2019年9月23日月曜日

「日本奥地紀行」を読む (92) 黒沢?(胎内市?)~沼(関川村) (1878/7/10)

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在しますが、今日は引き続き、「普及版」をベースに「第二十二信」を読み進めます。

がたがた揺られる旅

イザベラは、雨戸で完全に締め切られた部屋で一晩を過ごす羽目になりましたが、幸いなことに翌日の朝日がイザベラの許にやってきてくれました。

時折、松の木がきしむ音、神社から聞こえてくる太鼓の音で、日の出とともに起きたときはほっとした。日の出というよりも夜明けといった方がよい。ここへ来てから朝日もなければ夕日もなかったからである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.202 より引用)
「日の出というよりも夜明けといった方がよい」とありますが、今ひとつ意味というか、意図するところを掴みづらい文章ですね。ということで原文を見てみると、

the drumming from the shrine made me glad to get up at sunrise, or rather at daylight, for there has not been a sunrise since I came, or a sunset either.
(Isabella L. Bird, "Unbeaten Tracks in Japan" より引用)
ああなるほど。高梨健吉さんは daylight を「夜明け」と訳しましたが、もっと素直に「日光」あるいは「日の光」と訳してしまったほうがイザベラの皮肉(ですよね)をより解しやすくなりそうです。

その日、私たちは、人力車に乗って関を通り川口に旅をした。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.202 より引用)
JR 米坂線に「越後下関駅」(関川村)という駅がありますが、越後下関駅の東にある「下川口」集落に向かった、と考えて良さそうです。黒川(胎内市)から関川村に向かうには、坂町を経由するルートと梨ノ木峠(国道 290 号)を通るルートが考えられますが、さすがに素直に坂町近辺を経由したと考えるべき……ですよね。

それにしても、大内宿からのイザベラの足取りは不可解……とまでは言わないものの、新潟に立ち寄ることで随分と遠回りをしている印象があります。胎内から日本海沿いをまっすぐ鶴岡に向かうのか……と思いきや、今度は JR 米坂線沿いを東に向かい始めたので、一体どこへ……と思いたくなります。

イザベラは荒川沿いの道を「人力車で」移動するという、なかなか強気な選択をしたわけですが……

ときには石に突き当たり、ときには泥地の縁にはまって、外に出てくれ、と言われたこともあった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.202-203 より引用)
まぁ、そりゃそうだろうなぁ……というオチが待ち構えていたようです。

荒川の上流で、車の通れぬひどい馬道では、一度に二、三マイルも歩かせられた。この山道を二人がかりでも空の人力車を押し上げることが難しいほどであった。そこで彼らは車ごと持ち上げて、しばらくは運ぶほか仕方がなかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.203 より引用)
イザベラは「歩かせられた」と記していますが、歩くだけで済んだのは儲けものだった、と考えるべきかもしれません。車夫は(仕事道具でもある)人力車を運ぶ必要があるので、人力車が走れないような道では人力車を持ち上げて運ぶ必要があったようです。

こんなわけで、川口という村に着いて、これ以上彼らは進めないと分かったとき、実にうれしかった。しかし馬は一頭しか手に入らなかったので、雨の土砂降りの中を最後の宿駅まで歩いてゆかなければならなかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.203 より引用)
どうやら車夫は川口(関川村)で撤退することにしたようですが、これは車夫の判断というよりは、この先は車の通れる道が無い、という事実に基づくものだったんでしょうか。

越後下関駅と越後片貝駅の間は現在でもとても険しい峡谷となっていて、鉄道が「榎山トンネル」、国道が「片貝トンネル」で越えている区間には「榎峠」という峠道がありました。おそらくここを人力車で越えるのは難しい、と判断したのではないでしょうか。

山村

イザベラは、これから入ってゆく東北の脊梁山脈について、次のように記しています。

今や私たちは大きな山岳地帯の中に入っている。これは日本を縦断する一大中央山系で、九〇〇マイルもほとんど途切れなく続き、幅は四〇ないし一〇〇マイルで、はてしない山脈に分かれる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.203 より引用)
900 マイルと言われてもなかなか実感が湧きませんが、これを「1,440 km」と言われると「おお」という気持ちになりますね。日本海側と太平洋側の分水嶺を辿ると、ちょうどそれくらいの長さになるのでしょうね(青森から山口まで)。

この山々を越えるには、一〇〇〇から五〇〇〇フィートも高いところにある険しい峠を越えなければならない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.203 より引用)
国道 291 号の「清水峠」(事実上の廃道として有名)の標高が 1,448 m ですから、これをフィートに換算すると約 4,750 ft ということになります。内陸部には満足できるレベルの地図が存在しない時代だということを考えると、イザベラの地理認識は相当正確であることに毎回驚いてきましたが、今回も極めて正確な情報だったと言えそうですね。

イザベラは、今自分が進んでいる地域がこれまでになく「ひどい状況」にあることに気づき、次のように記しています。

村落のあるのは谷間で、これほど孤立している地方を見たことがない。ひどい道路のために、日本の他の地方から隔絶されているのである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.203 より引用)
江戸(東京)に向かう道路は「参勤交代」などのために良く整備されていたと思われますが、新潟から山形県(長井市あたり)に向かう需要は比較的小さなものだったでしょうから、街道が整備されていなかったと考えてもそれほど不思議はありません。ただ、米坂線が 1936 年に全通しているので、交流が皆無だったというとこも無さそうな感じでしょうか。

「日本の他の地方から隔絶されている」というイザベラの表現はややセンセーショナルなものにも感じられますが、これまでイザベラが目にした日本の寒村とはレベルが違った……ということなのでしょうね。

家屋はとても貧弱であり、男子の夏の服装はマロ(ふんどし)だけである。女子の服装は、ズボンをはき、胸をひろげたシャツを着ている。昨夜黒沢に着いてみると、その服装もズボンだけに縮小していた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.203 より引用)
どうやらイザベラが泊まったのは「黒沢」というところだったようですが、残念ながらその場所が確認できません。黒川村(現在の胎内市)に「鹽澤」(しおざわ?)という場所があり、そこと混同したのか、あるいは「黒沢」が「黒川」の勘違いだったのか……。いずれにせよ、黒川からそれほど離れたところでは無かったように思えます(坂町まで辿り着いていないのかもしれません)。

車馬の交通はほとんどない。馬もほとんど飼われていない。一、二頭か三頭がいるが、これが大きな村の家畜のすべてである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.203-204 より引用)
やはり「車馬の交通はほとんどない」のですね。需要が乏しいところでインフラを維持できるわけも無く、結果として家畜もほとんどいない、ということのようです。

米よりも黍や蕎麦に、日本のどこにもある大根を加えたのが主食となっている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.204 より引用)
あっ、これって「おしん」に出てきた「大根めし」のことでしょうか。谷間だと平地は少ないですし、日照も少なそうなので米作には困難を極めたのでしょうね。

冬の陰気さ

イザベラが「日本の他の地方から隔絶されている」と記した荒川(新潟県)沿いの詳細が続きます。

気候は、夏は雨が多く、冬はひどく寒い。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.204 より引用)
ふーむ、特にあのあたりが多雨であるという印象は無いのですが、偏西風で流れてきた雲が山にぶつかると雨になるので、降水量は若干多めなのかもしれませんね。

これらの人々は、私たちの生活を楽にしてくれるものを少しも知らない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.204 より引用)
他所でなされた「発明」がもたらされるまでタイムラグがある、と言ったところなのでしょうね。江戸時代の農民には移住の自由は無かった筈ですが、「お伊勢参り」に代表されるように旅行の自由はあった……と思っています。

ただ、事実上の「旅行の自由」があったとして、現実的に旅行に行けたかどうかという話は全く別の次元で、日々の暮らしにすら困窮していた谷間の集落から「お伊勢参り」ができたかと言うと、実際には不可能に近かったのではないでしょうか。結果として一生を村とその周辺で過ごして、村の外で見聞を広める機会は得られなかったのでしょうね。

仕事もなく、本もなく、遊びもない。わびしく寒いところで、長い晩を震えながら過ごす。夜中になると、動物のように身体を寄せて暖をとる。彼らの生活状態は、赤貧と変わらぬ悲惨なものにちがいない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.204 より引用)
「日々の暮らしを豊かにするヒント」を得る機会すら恵まれず、結果として外界と途絶した世界で貧しい暮らしを強いられていた……というあたりでしょうか。

日本はこの後「近代化」と称して産業構造の大転換を行うことになるのですが、これが貧しい村の若者を救ったかと言うかと……なんとも言えない、と言ったところでしょうか。「行くも地獄、戻るはもっと地獄」というのが正確なところだったかもしれません。

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