(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
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茂生川(もい──)
(典拠あり、類型あり)
石狩市浜益区浜益(浜益漁港のあるあたり)を流れる川の名前です。地理院地図には「本沢川」だけが描かれていますが、茂生川は本沢川の南側を通っています。1902 年に成立した「浜益郡浜益村」(初代)は、浜益郡茂生村と群別村が合併してできたもので、現在の「石狩市浜益区浜益」のあたりに茂生村の各種機関があったようです。大地名としての「浜益」が村名になるとともに、本来の地名だった「茂生」が失われた……ということでしょうか。
「西蝦夷日誌」では
「西蝦夷日誌」には次のように記されていました。(從ニアツタ〔厚田〕運上や一七り十七町卅二間)濱益毛〔濱益、一名茂生(もおい)〕(運上や、通行や、御制札、備ぐら、板くら六棟、茅ぐら九棟、雇くら、鍛冶や、大工小や、漁や、立物多し) 辨天社(前の山にあり)、稻荷社有。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(下)」時事通信社 p.217 より引用)
うーむ。「茂生」が「浜益」に取って代わられたのは浜益村の成立以後かと思ったのですが、どうやら見当違いだったようです。まぁ「ハママシケ場所」の成立はもっと前ですから、その時点で「茂生」=「ハママシケ」という認識だったのかもしれませんね。「北海道の地名」では
山田秀三さんの「北海道の地名」には、次のように記されていました。茂生 もい,もおい
浜益の市街は二つになっているらしい。川口の砂浜沿いに並んでいる市街から北行,岬形の処を回り,崖下の岩磯地帯を通って入江の処まで行くともう一つの市街で,浜益役場がある。土地の人に聞くと,昔はモイだったが今は浜益というのだという。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.120 より引用)
山田さんの言う「二つの浜益の市街」は、浜益川の河口に近い「浜益区川下」と漁港のある「浜益区浜益」のことです。「荘内藩ハママシケ陣屋跡」があるのは川下のほうですが、「浜益」の地名は役場のあった「浜益区浜益」に引っ越した……と言ったところでしょうか。永田地名解は「オタコツペッ(注・浜益川)の両岸に住したるアイヌをヘロクカルシ(注・茂生付近)に移し益毛場所と称す」と書いた。つまりマシケと呼ばれた川筋(浜益川)の人たちを茂生に連れて来て運上屋を作り,その人たちのいたマシケの名を使って益毛場所と称し,それが後に浜益毛となり,更に浜益となったのであった。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.120 より引用)
ふむふむ。改めて「東西蝦夷山川地理取調図」を見てみると、確かに現在の浜益漁港に相当するあたりに「ヘロカロシ」と描かれています。「西蝦夷日誌」にも「ヘロカルウシ」という地名の存在が示唆されていますが、これらは heroki-kar-us-i で「ニシン・獲る・いつもする・ところ」だと考えられます。閑話休題
本題の「茂生」についてですが、山田さんは次のように考えていたようです。茂生はモイ(moi 入江)の意だったらしい。それを「もーい」のように呼んで,それに茂生の字を当てた。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.120 より引用)
moy は一般的に「入江」と解釈されますが、実際には必ずしも「入江」であるわけではなく、「静かな海」を指す場合もあったようです。浜益漁港のあたりにも「入江」は見当たらないので、今回は「静かな海」と考えたほうが適切かもしれませんね。大正時代の地形図を見ると、「濱益村茂生」のあたりの海には岩礁が多かったようで、茂生川の河口あたりが微かに、天然の入江のようになっている……と言えなくは無いかも……。
「アイヌ語地名解」では
そう言えば、更科源蔵さんがこの「モイ」問題について、面白い(画期的な?)解釈を記されていました。地名の起源は岬のかげの波の静かなところ、日本語でいうと浦、入江、入海、湾などをさすので、モは静かなイは所という意味であって、この茂生は入江の意味であるが、山の中にもモイというところがある。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.95 より引用)
語源から考えると正しくその通りなのですが、なかなかこのように言い切るのは勇気が必要なんですよね……。川の曲り角で水の流れのゆるやかなところもモイというし、山の谷間で海の入江に似たところもモイという。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.95 より引用)
あーっ、これは! 「山の谷間で海の入江に似たところ」というのは、浜益漁港のあたりの地形がまさにそんな感じですね。www.bojan.net
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