2019年12月20日金曜日

夏の焼尻・天売・道北の旅 2015 (161)「探訪・北海道博物館(昭和の15年戦争編)」

「北海道博物館」の総合展示室(2F)の話題を続けます。今年中に終わり……ますよね?(誰に聞いている

「アジアの戦争と北海道」の 2 つ目のトピックが「昭和の15年戦争」です。
パネルの左に額に入った原稿用紙が展示されていますが、「小林多喜二の朱書きのある校正原稿」だそうです。シュレッダーで破棄されなくて良かったですね……。
右下には「取締の対象になった反戦的言動」の実例が紹介されていました。「演説を野次ったから」というのがあったらどうしようかと思いつつ……。

アイドル化する「兵隊さん」

「日清戦争」以降の軍国日本では「兵隊さん」がアイドルのように持て囃されるようになります。左上にはなんと「肉弾三勇士の文鎮」なるものが置かれています。肉弾三勇士、今では知らない人も多いでしょうね……と書きながら、そういう自分自身も正確なところを覚えていなかったことに今頃気づきました。第一次上海事変での出来事だったのですね。
「兵隊さん」がアイドル化した結果、こんな絵はがきも制作されるようになりました。ちょうど時期的に「肉弾三勇士」の時期とかぶるのですね(日露戦争の頃の逸話だと思っていたのですが、満州事変よりも後の話だったのでした)。

陸軍も問題視するほどの「相剋」

あの松岡洋右が唱えたとされる「満州は日本の生命線」というスローガンを信じて、多くの日本人が内地から朝鮮半島を経由して満蒙の開拓に向かいました。北海道からの「青少年義勇軍」は、まず水戸に向かい、1 ヶ月半ほどの訓練の後、4 日かけて満州に移動したようです。
ただ、「満州」での「開拓」は地元民から農地を奪う形で為されたケースも多かったとされ、地元民との軋轢は日に日に大きくなっていたようです。陸軍が「移民」の地元民に対する行動を問題視したという文書が残されていました。シュレッダーで破棄されなくて良かったですよね……(本当に)。

東アジア各地の「権益」

明治・大正の頃に日本が東アジア各地に有していた「権益」がまとめられていました。日本は「朝鮮」と「台湾」を支配下に置いていたほか、天津にも軍を駐屯させていました。また満州(現在の中国東北部)において「南満州鉄道」を譲り受けたことは日本の満州における権益拡大の第一歩でした。
これらとは別に、第一次世界大戦でドイツが破れたことにより「南洋諸島」の権益も転がり込むことになります。

家庭も小さな鉱山だ

東アジアとミクロネシアに権益を拡大したものの利益を吸い上げるまでには至らず、また大陸では中国との小競り合いが絶えない中、国際社会から孤立した日本はついにアメリカと戦争を始めてしまいます。国民の生活が疲弊するにはそれほどの時間を要しませんでした。
金属の供出を促す「家庭も小さな鉱山だ」というポスターが展示されていました。そういやつい最近も似たような話を聞いたような覚えが薄っすらと……。
回収する当ての無いまま戦費は拡大の一途を辿り、国債が濫発されます。

北海道と空襲

山本五十六が「半年は暴れてみせる」と口にしてから一年半が経過した頃には、戦局は防戦一方となり、やがて北海道も米軍の空襲に晒されることとなります。
日本軍は守備隊の「玉砕」が多発し、戦死者の数も右肩上がりとなります。「名誉の戦死」を遂げた兵士の遺族には「遺族の家」と記された表札が用意されたとのこと。果たしてこの表札、いつ頃まで用意されていたのでしょう……?
「現在の新札幌駅あたりにあった厚別弾薬庫」と題されたパネルが展示されていました。弾薬庫のど真ん中を千歳線が走っていたようにも見えてしまいますが、当時の千歳線は月寒経由だったんですよね。

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