2020年11月3日火曜日

「日本奥地紀行」を読む (108) 村山(村山市)~新庄(新庄市) (1878/7/16)

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第十九信」(初版では「第二十四信」)を見ていきます。

雪の山々

イザベラ一行は天童から東根を経由して、更に北に向かったようです。

 翌日もやはり同じりっぱな道路を進む旅であった。農村や、トチイダ(土生田)と尾花沢のように千五百や二千の人口の町が続く場合がしばしばあった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.226 より引用)
「トチイダ」が少々謎ですが、原文では次のようになっていました。

The next day's journey was still along the same fine road, through a succession of farming villages and towns of 1500 and 2000 people, such as Tochiida and Obanasawa, were frequent.
(Isabella L. Bird, "Unbeaten Tracks in Japan" より引用)
なるほど、確かに "Tochiida" となっていますね。これは「土生田」と記されている通り、村山市北部の「土生田」(とちうだ)のことのようです。JR 奥羽本線の「袖崎駅」のあたりですね。

土生田から鳥海山は見えるのか

ところで、イザベラはちょっと気になることを記していました。

この二つの町から鳥海山のすばらしい姿が眺められた。雪におおわれた壮大な円頂で、八〇〇〇フィートの高さだといわれている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.226-227 より引用)
あー、なるほどね……ええっ!? 改めて読み直してみると「鳥海山」とありますよね。8,000 フィートは約 2,438 m で、鳥海山の最高地点が 2,236 m のようですから、異様に地誌的データが正確なイザベラにしては誤差が気になりますが、「8,000 フィート」という数字は有効桁数が小さいものだったのかもしれません。

それはそうとして、本当に土生田から鳥海山が見えるのか……という話ですが、視界を遮る山は、舟形駅の南にある標高 192 m の丘(猿羽根峠の近く)くらいなので、理論上は有り得る話のように思えます(ちょうど最上川の下流方向を眺めると、その先に鳥海山があります)。土生田から鳥海山の山頂までは約 67.8 km ですが、都内から約 90 km 先の富士山が見えることもあるので、距離的にも不可能ではない感じでしょうか。

山は比較的に平坦な地方からまったく思いがけない高さで聳えている。同時に湯殿山の大雪原が見えて、下方にとても美しい連山が幕のように囲んでいるので、日本の最も壮大な眺めの一つであると考えられよう。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.227 より引用)
逆に、こちらの文章は少し疑わしく思えてきます。土生田から湯殿山を眺めることは恐らく不可能(葉山、あるいは古御室山が遮りそう)で、仮に天童からだったとしても、手前にある扇平山・地蔵森山が遮ってしまいそうに思えます。イザベラは「湯殿山」と「月山」を混同していたかもしれませんし、あるいは湯殿山の頂上がほんの僅かに見えていたのかもしれません。

谷間に沿って?

尾花沢から北に向かったと思われるイザベラ一行ですが、少し気になる表現がありました。

尾花沢を出ると、道路は、最上川の支流の一つに灌漑されている谷間に沿って走っている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.227 より引用)
これはおそらく「丹生川」のことでしょうね。ただ、この文脈だと道路が丹生川に沿っているように読めてしまいますが、原文は次のようになっていました。

After leaving Obanasawa the road passes along a valley watered by one of the affluents of the Mogami,
(Isabella L. Bird, "Unbeaten Tracks in Japan" より引用)
確かに along とあるので「沿って」と訳したくなりますよね。ただ、この先のルートを考えると丹生川に沿って移動することはほぼあり得ないので、「沿って」という解釈は現実的には成り立たないかと思います。

美しい木橋を渡って川を越えると、峠道を登る。この峠からの景色はとても雄大である。この長い坂道は軽い泥炭質の土の地帯で、松や杉、低い楢の木の林が続く。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.227 より引用)
話を少しだけ厄介なものにしているのが、尾花沢と新庄の間には分水嶺が二つあるという点です。土生田から鳥海山を眺める際の視界を多少なりとも遮っている筈の「猿羽根峠」のほかに、南新庄駅の南にも比較的開けた分水嶺があるのです。ここでイザベラが「峠道を登る」「峠からの景色は雄大である」としているのは、きっと「猿羽根峠」のことだと思われますが……。

こんどは長い坂を下るが、りっぱな並木道で、新庄で終わる。

この書きっぷりは、舟形町と小国川のことをサクッとカットした、と考えるしか無さそうな感じでしょうか。

新庄へ到着

イザベラ一行は無事に? 新庄に辿り着いたようです。

新庄は人口五千を超えるみすぼらしい町で、水田の続く平野の中にある。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.227 より引用)
イザベラ姐さん、さりげなく新庄を dis ってますが、後ほど更に本気を出すことになります(汗)。

 この日の旅行は、二三マイルを超え、農村を通過する旅で、宿屋もなければ、茶屋さえもないことが多かった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.227 より引用)
23 マイルということは約 37 km ですが、村山市から新庄市までの距離とほぼ一致しますね。

建築の様式はすっかり変わってきた。森や林は見えなくなり、今ではどの家屋も重い梁と、切り藁をまぜた褐色の泥土と木摺で塗った壁の建築であった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.227 より引用)
「切り藁をまぜた褐色の泥土」を壁に塗る建築様式というのは、今でも普通に見かけるような気がします。Wikipedia には「土壁」とありますね。

家屋は非常にこぎれいであった。ほとんどすべてが大きな矩形の納屋で、端の方を道路に向けてあり、長さは五〇フィートか六〇フィート、ときには一〇〇フィートもあって、道路に最も近い端が住宅になっている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.227 より引用)
イザベラの文章をそのまま受け取るならば、比較的裕福な農家の家屋に思えるのですが……。

多くの場合、鼠取り蛇が垂木の中にわがもの顔に住んでいて、たらふく喰ったときには、ときどき下の蚊帳の上に落ちてくる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.227 より引用)
しれっと凄いことが書いてありますね……(汗)。

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