(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。
タントシナイ川
(??? = 典拠なし、類型未確認)
JR 留萌線・阿分駅の南側を流れて、阿分漁港の北側で海に注ぐ川の名前です。「東西蝦夷山川地理取調図」には「タンテウシナイ」という名前の川が描かれていました。また「西蝦夷日誌」には「タントウシナイ」と記録されています。「竹四郎廻浦日記」にも次のように記されていました。
行まゝあ、これによると「元阿分」は「ヌフシヤアフン」という認識だったようですね。
ヌフシヤアフン 漁小屋。
カヤトマリ 小川 漁小屋。
タントシナイ
巾三四間の川有。独木橋を架たり。両方二八小屋多し。番屋一棟(梁四間、桁八間)、茅くら二棟。板くら一棟、稲荷の社有。上も崖にして海岸暗礁少し有。浜には玫瑰花多し。
「タントシナイ」の意味が良くわからないのですが、永田地名解には次のように記されていました。
Tanto ush nai タント ウㇱュ ナイ ?さすが我らが永田先生、2021 年も期待を裏切りませんね。
「タンテ」または「タント」が何を意味するのかが良くわからないのですが、どうやら tante で「タデ」を意味する(和語からの移入語彙)とのこと。tante-us-nay だと「タデ・多くある・川」と解釈できるのかもしれません。
シシナイ川
(典拠あり、類型あり)
「タントシナイ川」の 0.4 km ほど北を流れる川の名前です。「東西蝦夷山川地理取調図」には「シユシユシナイ」という名前の川が描かれています。現在の「シシナイ川」はかなり小さな川ですが、位置的には「シユシユシナイ」のことではないかと思われます。なお、1980 年代の土地利用図には「ヒヒナイ」という地名が記されています。「シコヘ」が「ヒコベ」に化けたのと同様に、「シユシユシナイ」も「ヒヒナイ」に化けた……ということでしょうか。「ヒ」が「シ」に化けるのは江戸っ子の特徴ですが、このあたりでは逆に「シ」が「ヒ」に化けていたようです。
「西蝦夷日誌」には次のように記されていました。
(六丁五十間)シエシエウシナイ(川有)、譯て柳有る川の義(番屋一棟、茅くら、板くら、稻荷)。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(下)」時事通信社 p.245 より引用)
「シユシユ」が「シエシエ」に進化(?)しましたが、幸いなことにちゃんと意味が記されていました。「ヒヒナイ」であれば pi-pi-nay で「小石の多い川」という可能性がありましたが、これはやはり「シ」が「ヒ」に変化して、その後元の形に戻ったと考えるのが妥当であるように思われます。「シユシユシナイ」あるいは「シエシエウシナイ」は susu-us-nay で「柳の木・多くある・川」と見ていいかと思います。やがて susu-us-nay の -us が省略されるようになり susu-nay となったことで「シュシュナイ」が「シシナイ」となり、それが「ヒヒナイ」に訛った、ということなんでしょうね。
アップシラリ川
(典拠あり、類型あり)
増毛町と留萌市の境界を流れる川の名前です。一部は留萌市内を流れているようにも見えますが、大半が増毛町側に属しているように(地理院地図では)描かれているので、「増毛町の川」という扱いで続けます。「東西蝦夷山川地理取調図」には「アフシラリ」という名前の川が描かれていました。「西蝦夷日誌」にも同様に「アフシラリ(小川)」と記録されています。
また明治時代の地形図には「アパシラリ川」という名前の川が描かれていました。永田地名解にも次のように記されていました。
Apa shirari アパ シラリ 岩戸
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.392 より引用)
いかにも永田氏らしいざっくりした解ですが、apa-sirar で「戸・岩」と読めそうです。あれ、順番が逆になっただけでしたね。家屋では、外から中が見えないように、また外から風雪が吹き込まないように、わざと衝立や壁を設けて廊下をカギ状にすることがあると思いますが、それの河川版じゃないかな、と考えています(規模は違いますが、中川町の「安平志内川」もそうじゃないかと今は考えています)。
河口から上流部を望んだ際に、ちょうど見通しを遮る岩があって、そのことを形容して「戸・岩」と呼んだのではないでしょうか。
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