(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。
幌内山(ほろない──)
(? = 典拠未確認、類型多数)
石狩市北部にある標高 649 m の山の名前で、かつての浜益郡浜益村と厚田郡厚田村の境界に位置しています。山の西には「逆川」が、東には「厚田川」が流れていますが、それぞれの流向が真逆なのが面白いところです(それで「逆川」なのかも)。「幌内」は本来は川の名前なのですが、改めて古い地形図を確かめてみると、現在「逆川」と呼ばれる川がかつて「ポロナイ」と呼ばれていた……というオチだったようです。この「逆川」は上流部での枝分かれがもの凄いのですが、支流のいくつかが「幌内山」方向に向かっていました。そのことから山の名前に借用された……と考えて良いかと思います。
「幌内」は poro-nay で「大きな・川」と考えて良いのでしょうね。
於札内川(おさつない──)
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
国道 451 号沿いに「浜益温泉」という温泉施設がありますが、その近くで浜益川に注ぐ北支流の名前です。1980 年代の地図を見ると、於札内川沿いに「於札内」という地名の存在が確認できますが、現在の地理院地図には記載がありません。「東西蝦夷山川地理取調図」には「サヲツナイ」という名前の川が描かれていました。また「西蝦夷日誌」にも次のように記されていました。
しばしにてサヲツナイ(右)、ノホリインコロクシベツ(左)、チライヲベイレレケヲマナイ(右)、此邊まで廣地にて、如何にも地味よろし。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(下)」時事通信社 p.216 より引用)
あらら、「西蝦夷日誌」でも「サヲツナイ」ですね……。気を取り直して丁巳日誌「天之穂日誌」を見てみましょうか。扨此両岸平地、谷地多し。しばし上りて右の方サヲツナイ、又しばし行てノホリイシユロクシヘツ、並びてチライヲベイレレケヲマナイ。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.433 より引用)
えっ……。ここまで全て、揃いに揃って「サヲツナイ」とあります。これだけ「サヲツナイ」と言われたら、本当に「サヲツナイ」だったんじゃないかと疑ってしまいそうになりますが、明治時代の地形図を見ると「ヲサッナイ」または「オサッナイ」と描かれているんですよね。「於札内」は o-sat-nay で「河口・乾いている・川」と考えるのが自然です。実際の地形も扇状地に近い部分があり、河口近くで伏流していた可能性も十分考えられそうなので、やはり「サヲツナイ」ではなく「ヲサッナイ」だったと考えるべきかと思います。
毘砂別(びしゃべつ)
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
石狩市浜益区川下から南に向かうと、海沿いを通っていた国道 231 号が毘砂別のあたりで突然内陸部に向かい始めます。海沿いのルートから毘砂別川沿いのルートに変わる、ということになりますね。「東西蝦夷山川地理取調図」には「ヒシヤンヘツ」という名前の川が描かれていました。また「西蝦夷日誌」には「ビザンベツ」と記されています。丁巳日誌「天之穂日誌」では「ビサンベツ」とあり、明治時代の地形図には「ピサンペッ」とあります。
これだけ多くの文献等に記録があるのであれば、当然「永田地名解」にも記載があるだろう……と思って見てみたところ……
Tomi san pet トミ サン ペッ 軍勢ヲ出シタル處 上古ノ土人「ポイヤウンベ」ト云フ者此川ニ砦ヲ構ヘ兵ヲ出シ戰爭セシコトハ「ユーカリ」ニアリ今「ピサンペッ」ト云フちょっと面白そうな伝説が紹介されていました。ちなみにこの手のストーリーと言えば更科さんが得意にしている印象があったのですが……
毘砂別(ぴしゃべつ)
浜益海岸の地名。この部落を流れる急流の川の名で、ピ・サン・ペッで石の流れ下る川の意で、トミサンペツ(軍勢ヲ出シタル処)などではない。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.95 より引用)
いつになく強い勢いで永田説を否定していました。まだ続きもありまして……この川上にアイヌの英雄ポイヤウンベの砦があり、戦争のときこの川伝いに兵を動かしたという。伝説にむすびつけた強引な解釈は注意すべきである。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.95 より引用)
ひょえ~。否定も否定、完全否定ですね。面白いのは、「軍勢を出したところ」という解は「トミサンペツ」から出ていて、「ピサンペッ」とは音が異なるというところです。山田秀三さんは「北海道の地名」にて次のように記していました。
諸地のユーカラの主人公の英雄ポイヤウンベ(← pon-ya-un-pe 少年の・陸・の・者)はトミサンベツ(軍・出る・川とも,光るもの・流れ出る川とも読まれる)のチャシ(砦)で育ったと語られる。古くからそこは浜益だと伝承され,一説ではこの毘砂別川ともいわれたことを永田解は書いたのであった。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.118 より引用)
「軍・出る・川」以外に「光るもの・流れ出る・川」という解釈もできるのでは……と読めますが、あるいは tomo-san-pet で「中間の・山から浜に出る・川」という解釈もできるんじゃないかな……と思わせます。「戦争」(tumi)と伝わっている地名は、tomo が化けたケースが結構多い印象があります。
そして現在の「毘砂別」をどう解釈するかですが、これは素直に pi-san-pet で「小石・流れ出る・川」と考えるべきかな、と思います。ただ pis-an-pet で「浜側・ある・川」という解釈も成り立ちそうな気もするので、こっそり追記しておきましょうか……(送毛から北に向かった場合、「浜」のある海に注ぐ川は「毘砂別川」まで存在しないような気がするんですよね)。
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