では、早速中に入ってみましょう。
あれっ。「幌内煤田の発見」だったり「外国人技術者の招聘」だったり、炭鉱の話になっちゃってますね……?
往時の市来知村近傍鳥瞰図
展示室の入口の正面には、巨大な「往時の市来知村近傍鳥瞰図」が見えます。そしてその手前には「空知集治監構内復元模型」が。「集治監」(しゅうちかん)と言えば、今で言う「刑務所」のことですが、「樺戸集治監」(月形町)だけではなくて、三笠にも集治監があったんですね。
さてこれは現在のどの辺なんだろう……という話ですが、どうやら現在「三笠市立三笠小学校」と「三笠市立三笠中学校」があるあたりが、かつての集治監だったみたいです。
市来知村の開村
「市来知村の開村」と題されたパネルですが、これを見た限りでは「幌内煤田の発見」→「空知集治監の開設」→「市来知村の開村」という順番だったようですね。炭鉱の開発には労働力が必要なので、明治新政府に反抗的だった旧士族などの「思想犯」を大勢送り込んだ……ということでしょうか。水道の敷設
空知集治監の囚人の最初の仕事は「水道の敷設」だったようです。ゼロからの開拓は、やはり飲水の確保からなんですね。展示室の一角には「三笠市指定文化財」と題された丸太のようなものが置かれていましたが……
実はこれが「空知集治監水道木管」なのだとか。空知集治監まで引かれた水道を、この木管で市来知村の一般家庭に分水するのに使用されたものなのだそうです。
囚人労役により開削された道路
空知集治監の囚人が建設したのは水道だけではなく、他の集治監と同様に道路の開削にも労働力として投入されたようです。炭鉱労役
囚人は、もちろん本来の目論見である「炭鉱労役」にも大量に投入されました。下の円グラフは幌内炭鉱における労働者の延べ人数と囚人・一般人の比率を示したものですが、明治 18 年から明治 21 年にかけての 4 年間だけで、囚人の占める比率が 78 % に激増しています。幌内炭鉱での労働環境はかなり劣悪なものだったようで、空知集治監が存在した約 20 年の間に囚人の犠牲者は 1,152 人にのぼる、とあります。「人命軽視」という日本人の悪習はいつから始まったんでしょうね……。
明治時代の貨幣価値
「明治時代の貨幣価値」というパネルが入口のすぐ近くに掲出されていました。戦後のハイパーインフレとバブル崩壊後にほぼ平坦になってしまったところが目立ちますが、明治 5 年の 1 円は現在の 6,000 円に相当するとのこと。ハイパーインフレはダメですが、全く成長が見られないというのも困ったものですよね……。
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