2020年11月23日月曜日

「日本奥地紀行」を読む (109) 新庄(新庄市)~金山(金山町) (1878/7/16~17)

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第十九信」(初版では「第二十四信」)を見ていきます。

あわれな町

新庄に入ったイザベラですが、その印象についてはかなり辛辣なものでした。

 前にも書いたが、新庄はみすぼらしい町である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.228 より引用)
これはこれは……。イザベラは更に具体的な理由について続けます。

ここは大名の町である。私が見てきた大名の町はどこも衰微の空気が漂っている。お城が崩されるか、あるいは崩れ落ちるままに放置されているということも、その原因の一つであろう。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.228 より引用)
かつての「大名の町」も、現在は米や絹、麻などの取引があるので「貧弱なはずは無い」と考えたイザベラでしたが……

蚊は何千となく出てくるので、サゴ椰子の澱粉粉とコンデンス・ミルクのあわれな食事を終わらぬうちに、私は寝床に入って蚊を避けねばならなかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.228 より引用)
宿の食事が口に合わなかったか、蚊の大群に安眠を脅かされたことが大きかったか、非常にストレスの溜まる滞在だったことを伺わせます。

私のあわれな部屋は汚くて息がつまるようであった。鼠は私の靴を齧り、私のきゅうりをもって逃げ去った。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.228 より引用)
あー。これは「やり場のない憤り」というヤツですね。宿ではハズレを引いたニオイがプンプンしますが、その悪印象……というか、良からぬ印象が街全体の印象にも悪い方向に作用したのでは無いでしょうか。

新庄から金山へ

翌朝、イザベラは新庄を後にして北に向かって出発しました。

 今日は温度が高く、空は暗い。りっぱな道路は終わりを告げ、またもや以前の困難な旅が始まった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.228 より引用)
イザベラ一行は新庄から泉田を経由して金山(かねやま)に向かったのですが、地図で見る限りはそれほど険しい道路だったとも思えません。おそらく新庄までの道路の整備状況が良すぎた……ということなのでしょう。

今朝新庄を出てから、険しい尾根を越えて、非常に美しい風変わりな盆地に入った。ピラミッド形の丘陵が半円を描いており、その山頂までピラミッド形の杉の林でおおわれ、北方へ向かう通行をすべて阻止しているように見えるので、ますます奇異の感を与えた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.228 より引用)
改めて金山町を地形図で眺めてみると、いかにも形の良さそうな山に囲まれた土地であることがわかります。

(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
現在の国道 13 号は「薬師山」の西裾を回っていますが、当時の羽州街道は「薬師山」と「中の森」の間を抜けていたようです。

実はリタイア寸前だった

イザベラはどうやら金山が随分と気に入ったようで、まだ先に進める時間が十分あるにもかかわらず、金山に滞在する決心を固めます。

その麓に金山の町がある。ロマンチックな雰囲気の場所である。私は正午にはもう着いたのであるが、一日か二日ここに滞在しようと思う。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.228 より引用)
イザベラが早くも滞在を決めたのはいくつかの理由があるのですが、宿の部屋が快適であること、駅逓係が親切であること、そして……

それに伊藤が日光を出発してから初めて鶏を一羽手に入れてくれたのである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.228 より引用)
鶏が入手できたことも大きな理由の一つだったようです。旅の間はどうしても肉料理を食べる機会が激減することもあり、イザベラはそのことに起因する疲労や不調を訴える機会があったように思われます。実際に今回も次のように記していました。

 この湿気の多い気候のもとで、私は現在の弱った健康状態で、一度に二日か三日も気分よく旅行することは不可能である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.228-229 より引用)
イザベラがあっさりと金山滞在を決めたのは、リタイア寸前まで疲労が蓄積していた、というのも大きかったのでしょうね。

「ノミ対策」の発見

今から思えば、イザベラが新庄の町に対してことさら辛辣な感想を延べていたのも、疲労の蓄積によるものだったのかもしれません。新庄での滞在が不愉快なものになった原因のひとつに「虫の害」がありましたが、ここでイザベラはいくつかの発見をします。

蚤の方は、なんとか避ける方法を発見した。それは一枚の油紙を畳の上に六フィート平方に敷き、その縁に一袋のペルシャ除虫粉をまく。そしてその真ん中に私の椅子を置くのである。すると私は蚤から隔離されることになる。無数の蚤が油紙の上にはねてきても、粉のために無感覚になり、容易に蚤を殺すことができる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.229 より引用)
蚊については「蚊帳」を張ることで侵入をある程度防ぐことができますが、畳の上からやってくる蚤についても水際で撃退する方策を編み出した、ということのようです。

「夏の日本旅行の短所」

イザベラを苦しめた「虫の害」は蚊や蚤だけではなかったようで、想像以上に被害を受けていたことが明かされます。

とにかく私はここで休息せねばならない。雀蜂と虻に左手を刺されて、ひどい炎症を起こしているからである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.229 より引用)
イザベラは「ススメバチ」と「アブ」に左手を刺されていた上に……

私はまた、歩いているときに人を襲う「馬蟻」(大蟻)に咬まれて炎症を起こし苦しんでいる。日本人はよくそれに咬まれるが、その傷口を放置しておくと治り難い腫瘍となることが多い。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.229 より引用)
大型の「アリ」のほか、「ハエ」にも咬まれてひどいことになっていたとのこと。

以上が、夏の日本旅行の短所のいくつかである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.229 より引用)
……(汗)。最近は虫の数が激減した上に、「虫よけスプレー」のようなものもあるので安心ですが、イザベラの時代は「虫」が人馬にとって一番の大敵だったのかもしれません。

食欲を唆る食べ物の欠如

ただ、イザベラは「虫の害」より酷いものとして、食料不足を訴えます。

しかし、これらよりももっとひどいのは、心身を疲労させる環境の中で、食欲もなく烈しい一日の旅を終えた後で口に入るような食物が不足していることである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.229 より引用)
これは単純に「食べるものが無い」ということでは無さそうで、「口に合う食べ物をよこせ」という話なんでしょうか。新庄でも「あわれな食事」と記していましたが、このあたりでは栄養価の低い料理が多かった、ということなんでしょうか。

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