(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
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マスナイ川
(記録あり、類型あり)
国道 232 号と道道 356 号「築別炭砿築別停車場線」の分岐点のすぐ近くを流れる川の名前です。独立河川で、そのまま日本海に注いでいます。永田地名解 (1891) には次のように記されていました。
Moto nai, = Mat-o-nai マト゚ ナイ 婦女多キ澤 松前ノ元名「マトマイ」婦女居ル澤ヲ參看スベシ「松前」は mat-oma-i で「婦人・そこにいる・ところ」と考えられますが、ここも同様に mat-o-nay で「婦人・いる・川」なのだ、という説のようですね。
ところが、「竹四郎廻浦日記」(1856) には「マシユナイ」という川が記録されています。また「西蝦夷日誌」(1869-1872) にも次のように記されていました。
(十四丁廿五間)ヲチウシナイ(同)、同崩下(十丁廿八間)マシウシナイ(小澗)、鷗多き義。(十二丁五十五間)過て川端に出る。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(下)」時事通信社 p.271 より引用)
なるほど、mas-us-nay で「カモメ・多くいる・川」ではないかと言うのですね。果たして「婦人」がいたのか、あるいは「カモメ」がいたのか……という話ですが……まぁ、カモメがいたと考えたほうが何かと自然な感じがします。どうしてこんな妙なことになったのか……と思ったのですが、「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) を見ると「マチユナイ」という名前の川が描かれています。mas-us-(マシュ)が「マチュ」に訛って、それを永田方正(か氏のインフォーマント)が mat-o- に誤解した、と言ったあたりでは無いでしょうか。
チライベツ川
(記録あり、類型多数)
築別川の南支流で、河口から築別川を遡った場合、最初の支流ということになります。「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「チライヲツ」という名前の川が描かれています。また「西蝦夷日誌」(1869-1872) にも「チライヲツ(右川)」と記されています。
永田地名解 (1891) にも次のように記されていました。
Chirai ot nai チライ オッ ナイ イト魚川「イト魚川」が「糸魚川」のことだったら面白いのですが、これは俗に「幻の魚」とも呼ばれる「イトウ」のことです。chiray-ot-nay で「イトウ・多くいる・川」と考えられそうです。なぜ chiray-ot が chiray-pet に化けたのかは不明ですが……。
ちなみに、知里さんの「──小辞典」には、chiray-ot-nay は「チらヨッナイ」とリエゾンするように記されていました。
ot おッ ((完)) ①(名詞についたばあい) a)……が群在(群居,群来)する。Chiray-~-nay〔チらヨッナイ〕[イト魚が・群来する・川](地名解 222, 309, 408)Chir-~-to〔チろット〕[鳥が・群来する・沼](同 309)。
(知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.82 より引用)
ただ、実際に地名を追いかけてみると、「チラヨツナイ」と読ませる地名がむしろ少なく、「チライオツ」のようが多い印象があります(駅名にもなっている「知来乙」を含めて)。永田方正も「チライオッナイ」と書いているケースが多そうなので、ちょっと気になるところです。主馬内沢川(しゅまないさわ──)
(記録あり、類型あり)
築別川には多くの支流がありますが、前述の「チライベツ川」と、最大の支流である「三毛別川」を除けば、アイヌ語の名前がそのまま残されているケースはとても少ない印象があります。そんな中、道道 612 号「築別天塩有明停車場線」の主馬内ゲートからほど近いところを流れている「主馬内沢川」は貴重な例外と言えそうです。
「主馬内沢川」という字からは、「ああ、suma(-oma)-nay で『岩(・そこにある)・川』かぁ」と早合点してしまいそう……というか、まさに早合点していたのですが、「西蝦夷日誌」(1869-1872) に次のような記述を見つけてしまいました。
上にチライヲツ(右川)、ポンチライヲツ(同)、タツコフウシナイ(左山)、テレケウシ(右川)、チクハンナイ、(幷て)クヲナイ(左川)、ニベシナイ(右川)、従此邊兩岸高く椴山に成る。ペンケチライヲツ(左川)、ヲモヲマナイ(左)、其餘小川多し。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(下)」時事通信社 p.271 より引用)
「ヲモヲマナイ」という川が記録されていますが、「ヲモヲマナイ」に「主馬内」という字を当てた……という可能性が出てきました。「東西蝦夷山川地理取調図」にも「ヲモヲマナイ」という川が描かれていますが、「サンケチクヘツ」(現在の「三毛別川」)よりも下流側の支流として描かれているため、厳密には「主馬内沢川」とは位置が異なることになります。ただ、この程度の誤りは割と良く見られるレベルでもあります。
そして「ヲモヲマナイ」をどう解釈するかですが、o-mo-oma-nay であれば「河口・静かである・そこに入る・川」と読めます。また o-mu-oma-nay で「河口・塞がる・そこに入る・川」とも読めるかもしれません。
あるいは o-mun-oma-nay で「河口・草・そこにある・川」とも読めそうな気もします。「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) で描かれた「ヲモヲマナイ」の位置が正しい可能性もあり、そうなると「主馬内沢川」は移転した川名である可能性も出てくるので、地形面での特徴に解釈を委ねることも難しくなるんですよね。
2024/02/06 追記
……などと(当時は)考えていたのですが、最近になって「北海道実測切図」(1897) に「シュマルプ子ペッ」と描かれていることに気がつきました。さすがに「ヲモヲマナイ」が「シュマルプ子ペッ」に変化したと考えるのは無理があるので、素直に suma-rupne-nay で「岩・大きい・川」と読むべきでしょうね。派手な間違いをやらかしてしまい、申し訳ありません。
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