2019年12月5日木曜日

夏の焼尻・天売・道北の旅 2015 (150)「探訪・北海道博物館(巨大土偶編)」

「北海道博物館」の総合展示室の話題を続けます。木古内町・札苅遺跡の往時の姿を復元したジオラマが展示してあったのですが……
ご覧の通り、かなり精巧なジオラマです。
そして、集落のあたりをよーく見てみると……
うわっ! 巨大な土偶がっ!

ぜんぶガラスのせいだ

このジオラマは、実は木古内町札苅ではなく牛久のものじゃないか……などとほんの一瞬勘違いしたものの、答えはもちろんこちらです。
ちょうどいい具合に、ガラスに土偶の姿が写り込んでしまった……ということですね。
土偶と言えば「遮光器土偶」が有名ですが、あのような高度な造形にたどり着くまでには、縄文前期から晩期までの長い期間が必要だったのですね。

謎の岩面刻画

それでは続いて「北海道独自の文化へ」と題された展示を見てみましょう。
まず目に入ってきたのは「謎の岩面刻画」と題されたパネルです。道内では小樽の「手宮洞窟」と余市の「フゴッペ洞窟」が有名ですが、ほかにも色々とあったのですね……。
そして、この「岩面刻画」は北海道に限ったものではなく世界各地で見られるもので、日本海の向こうのユーラシア大陸でも朝鮮半島やロシア、中国北部などにも多く存在するとのこと。ただ、手宮洞窟やフゴッペ洞窟の岩面刻画との関連性については不明なのだとか。
世界各地の「神話」にはシンクロニシティ的な類似性がある……なんて説もありますが、世界各地の「岩面刻画」にも通底的な概念が実は存在するのかも知れません……知らんけど(ぉぃ)。

オホーツク文化

気を取り直して、次の展示を覗いてみましょう。パネルやジオラマだけではなく、かなり大きな船なんかも展示してあったりします。
「北海道独自の文化」で忘れてはならないものが「オホーツク文化」でしょうか。オホーツク文化の担い手は樺太からやってきたと考えられていますが、その成立から消滅までの歴史には多くの謎があった……と記憶しています。
オホーツク文化の遺跡から発掘された土器と、遺跡の分布図が展示されていました。
遺跡の分布は、見事なまでにオホーツク海側に偏っています(利尻と礼文にも多いですが)。
そして、よーく見ると何故か奥尻にも……(青苗のあたり?)

擦文文化

「オホーツク文化」が樺太から移入してきたのが 5 世紀ごろとされていますが、そこから 2 世紀ほど経った 7 世紀ごろからは、本州との関係が色濃い「擦文文化」が広がりを見せることになります。
擦文文化についても、出土品と遺跡の分布図の展示がありました。
擦文文化の遺跡の分布は、オホーツク文化のような偏りは無く、満遍なく道内全域に分布している……と思ったのですが、改めて見てみると、オホーツク海沿いの北側に遺跡が多く分布しているようにも見えます。あと、現在だと JR 千歳線沿線にあたるエリアにも密集地があるようですね。
オホーツク文化は最終的には擦文文化と融合する形で緩やかに消滅した……と記憶しているのですが、そのあたりの話はまた明日にでも。この辺の歴史についてはめちゃくちゃ素人なので、とんでもない間違いをしていたらこっそり教えて下さい(汗)。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


0 件のコメント:

コメントを投稿