして考えられるかな、と言ったところでしょうか。

松浦武四郎の記録をどこまで信用するか

ここからは思いっきり余談なのですが、改めて丁巳日誌「再篙石狩日誌」を見てみると、少し妙なことに気が付きます。

扨、此アイヘツの事は此イチヤンコエキなる者能くしり居る山中に附、其大略を聞取て樺明しもて筆記するに、先フトより七八丁上りて左りの方ウツクシナイ、右の方ヌフリコヽマツフ、ヌツハヲマナイ、左りの方チシフ(コ)トンナイ、並びてハンケアンヘ、しばし上りて右の方イシカリカリ(プ)しばし上りて左りのちサツクルベシベツ、此処よりテシホ川すじケ子フチえ山越によろしと。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.319 より引用)
「一丁」は約 109 m ですから、「フトより七八丁」であれば、「二線通」の「富沢橋」のあたりということになってしまいます。ここには「ヨーコシナイ第二川」と「ヨーコシナイ川」が北から合流しているので、つまり「ヨーコシナイ川」と松浦武四郎が聞いた「ウツクシナイ」は同じ川だった可能性が出てきます。

そして「ヌツハヲマナイ」は現在の「ヌッパオマ川」だろう……と考えていたのですが、となると「ヌフリココマツフ」という川の存在が宙に浮くことになります。もし「ヌフリココマツフ」が nupuri-ka-oma-p だとすれば、「山・かみて・そこに入る・もの」と考えることができるので、現在の「ヌッパオマ川」の位置に相応しい名前と言えそうです。……余談の余談ですいません。

本題に戻りますと、松浦武四郎が記録した「ウツクシナイ」は現在の「ヨーコシナイ川」のことで、現在「美志内川」と呼んでいる川は「チシフトンナイ」あるいは「チシコトンナイ」だった可能性も出てきます。

「チシコトンナイ」は何処へ

この「チシフトンナイ」あるいは「チシコトンナイ」ですが、明治時代の地形図には「チヤシユトンナイ」という川が描かれていました。知里さんはこの川について次のように記していました。

 チャシコトゥンナイ(Cháshkot-un-nai「砦跡・へ行く・沢」)左,枝川。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『上川郡アイヌ語地名解』」平凡社 p.332 より引用)
あっ、なるほど。確かに chasi-kot-un-nay で「砦・跡・ある・川」と読めますね。現在この川の所在は不明(明治時代の地形図に描かれた川に相当するものが見当たらない)なのですが、現在「ヨーコシナイ第三川」と呼ばれる川のことだったかもしれませんし、松浦武四郎の記録に信を置くならば現在の「美志内川」のことかもしれません。

「砦跡」がありそうな川とすれば、「ヨーコシナイ第三川」のほうが有力かもしれませんね。松浦武四郎は「イチヤンコエキ君がこの辺に詳しいので」としてその語るところを記録したものの、実は結構間違っていた、というオチかもしれません。ただ「ヌッパオマ川」については松浦説の「ヌフリココマツフ」のほうが適切な感じもするので、一概に間違いとも言い切れないんですよね。

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2021年2月26日金曜日

冬の愛媛・大分フェリー旅 2020 (43) 「♪」

トンネルを 3 つほど抜けて、旧・三崎町の東部にやってきました。三崎町が伊方町と合併したのは 2005 年のことですが、ここには今でも「三崎町」というサインが残されていました。「三崎町」のサインは右側にあった、ということは……
想像通り、お隣の「瀬戸町」のサインが残っていました。国道 197 号はここから長い登坂車線が伸びています。
青看板に「フリーズハウス」という文字が見えます。ハウス内の石にぴったりつけるショットでも見られるのか(カーリングだね)と思ったのですが、よく見たら「ブリーズハウス」だったようです。
分水嶺を少し過ぎたあたりですが、上り坂が続きます。それにしてもいい天気ですよね……!

増殖するタービン

トンネルを抜けると、そこには夥しい数の風力発電タービンが……。
なんか Google ストリートビューで見るよりもタービンの数が多いような気もするのですが……アングルの違いなんでしょうか……?


「風車コース」というサイクリングロードの入口が見えてきました。おそらくタービンの管理用道路も兼ねているのでしょうが、なかなかうまくやっているなぁ、と思わせます。
これは「川之浜第 3 トンネル」を抜けた直後ですが、これまた凄い迫力ですね……。
ここはストリートビューでも 6~7 基のタービンが並んでいました。

佐田岬タクシー

国道 197 号は基本的に尾根や高台などを通る道路のため、家屋や店舗、事業所などは滅多に見かけないのですが、左手にいきなりタクシー会社が見えてきました。もの凄く唐突な立地なんですが、マイカー通勤が前提だったら国道沿いに車庫を構えるのが正解なんでしょうか。あ、海から離れたほうが塩害が少ないとかですかね?

またしてもトンネルを 3 つほど抜けて、堀切峠を横切る形で架けられている「堀切大橋」に戻ってきました。この開放感は癖になりますね。
ネーミングが潔い道の駅「瀬戸農業公園」の前ですが、「佐田岬メロディー道路 始まり」の案内が出ていました。あれ、そういや曲は何でしたっけ。
そして、よく見ると道路上に巨大な「♪」が。「佐田岬メロディー道路」は往路でも何度か通りましたが、こんな立派な「♪」は描かれていましたっけ……?

速度取締り強化路線!

ロードノイズが奏でるメロディーを堪能していると、次に出てきたのは「速度取締り強化路線!」でした。何とも興ざめですが、「堀切大橋」を渡ってからは確かにスピードが出せる道なんですよね……。
今回の「佐田岬メロディー道路」はここで終了です。「うみ」や「瀬戸の花嫁」もいいですが、次はどうせならちょっと趣向を変えて「北の国から」とかどうでしょう(さだ違い)。

右カーブ

路上に現れた巨大な「♪」に驚きましたが、今度は「右カーブ」の文字が。見ればわかるような気もしますが、やはり効果もあるんでしょうか……?
……と思っていると、対向車線にも「右カーブ」が。路面は軽くひび割れているようにも見えますが、よく見るときちんと補修してありますね。さすが国道と言うべきか、ちゃんと整備されているなぁ……と思わせます。

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2021年2月25日木曜日

冬の愛媛・大分フェリー旅 2020 (42) 「国道 197 号の終点は」

愛媛県道 256 号「佐田岬三崎線」で三崎港に向かいます。集落に向かう道が左側に分岐しています。日陰になっていることからもわかるように、ここは半島の北側(伊予灘側)です。
直進すると「三崎港」なのですが、修正される前は何と書いてあったのでしょう……? ちなみに左折すると「与侈」(よぼこり)集落に向かうことができるのですが、このあたりではかなり家屋の多い集落のようです。
困ったときのストビューですが…… 2014 年 1 月時点で既に修正済みだったようです。


もしかすると「三崎町役場」あたりだったんでしょうかね……? この字の大きさがいかにも「他の看板の分と一緒にまとめて発注しました」感がありますよね。

伊予灘側から三崎灘側へ

前方に風力発電のタービンが見えてきました。こうやって見てみると、結構でかいですよね……。
ガソリンスタンドの前を通過して、あっさりと南側(三崎灘側)に出ました。
旧・三崎町の「松」集落に向かう愛媛県道 255 号「鳥井喜木津線」が分岐しています。しっかりと整備されているように見えますが、途中に未開通区間があるとのこと。

家があるのか、畑があるのか

タクシーに追いついてしまいました。かなりゆっくり走っているように見えたのですが、流していたのか、それともお客さんを乗せて走っていたのか……?
あ、すいません(タクシーは左側のスペースに寄って道を譲ってくれました)。それはそうと、左側に手すりのついたスロープが見えますが、スロープを上がった先に住んでいる人がいるのか、あるいは畑があるのか……。
右手に三崎港が見えてきました。とりあえず、ここまでは順調に来ているので、このまま行けば八幡浜にも多少の余裕を持たせて到着できそうでしょうか。
ここのスロープは手すりが無い代わりに農業用モノレールが見えますね。この勾配ですから、乗用としてもなかなか便利そうな気がするのですが……。

国道 197 号の終点はどこ?

三崎港フェリーターミナルの前に戻ってきました。乗船口は右側にある筈ですが……
「国道九四フェリー」で車輌航送する場合は、ここを右折の筈ですが、このアングルだと全く案内が無いんですね。
太陽石油のガソリンスタンドが見えてきました。ここから八幡浜までは 39 km と出ていますが、そう言えば国道 197 号の終点はどこになるのでしょう。地理院地図だとガソリンスタンドの前の横断歩道のあたりが終点になっていますが……。

生活環境保全林?

ということで、いつの間にか国道 197 号に入りました。三崎トンネルの手前に「生活環境保全林 伽藍山」という案内が出ていました。伽藍山は三崎港の真北あたりにあるので、ここから入ると遠回りになるんじゃないか……と思ったのですが、高台に向かう道は東のはずれ(ここ)から入るのが正解なんでしょうか。
三崎トンネルに入ります。久しぶりのトンネルですね。

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2021年2月24日水曜日

冬の愛媛・大分フェリー旅 2020 (41) 「三崎町立串小学校」

かつての軍用桟橋が残る「正野谷」に戻ってきました。愛媛県道 256 号「佐田岬三崎線」はこの先を右に向かうのですが……
青看板にはどちらも「三崎港」とあります。左に分岐するルートは「町道経由」とあるのですが、「八幡浜方面」は左に行くように促されています。
ちなみに、この「八幡浜方面」という案内は後から追加されたもののようで……


2014 年 1 月に撮影された Google ストリートビューには「八幡浜方面」の文字は見当たりません。

ちなみにこの時は左折したのですが、今から思えば「往路では県道を経由していたので、復路は別の道を通ってみよう」という発想だったような気がします。往路も県道を通っていなかったと知ったのは、少し経ってからです。

町道をゆく

県道 256 号を外れて、町道で三崎港方面に向かいます。左下の入り江に「軍用桟橋」が残っている筈なのですが、あいにくこのアングルからは見えないですね……。
県道のバイパスとなっているこの町道、良く整備されていて走りやすい道なのですが、最後に一箇所だけ……
鬼のように狭い区間があります。ここだけ諸事情あって未整備っぽい感じですね。

再び県道 256 号と合流

佐田岬漁港の近くに戻ってきました。再び県道 256 号と合流です。
凄まじい逆光ですが、これまた県道のバイパスとして使用されている農免農道と、串集落に向かう県道の交叉点にやってきました。往路では素直に農免農道を通ってきたので……
せっかくなので左折して、往路では通らなかった県道を経由することにしました。

「串」集落へ

この県道 256 号ですが、狭隘な上に勾配もなかなかのものです。
このあたりは「串」という名前の集落ですが、地図で見た感じでは佐田岬漁港のあたりよりも家屋が多いかもしれません。標高 50 m ~100 m あたりの高台に位置する集落で、北側の伊予灘に面した土地ですが、南側の山がそれほど高くないこともあり、昼間から夕方にかけては日の差す時間も長そうなところです。
北西向きの斜面に家々が立ち並んでいて、道路の拡幅を阻んでいるように見えます。「通学路」の標識とともに、再び道幅が狭隘に戻りました。

三崎町立串小学校跡

道が再び広くなる場所にやってきましたが……あっ!
こんなところに「飛び出し坊や」が!
集落の中でもやや高台にあたるあたりに、いかにも小学校らしい建物が見えてきました。Google マップには「小学校」の記載が無いので察したのですが、この「三崎町立串小学校」は 2005 年に「伊方町立佐田岬小学校」に改称された後、2014 年 3 月に廃校になってしまったとのこと。
人口が減少している地域における小学校の廃校は今に始まったことではありませんが、日本はこの先どうなってしまうのだろう……という漠然とした不安が脳内から離れません。

農免農道と再合流

小学校前を過ぎてからは民家の数は少なくなり、2~3 分ほどで農免農道との交叉点に到着です。かつて信号機が設置されていた交叉点で、現在は撤去済み……でしたね。

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2021年2月23日火曜日

「日本奥地紀行」を読む (113) 金山(金山町) (1878/7/17)

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第十九信」(初版では「第二十四信」)を見ていきます。

喫煙(続き)

前回から引き続き、「日本奥地紀行(普及版)」ではばっさりカットされた部分の話題です。日本におけるタバコの歴史とその使用法について記した後、今度は「タバコの効能」についての話題となりました。日本ではタバコの効能についての議論が活発に行われているが、医者は中立的な立場を取っている、とした後に、次の文章が続いていました。

高名な著述家である貝原(益軒)は、茶と酒に比較して、全体として、「タバコだけでは何の益もない、他のなによりも害がある。一般の人には喫煙に対するこの小言は何の価値ももたないであろうが、これは紳士やすぐれた人々のためです。南蛮諸国からもたらされた習慣に従い、身体に害を及ぼすものをたしなみ賞賛するのは恐ろしい間違いだ。」原注2と断罪しています。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.81 より引用)
貝原益軒……今の今まで「かいばらえけん」だと読み違えていました(汗)……は 1630 年の生まれで 84 歳まで生きたんですね。時期的に、ちょうどタバコが移入して広まり始めた頃の生まれということになるでしょうか。それだけにタバコの功罪を先入観無く、あるいはやや疑いの目で見ることができたのかもしれません。

「煙草記」という論文

一方で、1756 年には「煙草記」という論文?が刊行されており、それによるとタバコには次のような効能があるとされていたようです。

原注 1:サトウ氏は『煙草記』という論文から、タバコの効用と害についての以下の面白い記述を英訳した。
1. 気うつ[憂鬱]を払い、活力を増す。
2. 饗宴のはじまりにおいて一服するとよい。
3. 孤独の友である。
4. あたかも、一息入れるかのように、折々に仕事を休憩する言い訳として許される。
5. 思考を貯めこんだり、激怒を発散して追い払う時間を稼ぐ。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.81-82 より引用)
まるでダメな大人の言い訳……と言ってしまっては元も子もないですが、特に 4. については圧倒的なリアリティが感じられますね(笑)。江戸時代に既に「タバコ休憩」が存在していたというのはちょっと驚きです。

一方で、タバコの害についてもしっかりと記されていました。

しかし、他方 1) 怒りの発作で、キセルで人の頭を打ちすえる。生来の傾向がある。2) キセルは時々、火鉢の炭に火をつけるのに用いられる。3) タバコ常習者は口にタバコをくわえて饗宴の最中に料理の間を歩き回ることが知られている。4) 人々はまだ火の点いているキセルを火を消すことを忘れて灰皿に叩きつけるので、結果として、キモノやタタミがしばしばタバコの灰で焦がされる。6)(ママ) 喫煙者は火鉢、コタツ、あるいは台所の火や床を覆う畳の継ぎ目にも見境なく唾を吐く。7) 彼らは火壷の端に乱暴にキセルをこんこんと叩きつける。8) 彼らは灰皿が溢れるまでそれを捨てるのを忘れる。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.82 より引用)※ 原文ママ
あー、どれもあるあるですね……。昔は旅館の畳に焦げ跡があるのもちょくちょく見かけたものです。ちょっと不思議なのは 2) で、これは特に問題になるとは思えないのですが、良くない点があるのでしょうか……?

「明六雑誌」という新聞での論考

続いて貝原益軒の「タバコ批判」について、イザベラは次のような注記をつけていました。

原注2:私が東京にいたとき、「明六雑誌」という現地の新聞から英訳された女性の権利について書いた面白いものを眼にした。著者は、西洋の習慣の導入がもたらした一つの結果として女性の権利の拡大を非常に恐れ、実例(以前よりは一般的ではないが、ああ!)として、西洋人の間では男性は「まず女性の許しを得ることなく煙草を吸うことは許されない。」ということをあげている。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.82 より引用)
ふーむ。「女性は話が長いから良くない」と言ってのけた元首相もいましたが、日本の「男尊女卑」も筋金入りなのだなぁと改めて思わせますね。それはそれとして、イザベラが「女性の許し無く煙草を吸うことは許されない」という「西洋の習慣」について、「以前よりは一般的ではない」としたのは注目に値するでしょうか。

イザベラの嘆きを素直に読み解くと、以前は煙草を吸う側に「紳士の嗜み」があったが、今はそうでもない、となるでしょうか。これはもしかしたら……ですが、煙草を嗜む層が「紳士」から「庶民」に広がった、ということなんでしょうか?

それにしても、煙草を吸う側がその前にまわりに一言かけるというのは、現代においては最低限のマナーだと思われるのですが、それすら「女性の権利拡大」だと言うのですから、「昔の人」の人権感覚は恐ろしいですよね……。

この後も「明六雑誌」という新聞に掲載されたとする論考が続きます。和文の英訳を再度和訳したためか、どうにも意味の取りづらい文章になっていますが……。

「もし私が喫煙するとすれば、私は男性としての私の権利の実効を果たすためにそうするのだ。もし女性が、それが嫌だというのなら部屋から出て行くべきである。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.82 より引用)
この部分は、そのまま「喫煙者の本音」と見て良いのだと思います。この考え方について、「喫煙者(男性)」は次のように補足します。

(西洋)女性の喫煙嫌いが男性の楽しみを減じ、それは力の自由の制限を含んでいるのだから正当な理由が確かにありえない。私は、このような問題──そして、誰かの前では喫煙が許され、他の人の前では喫煙が許されないという──に男女差別のいかなる理由も見つけられない。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.82 より引用)
この部分についてちょっと意味を掴みかねていたのですが、要するに「女性が嫌がるせいで男性が喫煙する『権利』が阻害される」という批判については「女性差別とは言えない」、ということなんでしょうか。

一見マトモなことを言っているようにも見えますが、要は「女は黙っとれ」と言っているのと同じなんですよね。果たして男女を逆にしたらどう感じられるのか、少し考えてみればわかりそうなものなのですが……。

現在、この国では男女の間に存在するべき関係に関して多くの議論がある。それゆえ、とにかく、われわれの知的男性はこのことをよろしく考慮すべきである。もしそうでなければ、他の性の権利は徐々に拡大し、ついには、あまりに圧倒的になってしまい、統制がきかなくなってしまうだろうから。」
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.82 より引用)
こういった思想の持ち主が今でも生き残っているようで、時折「本音」を開陳して世論の反発を受けていますよね。ああいった人々は「知的男性」では無い、ということがよく分かる、のかもしれません。

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2021年2月22日月曜日

冬の愛媛・大分フェリー旅 2020 (40) 「八幡浜に急げ」

「佐田岬灯台駐車場」を後にして、次の目的地である「八幡浜港フェリーターミナル」に向かいます。水尻展望台に向かうスロープが見えていますが……
改めて Google ストリートビューを見てみると、2012 年 7 月の時点ではこのスロープは整備されていなかったのですね。


駐車場の出入り口にはトイレが設けられています。隣に前を走っていたハイエースが見えますが、乗客は佐田岬灯台を見に行ったのでしょうか……?
「瀬戸内海国立公園」の案内図と、佐田岬灯台への遊歩道の入口が見えます。佐田岬灯台を見学したい場合は、ここで 2 時間程度の余裕が無いと厳しい、ということになりますね。

絶賛改良中

道路の拡幅工事が行われていました。これから舗装を行うところですが、道路を横切る溝の部分は舗装後の高さになっているので、しっかりスピードを落としておかないと車がジャンプしてしまいそうです。
防風柵が設置されている場所もありました。2014 年時点のストリートビューには見られないので、比較的最近になってから設置されたもののようです。

油断は禁物!

往路よりも復路のほうが気楽に運転できるものですが、油断は禁物です。割と最悪のタイミングで対向車がやってきてしまいました。
しっかりと左に寄せて、対向車をやり過ごします。
今度は日の差し込まない北斜面で、しかも道幅はそれほど広くないところで対向車と遭遇してしまいました。
この時も寄せられるだけ寄せてみたところ、対向車はサクっと通過してくれました。割とギリギリに見えるんですが、そうでも無かったんですかね……?
今度は退避スペースのあるところで対向車が見えたので、これまた左に寄ってやり過ごします。
これだけ道幅があれば楽勝ですよね。

狭い道だけど

左手に伊予灘を眺めながら、まずは佐田岬漁港方面に向かいます。
今から思えば、漁港に向かう愛媛県道 256 号「佐田岬三崎線」は改良済みの区間も少なくなく、割と快適に走れていたのですが……
あ、またセンターラインの無い区間に逆戻りですね。道幅が道幅だけに、大型バスが突っ込んでくることは無いのが助かるところでしょうか。

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