牛に乗る
「沼」集落(現在の岩船郡関川村)で一夜を過ごしたイザベラ一行は、夜が明けて出発することとなりました。集落の住民はこれまで外国人を見たことが無いと宿屋の女主人から聞いたイザベラは、出発にあたってちょっとした行動に出てみました。それで、雨はまだひどく降っていたが、朝早く村人たちが集まってきた。彼らは私がしゃべるのを聞きたがっていた。そこで私は人々のいる眼の前で伊藤に指示を与えた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.205 より引用)
イザベラにしてみれば「ちょっとしたサービス精神」に過ぎないのでしょうが、実際にこの光景を目にした「沼集落」の人々には、伊藤少年に指示を与えるイザベラの姿はどのように見えたのでしょう。もしかしたら、厚木飛行場に降り立ったダグラス・マッカーサーと大差ない印象だったりして……。沼集落を出発したイザベラは、これまでの道のりを振り返ります(イザベラが旅したルートを確かめる上で、こういった回想は実にありがたいものです)。
昨日はとても疲れる日であった。二井、鷹ノ巣、榎という大きな峠を、蹟きながら登り、辷りながら下りることで、大半の時間が過ぎた。これらの峠はすべて森林におおわれた山々の中にあった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.205-206 より引用)
「榎」は沼集落の西にある峠で、現在も獣道が存在するようです。「鷹ノ巣」は JR 米坂線の「鷹ノ巣山トンネル」の上を通る峠で、こちらは現在も車道が存在するように見えます(幅員は狭そうですが)。問題はその前の「二井」で、該当する峠の存在を確認できませんでした。更に言えば「黒川」(現在の胎内市)から「川口」(関川村)までのルートも若干明らかではありません。常識的に考えれば「坂町」(村上市)から荒川の南岸を通って「川口」に出たのだと思いますが、胎内川沿いを遡ってから峠を越えて、大石川沿いに出た可能性も完全には否定できない気がしています。人馬向けのルートを通った筈なので、勾配よりも遠回りを忌避していたように見受けられるのです(ただ胎内川沿いのルートが短距離かと言われると、決してそうでも無かったりしますが)。
馬の沓は数分毎に結んでも、また解けてしまい、一時間にちょうど一マイルしか進めなかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.206 より引用)
さすがに時速約 1.6 km というのはキツいですね……。ついに私たちは玉川というまことに頼りないところに着いた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.206 より引用)
「まことに頼りないところ」というのも、これまた……。原文が気になったのですが、At last we were deposited in a most unpromising place in the hamlet of Tamagawa,
(Isabella L. Bird, "Unbeaten Tracks in Japan" より引用)
なるほど、a most unpromising place だったのですね。それはそうと、この「玉川」集落ですが、驚いたことに「荒川」の南支流である「玉川」を随分と遡ったところにあります。てっきりイザベラ一行は「荒川」沿いを東に向かうものだとばかり思っていたのですが、実際には川から随分と南にある「大里峠」を越えていたのですね。現在は獣道しかありませんが、「沼」(関川村)と「玉川」(小国町)の間を最短距離で結んでいて、また比較的緩やかな峠でもあります(比較的、ですけどね)。イザベラ一行は、「玉川」という「まことに頼りないところ」で、またしても「おいおいマジかよ」と口走りたくなりそうなトラブルに見舞われます。
米商人が三日間ここに滞在して、この地方の馬を全部手に入れてしまったのだという。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.206 より引用)
なんと「予期せぬ先客」があり、イザベラが借りるつもりだった駄馬が全て押さえられてしまったとのこと。ちなみに「米商人」はアメリカの商人ではないので念のため。ただ、イザベラとしても旅の途中で立ち往生するわけにもいきません。必死に食い下がった結果……二時間も掛け合った末に、荷物運搬の人夫を一人雇った。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.206 より引用)
「駄馬がいないなら人夫を雇えばいいじゃない」という、いかにも日本的な形で決着がついたようです。もっとも人夫に駄馬の代わりが全てつとまる筈もなく……私のため荷鞍をつけた乗用馬として、一頭のまるまると肥ったかわいらしい牝牛が提供された。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.206 より引用)
イザベラは「馬上の人」から「牛上の人」に華麗なるクラスチェンジを遂げたのでした。これまた「おいおいマジかよ」と口走りたくなりそうな展開ですが、この牛が私を乗せて、すばらしい大里峠(朴ノ木峠)を無事に越え、小国の町へ下りて行った。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.206 より引用)
意外なことにさしたる問題も無く、イザベラは無事に小国の街(山形県西置賜郡小国町)にたどり着くことができたようです。イザベラはすっかり牛に揺られることに魅了されたのか、小国でもう一頭牛を追加(?)することにしたようです。
この町は水田にかこまれたところで、私は降りしきる雨の中で、荷物を運ぶもう一頭の牛が手に入るまで数人の人夫たちと焚火にあたりながら雨宿りできたのは嬉しかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.206 より引用)
イザベラと人夫の「距離感」(あるいは「上下関係」)も興味深いポイントの一つでしょうか。人夫からするとイザベラは「お客様」であり、またこれまで殆ど目にしたことのない「異人さん」である上に言葉も通じません。ただ、イザベラはつとめて「友好的」に振る舞おうとしていた(少なくとも、そうありたいと考えていた)ことは読み取れそうな気もします。イザベラ一行は牛に引かれて南東に向かい、JR 米坂線の「羽前松岡駅」にほど近い「黒沢」というところにやってきました。
私たちはなおも水田の間を通り続け、山の中にふたたび入り、黒沢に出た。私はそこに泊まろうと思っていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.206 より引用)
JR 米坂線の小国駅と羽前松岡駅の間は 3.6 km しかありません。イザベラは(より開けているであろう)小国に泊まっておけば良かったのに……と思ったのですが、「大里峠」を越えるのに想定よりも時間を要したのを取り返そう……という気持ちがあったのかもしれません。ここで気づいたのですが、この辺の考え方ってテレ東の「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」に通じるものがありますよね。しかし宿屋はなく、しかも旅人を泊める農家は、不健康な池の端にあり、暗くて煙が立ちこめて苦しく、ひどく汚い上に、蚊や虫がいっぱいだったので、私はぐったり疲れきってはいたが、なおも旅を続けざるをえなかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.206 より引用)
「しかし周辺に(蛭子さんが大好きな)『東横イン』があるわけも無く、辛うじて見つかった民宿も酷く汚かったため、次のバス停まで歩かざるを得なかった」と言った感じでしょうか。しかし暗さは増してきて、しかも駅舎はなかった。ここで初めて人々は少しばかり金銭を強要したので、伊藤はほとんど途方にくれるところであった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.206 より引用)
リーダー・イザベラの焦りからか先を急ぐという選択をしてしまい、その反動が敏腕コーディネーターたる伊藤少年の双肩に重くのしかかります。農民たちは暗くなってから外に出ることを好まない。幽霊や、あらゆる種類の魔物をこわがるのである。だから、夕方おそくなって彼らを出発させようとするのは、困難なことであった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.206-207 より引用)
「幽霊を怖がる純朴な農民」像が描かれていますが、当時の夜は灯火に溢れた現在とは異なり、本当に「漆黒の闇」だったでしょうから、土地の農民が夜間に出歩かないのは理解できます。行灯のようなものを持ちわせてはいたでしょうが、驟雨や突風でも炎が絶えないとは保証できないでしょうし……。「幽霊が」「魔物が」というのは方便のようなもので、合理的な判断をしていたのだと思います。www.bojan.net
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