2021年1月31日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (803) 「ポン川・志比内」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

ポン川

husko-{chiw-pet}
古い・{忠別川}
(典拠あり、類型あり)
東神楽町の市街地は忠別川の南、旭川空港の北に広がっていますが、「ポン川」は市街地と空港の間を流れていて、最終的には忠別川と合流しています。なお、ポン川の水源をたどると「ひがしかぐら森林公園」にたどり着くのですが、そこにある池は忠別川から水を引いているように見えます。単なる支流というよりは、忠別川の分水のような感じでしょうか。

山田秀三さんの「北海道の地名」には、次のように記されていました。

ポン川
 神楽岡公園のすぐ上で忠別川に入る支流の名。忠別川の南側をずっと並流している。明治の地図ではフシコチュㇷ゚ペツと書かれている。「古い・忠別川」つまり忠別川の古川の意。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.107 より引用)
確かに明治時代の地形図には「フシュコチュㇷ゚ペッ」と言う名前の川が現在の「ポン川」の位置に描かれています。「東西蝦夷山川地理取調図」には「フシコヘツ」という名前の川が忠別川の別流として描かれていて(但し「フシコヘツ」と「フシュコチュㇷ゚ペッ」は若干位置が異なるようにも見えます)、また永田地名解にも次のように記されていました。

Hushko chup pet  フㇱュコ チュㇷ゚ ペッ?  舊東川
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.51 より引用)
忠別川の水を「東神楽遊水地」に引いているのは人為的なものですが、古くは自然な形で忠別川の分流として存在していたと考えても不思議はありません。husko-{chiw-pet} で「古い・{忠別川}」と見て間違い無さそうです。

 なぜポン川となったかは分からない。ポン・チュㇰペッ(小・忠別川)ぐらいの名でも呼ばれていて,それが下略されてポン川となつたのでもあろうか。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.107 より引用)
そんなところなんでしょうね。husko と言うと「旧河川」というイメージがついて回りますが、この「ポン川」の場合、明治以降もそれなりに水が流れていて、そして用水路としても使用されたであろう「現役の川」だったので、むしろ pon-{chiw-pet} で「小さな・{忠別川}」のほうが現状に即していたのかもしれません。

志比内(しびない)

si-pi-nay?
主たる・石・川
si-{pin-nay}??
主たる・{細く深い谷川}
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)(?? = 典拠なし、類型あり)
東神楽町南東部の地名で、同名の川も流れています。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「シヘナイ」という名前の川が描かれています。ただ「シヘナイ」は忠別川の北支流として描かれていますが、実際の「志比内川」は南支流です(この程度の間違いは割と良くある話ですが)。

「鮭・川」説とその反論

永田地名解には次のように記されていました。

Shibe nai  シベナイ  鮭川
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.51 より引用)
山田秀三さんは「東西蝦夷山川地理取調図」や「再篙石狩日誌」に「チクヘツ」あるいは「チュクヘツ」とあることから、忠別川は chuk-pet で「アキアジの川」あるいは「秋の川」だったのではないか、との可能性を記していました。

ところが永田地名解は「志比内」こそが sipe-nay で「鮭・川」である、としたのですね。これをどう考えたものか……という話です。

更科さんの「アイヌ語地名解」には次のように記してありました。

同じ忠別川の支流にカムイチェブオッナイ(神の魚のいる川)というのがあり、カムイチェブ(神魚)は鮭の尊称であるが、一方をシベ(鮭) といい、一方をカムイ・チェプ(神魚)とするのはおかしい。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.132 より引用)
ん、そんな川があったかな……と思って確認してみた所、確かに「上川郡アイヌ語地名解」に「カムイチェプオツナイ」という川が記録されていました。「エオルシ」と「ノカナン」の間なので……あ。

道道 1116 号の「チョボチナイゲート」

道道 1116 号「富良野上川線」という、いちぶで有名な道路があります。大雪山の西側を縦走する道路として計画されましたが、その後計画は大幅に縮小された上、供用済みの区間も一年の間に一ヶ月程度しか走れない(期間外はずっと通行止め)こともあり、「幻の道道」として知られています。

道道 1116 号の通行止め区間の南端に「チョボチナイゲート」という名前のゲートがあるのですが、この「チョボチナイ」がどうやら「カムイチェプオツナイ」に由来するらしいのですね。現在の地形図ではゲートの近くに川は描かれていませんが、古い地形図を見るとたしかに「カムイチュㇷ゚オツナイ」と描かれていました。

更科さんはこの川の存在を根拠に「鮭を kamuy-chep神・食べ物)呼びする風習があるので、sipe主たる・食べ物)呼びはおかしいのではないか」という反論を試みた……ということになりますが、永田説を棄却するのに十分かと言われると、ちょっと不足しているかな……と感じてしまいます。

「主たる・石・川」説

「鮭・川」説を否定した更科さんが「志比内」をどう解釈したか……という話ですが、

沢山枝川があるので区別してシ・ピ・ナイ(本当の小石川の意) ではないかと思う。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.132 より引用)
ふむふむ。割と穏当な説が出てきたかな、という印象です。山田秀三さんの「北海道の地名」にも、同様の記述がありました。

旭川市史の解は「シ・ピ・ナイ(大・石・川)」と書いたのであるが,実はよく分からない川名である。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.108 より引用)
「旭川市史の解」とあるのは、他ならぬ知里さんの「上川郡アイヌ語地名解」のことです。念のため引用しておきますと……

 シピナイ(Shí-pi-nai「大・石・川」)右,枝川。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『上川郡アイヌ語地名解』」平凡社 p.328 より引用)
このように記されていました。si-pi-nay で「主たる・石・川」と読めます。山田さんはこの解を引きながら「よく分からない川名である」としましたが、次の点が気になっていたようでした。

野中の小流で,川底を見ると大き目の石がごろごろしている程度の川である。昔ごろた石の中を流れていた時代でもあってこの名がついたか。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.108 より引用)
現状を見た限り、山田さんの目には pi-nay(石・川)とは見えなかった、という点を気にしていたようです。

「主たる・細く深い谷川」説

「志比内」が果たして si-pi-nay と呼ぶに相応しい川であるかどうかは判断ができませんが、実際の地形と「シピナイ」という音からは si-{pin-nay} で「主たる・{細く深い谷川}」と考えたくなります。

このあたりはとにかく丘陵に傷を刻み込んだような形で川が流れていますが、志比内川はその中でも細く長い「傷」が伸びているように見えるので、そのことを形容して川の名前になったのではないかと思われるのですが……。
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2021年1月30日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (802) 「忠別川」

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忠別川(ちゅうべつ──)

chiw-pet?
水流・川
chuk-pet?
秋・川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
大雪山系の北海岳と白雲岳の間を水源とし、東川町と美瑛町の町境を流れる川の名前です。中流部では東川町と東神楽町の境界となり、下流部では東神楽町と旭川市の境界となっています(忠別川が市町界となっていないのは旭川市内のみです)。忠別川は旭川駅の西で美瑛川と合流し、その後ほどなく石狩川と合流しています。

松浦さんはこう考えた

「東西蝦夷山川地理取調図」には「チクヘツ」という名前の川が描かれています。一方で丁巳日誌「再篙石狩日誌」には次のように記されていました。

先其より大番屋をさし行に
     チユクベツ
フトを入て水勢ますます峻。チユクは汐早き川と云事のよし也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.255 より引用)
改めて考えてみると、「チユクは汐早き川と云事のよし」というのはちょっと変な感じもします。chuk は「秋」だったり、あるいは「アキアジ」すなわち「鮭」と考えるのが一般的です。

「汐早き」という意味であれば chiw で「水流」という語彙があるので、「チユク」は chiw の間違いだったと考えられているように見受けられます。

永田さんはこう考えた

永田地名解には、次の有名な解が記されていました。

Chup pet  チュㇷ゚ ペッ  東川 「チュプカペツ」ニ同シ此川ノ水源ハ東ニアリテ日月ノ出ル處故ニ名ク明治二十三年旭川村ヲ置ク
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.42 より引用)
ここまでを見ると chiw-pet で「水流・川」説と chup-pet で「日・川」説に大別されますが、これらの説を元に「北海道駅名の起源」では次のようにまとめていました。

  旭 川(あさひがわ)
所在地 旭川市
開 駅 明治31年7月16日(北海道庁鉄道部)
起 源 この地を流れる忠別川のアイヌ語「チュウ・ペッ」(瀬の早い川)が、後に「チュプペッ」(日の川)と解され、「旭川」と訳したものである。なお明治44年6月10日、「あさひかわ」を「あさひがわ」と改めた。
(「北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.49 より引用)
これはなかなか含むところのある文章に思えます。「北海道駅名の起源」は高倉新一郎更科源蔵知里真志保河野広道の四氏の「監修」で世に出されたとされていますが、誰の文章だったのでしょう。

この文章をよーく読むと、「忠別は chiw-pet で『流れの早い川』なんだけど、これを chup-pet と読んで『日の川』と解釈した人がいたんだよね」と言っているように見えます。少し踏み込んだ言い方をすると chup-pet は誤読だよね、と言っているようにも思えます。

知里さんはこう考えた

知里さんの「上川郡アイヌ語地名解」にも次のように記されていました。

 忠別川(ちゅうべつがわ)「チウペツ」(Chiu-pet 波・川)は「波だつ川」の義。それが後に民間語原解によつて「チュッペツ」(Chup-pet 日・川)となり,意訳して旭川という地名が生れ,また「チュプ」(chup 日)と「チュプ力」(chupka 東)とを混同して東川などという地名も生れた。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『上川郡アイヌ語地名解』」平凡社 p.318 より引用)※ 原文ママ

更科さんはこう考えた

永田地名解の「東川」説はいつの間にか「誤訳」という評価が確定していたようで、例えば更科さんの「アイヌ語地名解」にも次のように記されていました。

 旭川市内を流れる忠別川はチュプカペッでこの川の水源が東にあって、日月の出る方から流れてくる東(チュプカ)川(ぺッ)と解して、明治二十三年に新しい旭川の出発のとき現在の地名となったのであるが、
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.129 より引用)
そうですね。ところで更科さん、適度に句点(。)を入れて文章を分けていただけると引用する側としてもありがたいのですが……。続きを見てみると……

忠別川は東でなくて東南から流れてくる川でありむしろ牛朱別川の方が東からくる川であり、
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.129 より引用)
えーっと、その……。できれば読点も……。

忠別川はチュ・ぺッで、川瀬の早い波川と名付けたものの誤訳である。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.129 より引用)
ふう。ようやく文章が終わりました。このように更科さんも「誤訳」と断定していますね。

山田さんはこう考えた

一方で、山田秀三さんは次のように記していました。

 爾来チウベツ(波川)説が一般に書かれるようになったが,旧記旧図にはチウベツという名が出て来ない。忠別川のことはチクベツあるいはチユクベツで書かれていたのであった。忠別川の原型はどうもチュㇰ・ペッ(chuk-pet 秋・川?)だったらしい。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.99 より引用)
さすが山田さん、「東西蝦夷山川地理取調図」に「チクヘツ」とあり、「再篙石狩日誌」に「チユクベツ」とあったのを見逃しませんでしたね。ただ一方で、chuk を「アキアジ」あるいは「秋」と考えると、再篙石狩日誌の「チユクは汐早き川と云事のよし」との整合性が取れなくなります。

 忠別太は鮭場所であった。チュㇰ・チェプ(chuk-chep 秋の・魚→鮭)が秋になると盛んに上る川だったのでチュㇰ・ペッだったのかもしれない。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.99 より引用)
うーん。この問題はちょっと根が深そうな気もしてきました。東神楽町に志比内という地名があってですね……。

 旭川は発生的には永田方正の誤訳であったようではあるが,とにかく1890年からのその独特な美しい名で歴史を重ねて来て,今では北国を飾る立派な地名である。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.99 より引用)
うわっ。山田さんは滅多なことでは「誤訳」と断定することが無いような気がするのですが、その山田さんが「誤訳」と明記したということは、やはり「日・川」説は誤訳と見るべきということでしょうか。

ということで

ということなので、現時点では次のようになるでしょうか。chuw-pet で「水流・川」と考える(松浦武四郎が記録した「意味」からの推定)か、chuk-pet で「秋・川」と考える(松浦武四郎が記録した「音」からの推定)か、どちらが妥当か……というところですね。

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2021年1月29日金曜日

冬の愛媛・大分フェリー旅 2020 (25) 「伊方発電所」

国道 197 号は九町トンネルで伊方峠を越えてからも、引き続き高台を通ります。この区間が開通したのは九町トンネルの開通より後のようで、高台にバイパスを通すことでヘアピンの解消と伊予灘側(北側)へのアクセス改善を狙ったように思われます。
400 m 先に登坂車線があるとのこと。少し前にはドライブマナーの良さに感銘を受けましたが、今回はどうでしょうか。

九町第 2 トンネル(108 m)

登坂車線より前にトンネルが口を開けて待っていました。「九町第 2 トンネル」という名前の全長 108 m のトンネルなのですが、英語では "2nd Kucho Tunnel" と表記されています。
長さ 108 m は、伊方町に入ってからは最短だったでしょうか。最初から出口が見えていました。

お待ちかねの

トンネルを抜けると、お待ちかねの登坂車線です。
前をゆくアクアはちゃんと登坂車線に入ってくれていました。やはり愛媛の人はドライブマナーが良いんでしょうか……と思ったのですが、よく見たら他府県ナンバーでした(汗)。
前回は速度差があまり無く追い抜きには至りませんでしたが、今回はちゃっかりと前に出させてもらいました。ありがとうございます。

謎の青看板ふたたび

前方に、またしても「謎の青看板」が見えてきました。明らかに道路の敷地外に立っている上に……
デザインも一般的な青看板とは明らかに異なります。この先を右折すると「伊方発電所」で、また「伊方ビジターズハウス」なる施設もあるとのこと(!)。
こちらの「横風注意」は本物の警告標識のようですね。佐田岬半島は中央構造線に沿う形で東西に長い形をしていますが、南北にはとても「薄い」形をしていることもあってか、伊予灘と宇和海の間を「通る」風が凄いんでしょうか……?

伊方発電所

前方に交叉点が見えてきましたが……
この交叉点を右折すると「伊方発電所」です。「伊方ビジターズハウス」も右折みたいです。
今回は右折せずに直進して、国道 197 号で「三崎港」に向かいます。明らかに既存の青看板を修正した跡がありありと見えますが、もしかしたら元は「三崎」(三崎町)で、距離も若干長かった……ということでしょうか?

「原発絶対反対!」

道の駅「伊方きらら館」の近くにやってきました。ん、これは……?
あー。「原発絶対反対!」とあります。柏崎で事故を起こして、その後の福島第一で凄惨な大事故を起こしてしまったことを考えると、「原発絶対反対!」という主張は確かに頷けるものですね。

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2021年1月28日木曜日

冬の愛媛・大分フェリー旅 2020 (24) 「謎の青看板」

国道 197 号の「中浦トンネル」を抜けると、すぐに次の「川永田トンネル」が見えるのですが……それはさておき、この青看板は一体なんと書いてあるのか……。
実はこの写真だけで「伊方調整池」とあるのは読めるのですが、上の 4 文字がちょっと良くわかりません。ということで、毎度おなじみ「ストビューで答え合わせ」と参りましょうか。


うむうむ、なかなか良い感じです。どうやら「南予用水」「伊方調整池」と書いてあるのですね。あと右下が「農林水産省」っぽいことがわかりますが、距離だけは読み解けませんでした。

何事も「裏を読む」ことが大切ですよね……ということで。


少なくとも裏面には「0.8 km」と書いてあるように見えますね。

川永田トンネル(291 m)

ということで、伊方町の国道 197 号で 3 つ目のトンネルと鳴る「川永田トンネル」が見えてきました。全長 291 m は、ここまでで一番短いトンネルということになりますね。
特に変わったところは無さそうなトンネルです。
トンネルを抜けた先にきれいな花を咲かせている木がありました。時期的に桜だと早すぎるので、これは梅の花でしょうか?

「伊方ダム」の水の出どころ

左……というか、左手前には伊方町川永田の集落があり、「伊方新川」という川が流れています。ちょうど左には「伊方ダム」がある筈なのですが、残念ながら少し低いところにあるからか、このアングルでは見えないですね。ダムと言えば……あ、これがさっきの「伊方調整池」のことですね(汗)。
地形図を見ると「伊方調整池」から地下水路が伸びていることがわかりますが、この導水路は八幡浜市南部にある「布喜川ダム」から来ているようです。さらに「布喜川ダム」には西予市にある肱川の「野村ダム」からの導水路も繋がっているようで、要は肱川の最上流域から水を引いている、ということになりそうですね。

肱川の流れ自体がアルファベットの「J」の字のようになっているので、源流部は八幡浜の南隣の西予市にあるのですが、それにしてもダイナミックな水の流れですね。

謎の青看板

ところで、こちらの写真ですが、なにか気になる点は無いでしょうか?
特におかしな点は無いようにも見えますが、左側のこの青看板がちょっと気になります。やたらと上のほうにあるというのも気になるところですが、デザインも普通の青看板とちょっと違うような気がするのです。
道路脇に青看板があるのは別におかしいわけでは無くて、このように普通にあるんですけどね。ちなみに伊方から三崎港に向かうルートは、もともとは豊之浦を経由していましたが、現在は伊方峠をトンネルで一気に抜けるようになっています。
峠の向こうには……あれ、風力発電のタービンが。原発を動かせないので風力にシフトしたんでしょうか……?

九町トンネル(310 m)

この先 2 km のところに道の駅「伊方きらら館」があるとのこと。
そして伊方峠を一気に貫く「九町トンネル」(くちょう──)が見えてきました。変わった名前に思えますが、トンネルを抜けた先がかつて「町見村」の役場のあった「伊方町九町」だから、ということのようです。全長は 310 m とのこと。
トンネルポータルは少し苔むすような感じでしたが、中は意外と新しそうに見えますね。また、ここまでのトンネルとは異なり中が緩やかにカーブしています。

謎の青看板ふたたび

九町トンネルを抜けて、かつての町見村の領域に入ります。
「二見」と「九町」はともに旧・町見村で、二見は九町の先(西南西側)です。二見集落は九町集落以上に平地の少ないところだったようで、南斜面にも家屋が立ち並んでいます。
そしてまたしても気になる青看板が見えるのですが……
この一般的なデザインとどことなく異なる青看板、共通点としてはほかにも「伊方発電所への距離を案内している」というところもあります。これなんですが、本来整備されるべき青看板とは別に、伊方原発が来場者に向けて自前で立てた「私家版青看板」なのかな、と想像していたりするのですが……。

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2021年1月27日水曜日

冬の愛媛・大分フェリー旅 2020 (23) 「『伊方』と『伊方越』」

「大峠トンネル」を抜けた先の下り坂の途中で、突然「伊方町」に入りました。
「佐田岬メロディーライン」の制限速度は 50 km/h とのこと。50 km/h をキープすれば「瀬戸の花嫁」が聞こえる……ということなんでしょうか。

土地に余裕は無さそうなのに

伊方町中心部への入り口と思しき交叉点にやってきました。左折すると町役場に行けるようですが、地図を見てみると他にも郵便局や伊予銀行、小学校や中学校や駐在所など、ありとあらゆる施設が集中しているように見えます。
伊方町と言えば四国で唯一の原発である「伊方原発」のある街としても有名かと思います。ということで県の「原子力広報センター」もあるみたいです。
伊方町の人口は 1950 年頃に 3 万 5 千人を数えたようですが(現在の伊方町域、当時は伊方村・町見村・三机村・四ツ浜村・三崎村・神松名村)、その後は年々減り続け、現在は 1 万人を割っているとのこと。ただ、人口の減少ペースは伊方原発の建設が始まってから明らかに鈍化しているように見えます。
この橋の下には鉄道が通ってそうな雰囲気もありますが、実際には川(大川)と町道(たぶん)が通っているだけです。人口が 1 万人を切ったと言う割には土地の余裕が無いようで、国道は山裾の南斜面に寄り添う形でルートを見出しています。

「伊方」と「伊方越」

国道は集落の北側、標高 30~50 m のあたりの高台を通っています。国道 197 号は海沿いの街を通る国道でありながら、八幡浜と三崎港の間で海沿いを走る区間がほとんどありません。国道から海が見えただけで「おおっ!」と思ってしまいます。
この先の交叉点を右折すると「伊方越」「亀浦」方面に向かうとのこと。「伊方」は南の宇和海に面した集落ですが、「伊方越」は北の伊予灘に面した集落です。峠の向こうに「伊方」があるから「伊方越」という地名になったのであれば、道東の「ルークシュポール」と同じだなぁ……と思ったりも。
「伊方越」に向かう道路ですが、立派なトンネルが掘られています。割と新しそうなトンネルに見えますが、災害時の避難路としての役割も期待されているのかもしれませんね。

丸岡トンネル(350 m)

そして国道 197 号もトンネルの連続区間に入ります。伊方町内の国道 197 号にはトンネルが……えーと……17 本ある、で合ってますか?(誰に聞いている
最初のトンネルが「丸岡トンネル」です。伊方町小中浦と中浦の間には尾根が伸びているので、尾根を一気にトンネルで突っ切っているようです。「丸岡」というは丸みを帯びた山の形から来ているのでしょうか……?
「丸岡トンネル」は全長 350 m のそれほど長くないトンネルです。

中浦トンネル(479 m)

「中浦」集落は南側の海沿いにある筈ですが、連絡道路がループトンネルのようになっているようで、山側への右折が促されます。
「中浦」集落に向かわずに、そのまま国道を直進すると次の「中浦トンネル」です。
「中浦トンネル」の全長は 479 m とのこと。中堅どころと言った感じでしょうか……?

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2021年1月26日火曜日

冬の愛媛・大分フェリー旅 2020 (22) 「佐田岬メロディー道路」

国道 197 号と国道 378 号の重複区間は終了し、ここからは国道 197 号の単独区間です。上り坂が続くなぁ……と思っていましたが、7 % の上り勾配とのこと。なかなかのものですね。
上り勾配ということで、ちゃんと登坂車線が用意されていました。しかも前を走る車輌は全て登坂車線側に退避しています。この辺は土地柄というか、お国柄が出るような気がしますね……。
登坂車線に退避してくれたので、巡航速度が遅いのかと言えば決してそんなことも無く。思っていたほど速度差が無かったので、結局一台も追い抜くことはありませんでした。繰り返すようですが、ドライブマナーとしては最良ですよね。

大峠トンネル

「宮内川」の支流である「西河内川」の上にかけられた「保内大橋」を渡ります。
トンネルの手前には「速」「度」「注」「意」の警告板が。上り坂ですがカーブは少ないので、最近のパワフルな車だったら結構スピードを出せてしまいますからね。
「大峠トンネル」に入ります。トンネル内には「消火器」「非常電話」「非常通報装置」を備えているとのこと。
トンネルの竣工は 1974 年 3 月とのことで、そこそこ年季の入ったものです。
全長 1 km ちょい(1,081 m)の大峠トンネルの出口が見えてきました。

佐田岬メロディー道路

「大峠トンネル」を出てからはしばらく下り坂が続きます。道路脇に何やら案内が立っていますが……
画質が悪くて恐縮ですが、「佐田岬 メロディー道路 始まり」「『瀬戸の花嫁』が流れます」とあります。路面のアスファルトの組成を調整してあって、一定のスピードで走るとロードノイズが「瀬戸の花嫁」に聞こえる……というアレですね。
「大峠トンネル」で分水嶺を越えたわけですが、トンネルを抜けても未だに八幡浜市保内町のままです。しかも国道標識には「保内町宮内」の文字が。「八幡浜市保内町宮内」だから問題ない、ということなんでしょうか……?

坂の途中で伊方町

下り坂の途中にバス停があったのですが、その脇に「伊方町」のサインが。なんか意外なところに町境があるんですね……。

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