2020年7月11日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (744) 「ポンヌキベツ川・オーホナイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

ポンヌキベツ川

sinoman-{nupki-pet}?
本当の・{濁り水・川}

(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
洞爺湖町と留寿都村の境を「貫気別川」が流れていますが、ポンヌキベツ川は貫気別川の北支流で、留寿都村を流れています。

謎の「ホンヌツキヘツ」

東西蝦夷山川地理取調図」にも「ホンヌツキヘツ」という川が描かれているのですが、なぜか「ヌツキヘツ」の南支流として描かれています。

明治時代の地形図を見てみると、現在の「貫気別川」のところに「ポンヌプキペッ」と描かれていましたので、どうやらどこかのタイミングで「ヌツキヘツ」と「ホンヌツキヘツ」が入れ替わった、ということでしょうか?

「ホンヌツケヘツ」と「ホロヌツケヘツ」

丁巳日誌「報志利辺津日誌」には次のように記されていました。

此処二股に成、左りの方なるをヲロウエンヌツケヘツと云て、是は後方羊蹄山とコンホノホリとの間より落るとかや。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.323 より引用)
これは貫気別川を遡った場合の聞き書きですが、「大和大橋」のあたりで北(左)から「オロエンヌキベツ川」が合流している……という内容ですね。現状との齟齬は特に無さそうです。

右の方本川すじを上ることしばしにてニイブシナイ、ヲポナイ、フルホクシナイ等形計の小川左りより落来り、過てホンヌツケヘツ、ホロヌツケヘツ等は右の方より落来る小流にして、則今通り来りし処也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.323 より引用)
この辺から少し怪しい部分が出てきます。まず「ニイブシナイ」が現在の「ニフシナイ川」のことだと考えるならば、「左りより落来り」ではなく「右の方より──」が正しいということになります。また「フルホクシナイ」に相当する「左りより落来」る川が見当たりません。

問題の「ホンヌツケヘツ」は「右の方より落来る小流」とあるので、これは現在の「貫気別川」のことを指す……のかと思ったのですが、「則今通り来りし処也」という一文がちょっと気になります(現在の貫気別川なのであれば、まだ通過していない筈なのです)。

「ポンヌキベツ川」=「本川すじ」?

松浦武四郎の足取りをもう少し追ってみましょう。

過て本川すじを上り行や、フルホクといへる山に到るとかや。此山則我今宵宿せしソリヲイの少し上の方也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.323 より引用)
「フルホク」は hur-pok で「丘・下」と考えられるでしょうか。「角川──」(略──)には次のような記載がありました。

 ふるほく フルホク〈喜茂別町〉
〔近世〕江戸期から見える地名。フルボッケなどともいう。後志地方南東部,尻別川上流域。南に尻別岳がそびえる。
(「角川日本地名大辞典」編纂委員会・編「角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)」角川書店 p.1311 より引用)
「フルホク」の詳細ですが、丁巳日誌「報志利辺津日誌」の行程を考慮すると、尻別岳の北、現在の「留産」あたりの漁場の名前だったと考えられそうです。「フルホク」が漁場の名前だとすると「フルホクといへる山」が謎なのですが、「ソリヲイの少し上の方」とあるので、尻別岳の北西にある標高 492.2 m の山あたりをそう呼んだのでしょうか。

松浦武四郎は「本川すじを上り行や」で「ソリヲイ」(=橇負山)に辿り着いたと認識しているので、やはり現在の「ポンヌキベツ川」が本流だったと考えられそうです。

「シノマンヌツキヘツ」と「ホリカヌツキヘツ」

ここまでの認識を元に改めて「東西蝦夷山川地理取調図」を眺めてみると、「ソリヲイ」の麓に「シノマンヌツキヘツ」という川が描かれていることに気がつきます(sinoman-{nupki-pet} で「本当の・{濁り水・川}」、即ち「貫気別川の本流」を意味します)。

そして、よく見ると手前に「ヘテウコヒ」という地点があり、「ホリカヌツキヘツ」という「左支流」が合流しているように描かれています。「ヘテウコヒ」は道内のあちこちで見られる地名で、pet-e-u-ko-hopi-i で「川・そこで・互いに・捨て去る・ところ」を意味します。平たく言えば「川の分岐点」ですね。

ただ、実際に地形図を見てみると、ポンヌキベツ川は分水嶺のすぐ東側を流れているので、「左支流」が存在する余地は無く、況してや「川の分岐点」と呼べるスポットは見当たりません。唯一可能性のある解釈としては、「ホリカヌツキヘツ」の位置を左右(南北)逆に描いてしまった、でしょうか。

ということで

随分と長くなってしまいましたが、そろそろまとめに入ります。現在の「ポンヌキベツ川」は、「東西蝦夷山川地理取調図」では「シノマンヌツキヘツ」と描かれた川のことだと思われます。

そして、現在の「貫気別川」(明治時代の地形図に「ポンヌプキペッ」と描かれた川)は、「東西蝦夷山川地理取調図」における「ホリカヌツキヘツ」だったと考えられます(horka は「U ターンしている」と言った意味です)。

なお、「東西蝦夷山川地理取調図」に「ホンヌツキヘツ」と描かれた川は、現在の大原川(洞爺湖町)か、あるいはその北側の小川の名前だった可能性が考えられそうです。

「大原」は「ポロヌㇷ゚」の意訳地名と捉えることも可能なので、大原川は丁巳日誌「報志利辺津日誌」の「ホロヌツケヘツ」に相当する可能性も高いかと思っています。

オーホナイ川

ooho-nay
深い・川

(典拠あり、類型あり)
貫気別川の北支流で、中流部と下流部では留寿都村と真狩村の境界上を流れています。ooho-nay で「深い・川」だと思われますが、いくつか疑問点が残ります。

rawneooho の謎

まず、同じく貫気別川の支流である「小花井川」とも共通するのですが、ooho は一般的には「(水かさが)深い」という意味だとされます。たとえばグランドキャニオンのように「深く掘られている」という意味での「深い」の場合は rawne という語彙が使われることが一般的なので、オーホナイ川が rawne ではなく ooho なのは何故だろう、という疑問が出てきます。

幻の「フルホクシナイ」

もう一つは、より重大な疑問点なのですが、丁巳日誌「報志利辺津日誌」には次のように記されていました。

右の方本川すじを上ることしばしにてニイブシナイ、ヲポナイ、フルホクシナイ等形計の小川左りより落来り、過てホンヌツケヘツ、ホロヌツケヘツ等は右の方より落来る小流にして、則今通り来りし処也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.323 より引用)
前後の文章から考えると、「ヲロウエンヌツケヘツ」(現在の「オロエンヌキベツ川」)と「ホンヌツケヘツ」(現在の「大原川」か)の間に「ニイブシナイ」「ヲポナイ」「フルホクシナイ」という「北支流」があった、ということになりますが、現在の地図を見た限りでは「ニフシナイ川」という「南支流」と、「オーホナイ川」という「北支流」しか確認できません。

そして、「フルホクシナイ」は hur-pok-kus-nay で「丘・下・通行する・川」だと考えられますが、この hur-pok は尻別岳の北西を指す地名だと考えられます。つまり、「フルホクシナイ」は留産方面に向かう際の交通路として使用される川だったと言えそうです。

(2020/7/12 追記)「フルホクシナイ」の hur-pok が留産の近くの hur-pok を指す、という考え方は間違っているかもしれません。よってこれ以下の仮説も立論が怪しくなります。

「フルホクシナイ」=「オーホナイ川」?

この条件に当てはまる川は事実上二つしか無いと思われます。一つは現在の「ポンヌキベツ川」ですが、丁巳日誌「報志利辺津日誌」には「フルホクシナイ」は「ヲロウエンヌツケヘツ」と「ホンヌツケヘツ」の間で「ヌツケヘツ」(貫気別川)と合流しているとあるので、「ポンヌキベツ川」が「フルホクシナイ」であるという可能性は棄却できるかな、と考えます。

となると、あとは現在の「オーホナイ川」しか残らないのですね。ということで、仮に現在の「オーホナイ川」が「フルホクシナイ」だったとすると、「東西蝦夷山川地理取調図」にある「ヲホナイ」はどこへ行ってしまったのか、という話になります。

「ヲホナイ」はどこに

いくつかの仮説が頭に浮かぶのですが、まず「ヲホナイ」は現在の「小花井川」しか存在せず、「東西蝦夷山川地理取調図」などに二つの「ヲホナイ」があるのが勘違いだった、という説も考えられるかと思います。

もう一つは、現在の「ニフシナイ川」が「ヲホナイ」なのではないかという説です(地形図を見た限りでは、かなり rawne な川に見えます)。となると今度は消えた「ニイフシ」を探すことになりますが、戊午日誌「作発呂留宇知之日誌」には、洞爺町から「武四郎坂」を越えて北に向かった途中に「ニヌブシナイ」という小川が記録されています(武四郎坂から北に向かった場合、現在の「ニフシナイ川」は通らない筈です)。

きちんと位置が伝承されていた「オロエンヌキベツ川」をベースにして、「東西蝦夷山川地理取調図」に出てくる順番で川の名前を再定義した……とすると、こういった錯誤が生じる可能性もあるんじゃないかな……と思えてくるんですよね。

また、より穏当な仮説としては、現在「オーホナイ川」と呼ばれている川ではなく、その南支流が「ヲホナイ」だった、という可能性もあるかもしれません。

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