2020年5月3日日曜日

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「日本奥地紀行」を読む (102) 津久茂(高畠町)~上山(上山市) (1878/7/14)

 

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第十八信」(初版では「第二十三信」)を見ていきます。

一流の温泉場

イザベラ一行は、現在の県道 7 号「高畠川西線」に相当するルートで東に向かい、渡し舟で最上川を渡りました。高畠町西部の「津久茂」からは現在の国道 13 号に相当するルートで赤湯に向かいます。赤湯に向かう道路は当初聞いていた情報とは異なり、予想以上に整備されたものでした。

 私たちは馬に乗って四フィート幅の道路を四時間ほど、これら美しい村々を通って進んだ。すると驚いたことには、渡し船で川を越すと、津久茂で、地図では副道となっている道路に出たが、この道路は実際には二五フィートの幅があり、よく手入れがしてあり、両側に堀が掘られており、道に沿って電柱が並んでいた。またたく間に新しい世界に出てきたのである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.219 より引用)
25 ft は 7.62 m ですから、片側 1 車線の道路と似たスペックということでしょうか。両側に水路があり電柱も立っていたというのは、確かにこれまでの山の中の道路では見かけなかったものですね。

この「高規格道路」は歩行者、人力車、駄馬、荷車などで混雑していたのですが……

それはすばらしい馬車道路なのだが、馬車は走っていない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.219 より引用)
あはは(笑)。立派な「馬車道」だったものの、人力車がメインだったというのは苦笑いするしか無いでしょうか。インフラ(土台)の整備から始めるというアプローチは凄く正しいんですけどね。

このように文明化した環境の中で、二人か四人の赤銅色の肌をした男が車を引く姿を見るのは、奇妙なものであった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.219 より引用)
これを見る限り、人力車を引くのは男の仕事……かと思ったのですが、

しばしば夫婦者が──男は裸で、女は腰まで脱いだ姿で──車を引くのを見た。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.219 より引用)
うわわわ。「上半身裸の女性」というのはこれまでも何度か見聞きした記憶がありますが、街道筋でも普通に見かけるものだったんですね。

また子どもたちが、本と石板をもって、学課を勉強しながら学校から帰る姿もあった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.219 より引用)
本と……石板? なるほど、ノートの代わりだったんでしょうか。

赤湯を諦め上山へ

イザベラは赤湯に泊まるつもりだったようですが、最終的には上山まで足を伸ばすことになります。その理由は次のようなものでした。

 赤湯という硫黄泉の温泉町で、私は眠りたいと思ったのだが、これほどうるさいところは今まであまりなかった。四つの道路が合する最も賑やかなところに浴場があって、大きな水音を立てて男女の人々があふれていた。すぐ傍に宿屋があって、約四十の部屋があり、その大部分は数人のリューマチの湯治客が畳の上に横になり、三味線をかき鳴らし、琴をきいきい弾き、その騒音にとてもがまんできなかったので、私はここへやってきたのである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.220 より引用)
イザベラは日本の文化への理解も深く、異文化に対して寛容だったように見受けられますが、音楽については例外だったのかもしれません(音楽については生理的に受け付けないものもあるので、こればかりは仕方がないでしょう)。以前は「雅楽」についても「神社での不協和音演奏」と記していましたし……。

ここはそこから一〇マイル離れたところで、りっぱな新道を通って、興味ない水田と低い丘のある広い谷間を登ってくる。すると砂利の多い高い丘に囲まれた小さな平野が眼前に開けてくる。その丘の傾斜地に上ノ山の町が心地よく横たわっている。人口三千を越す温泉場である。

赤湯で「騒音」にブチギレたイザベラ姐さんは、改めて国道 13 号相当のルートを北上して上山に向かいます。赤湯は最上川の流域ですが、上山は最上川の支流の「須川」の流域です。赤湯の北に位置する旧・中川村のあたり(南陽 PA のあたり)は既に須川(の支流の前川)の流域で、要はイザベラはしれっと峠を一つ越えていることになります。

ところで「興味ない水田」とは一体何なのか……という話ですが、原文を見ると "an uninteresting strath of rice-fields" となっていました。どうやらイザベラにとっては「よくある風景」に見えてしまった、ということなんでしょうね。

湯治について

赤湯から全力で逃れてきたこともあるかもしれませんが、イザベラの上山の印象は随分と良いものでした。

上ノ山は清潔で空気がからりとしたところである。美しい宿屋が高いところにあり、楽しげな家々には庭園があり、丘を越える散歩道がたくさんある。ここは日本でもっとも空気がからりとしているところの一つだといわれる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.220 より引用)
イザベラは、上山のあたりは外国人向けの保養地としても良さそうだと考えていたようで、

 この街道筋は、日本旅行の大きなルートの一つとなっている。温泉場を訪れて、彼らの風習や娯楽、そしてヨーロッパから何も採り入れていないのにまったく完璧な文化を観察するのは、興味深いことだ。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.220-221 より引用)
「ヨーロッパから何も採り入れていないのにまったく完璧な文化」というのは、そこに純粋な和風の文化が存在し、そしてそれが「まったく完璧」である……ということですよね。自分たちの文化と全く異なる「異文化」を素直にリスペクトしているとも取れます。

ここの温泉には鉄が含有されていて、硫化水素が強くしみている。私は三カ所で温度をためしたが、一〇〇度、一〇五度、一〇七度であった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.221 より引用)
危うくスルーしそうになりましたが、これはもちろん華氏ですよね。100 °F は約 37.78 °C で、105 °F だと約 40.56 °C、107 °F は 約 41.67 °C ということになります。温泉としてはかなりパーフェクトな温度設定ではないでしょうか(水を足しているのかもしれませんが)。

この温泉はリューマチによく効くといわれており、遠くから湯治客が来る。私がしばしばものをたずねた警官の語るには、湯治のためにここに滞在している人の数は六百近くで、毎日六回入浴するのがふつうだという。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.221 より引用)
湯治客が 600 人近いというのは中々の規模ですが、だいたいどれくらいの期間逗留するものなんでしょう。のんびり湯治する暇があっていいなー……と考えてしまうのは、我ながら少し悲しくなります。

イザベラは、漢方などの「東洋医学」については「いんちき」であると全否定していましたが、一方で以下のように「旧式の日本の医者」については、それほど否定的には捉えていなかったようです。

他の病気のときもそうだが、リューマチの場合に、旧式の日本の医者は食事や生活習慣にほとんど注意を払わず、薬や外部の手当てに多く注意を払っているように思う。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.221 より引用)
その上で、次のようなアドバイスを記していました。

彼らが柔らかいタオルで軽くなする代わりに力強く摩擦するようにしたら、薬や温泉の効果もずっと増すであろうに。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.221 より引用)
イザベラは湯治にも詳しいのか……と思ったりもしますが、良く考えると、「湯治」という習慣は別に日本だけのものではないですからね。

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