小松に到着
イザベラ一行は、飯豊町松原から現在「諏訪峠」と呼ばれる峠を越えて、川西町小松(JR 米坂線・羽前小松駅のあたり)にやってきました。鉄道(米坂線)は今泉を経由するためやや大回りをしていますが、イザベラは峠越えをして多少のショートカットに成功した感じでしょうか。山から下りて米沢平野に出ると、いくつかの築いた土手がある。山腹から一歩足を出せば平らな地面となる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.214 より引用)
小松(羽前小松)の市街地の北側には「犬川」という川が流れているので、「土手」というのは犬川の堤防だった可能性がありそうですね。家並みを見ると、清潔さが増し、安楽な生活を暗示しているようであった。手ノ子から小松まで歩いて六マイルであった。小松は美しい環境にある町で、人口は三千、綿製品や絹、酒を手広く商売している。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.215 より引用)
羽前小松には川西町の役場がありますが、これまで見てきた悲惨な有様と比べると、随分と豊かな暮らしができていた街のようです。ここでもイザベラはいつもの「歓迎」を受けることになります。私が小松に入ると、私を見た最初の男が急いで戻り、町の最初の家の中に向かって、「はやく! 外人が来るぞ」という意味の言葉を叫んだ。そこで仕事中の三人の大工が道具を投げ出し、着物を着るひまもあらばこそ、街路を大急ぎで走りながらこのニュースを大声で伝えた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.215 より引用)
あっはっはっは……。一昔前だと「マイケル・ジャクソンが来るぞ!」くらいのインパクトのある出来事だったんでしょうねぇ。その結果として……それで私が宿屋に着くころまでには、大きな群集が押しかけてきた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.215 より引用)
お約束の展開が今回も繰り返されたのでした。堂々たる宿舎
さて、イザベラ一行が泊まることになった宿ですが、これまでの「農家ベースの民宿」とは異なり、久々に本格的な「宿」だったようです。玄関は下品で良い宿とは見えなかったが、屋敷内を流れる川にかかっている石橋を渡り、奥に着くと、大きな部屋があった。長さ四〇フィート、高さ一五フィートもある部屋で、片方はすっかり開け放して庭に面している。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.215 より引用)
最初に「下品で良い宿とは見えなかったが」とチクリと刺すあたり、イザベラ姐さんの調子も回復基調でしょうか。ところでヤード・ポンド法は……ですが、「長さ 40 フィート」は約 12.2 m で、海上コンテナのサイズと同じとのこと。高さ 15 フィートは約 4.6 m ですから、吹き抜けとまでは言わないまでも、随分と開放感のある部屋のようです。庭園には金魚を泳がせてある大きな池や、五重の塔、盆栽、その他いつもの小型の装飾の造作があった。青い縮緬紙の襖は金泥が塗ってあり、この「回廊」は一転して二部屋になった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.215-216 より引用)
随分と成金趣味な(失礼)部屋だったようですね。さてこの「回廊」とは何だろう……と思ったのですが、原文を見ると "gallery" だったようですね。gallery は「画廊」じゃないのか……と思ったのですが、この場合は「回廊」と解するのが適切だったようですね。イザベラは、この豪奢な部屋で一晩を過ごすことになるのですが、しかし私的生活はなかった。群集は後ろの屋根によじ登り、夜までそこにじっと坐っていたからである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.216 より引用)
これまたいつものお約束な展開ですね。Victorian lady traveler として名を馳せたイザベラも、現地の人からみれば「女赤鬼」でしか無く、その正体が「天狗」ではないか気になってしょうがない……と言ったところもあったのでは無いでしょうか。イザベラには「品がない」と見抜かれていた部屋の豪華な装飾ですが、その理由の一端が明かされます。
これは大名の部屋であった。柱や天井は黒檀に金泥をあしらったもの、畳はとてもりっぱで、床の間は磨きたてられており、象眼細工の書机や刀掛けが飾ってあった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.216 より引用)
あー、なるほど。徳川家による封建的な支配が具現化したものと言える「参勤交代」という制度がありましたが、皮肉な見方をすれば内需拡大にも一役買っていたのかもしれませんね……。年に数回あるか無いかの「お殿様の旅行」のために、こんな部屋が用意できるわけですから。他の多くの宿屋と同じように、ここにも掛物があって首相や県知事、有名な将軍など、この家に宿泊してくれた偉い人々の名前をあらわす大きな漢字が書いてあり、例によって同じように詩を書いた掛物もかかっていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.216 より引用)
有名人が来訪した際に「色紙」を残すという文化?は、果たしていつ頃からあったのでしょう。イザベラのこの文章を読む限りでは、すでに明治初頭にはこういった習慣があったことを伺わせます。私も何度か、このように掛物とするために何か書いてくれ、と頼まれた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.216 より引用)
「You も何か書いちゃいなよ」ということでしょうか。書けば良かったのに……(他人事)。私は小松で日曜日を過ごしたが、夜池の蛙が鳴いていたので、よく休めなかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.216 より引用)
あー、良くわかります(←田舎育ち)。夏の時期の蛙は本当に元気ですよね。この町には、他の多くの町と同じように、白くて泡のようなお菓子だけしか売っていない店があった。それは非常に賞玩されている金魚に与えるためのもので、家の女や子どもたちは一日に三度庭に出てきて金魚にその餌を与える。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.216 より引用)
「白くて泡のようなお菓子」というのは、もなかの皮みたいなアレのことでしょうか。だとしたら、少なくとも江戸時代から綿々と受け継がれているということになりそうですね。www.bojan.net
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