2019年6月30日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (643) 「ペケレット沼・釜谷臼・烈々布」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

ペケレット沼

peker-toska
明るい・土手
(典拠あり、類型あり)
茨戸川(旧・石狩川)の南側に存在する周囲 700 m ほどの沼の名前です。小さな湖沼であるものの、Wikipedia にも記事が立っていました。

ペケレット湖(ペケレットこ)は、北海道札幌市北区篠路町篠路にある沼である。「ペケレット沼」(ペケレットぬま)とも呼ばれている。 湖名の由来は、アイヌ語の「ペケレ・ト」(明るい沼)。
(Wikipedia 日本語版「ペケレット湖」より引用)
今回は地理院地図の記載に従って「ペケレット沼」としましたが、一般的には「ペケレット湖」のほうが広く使われているのかもしれませんね。peker-to で「明るい・湖」と言うことでしょうか。

念のため、山田秀三さんの「北海道の地名」も見ておきましょうか。

ペケレット沼
 伏篭川川口の少し東にある半月形の小沼。行楽地になっていて,今の名からペケレ・ト(明るい・沼)と考えられがちであるが,原名は少しちがっていた。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.26 より引用)
えっ……! ええっ!!

 松浦図はヘケツテシカだが「テ」は書きちがいらしい。再航蝦夷日誌はペケレトシカ。西蝦夷地場所絵図ではサツポロフト(伏篭川口)の東側に小沼がついている形を描いてヘケリトシカである。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.26 より引用)
慌てて明治の頃の地形図を見てみると、確かに「沼カェㇱトレケペ」とあります。どことなく「ダァシェリイェス」な感じもしますが(しません)、右から読むと「ペケレトㇱェカ沼」と言うことになりますね。

永田地名解にも、確かに次のように記されていました。

Pekere toshka  ペケレ トシュカ  明堤 舊札幌川口ノ右傍ニ在ル堤ナリ草ノミ生シテ樹木ノ陰影ナシ故ニ名クト云フ
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.34 より引用)
山田さんは、永田地名解のこの記述を引用した上で、次のように続けていました。

トㇱカ(toshka)には適語が考えつかない。流れに削られたような形の川岸をいった言葉だとかいう。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.26 より引用)
ということで、てっきりこれも「失われたアイヌ語語彙」なのかと思ったのですが、何のことはない、知里さんの「──小辞典」にしっかりと記載がありました。

tos-ka  とㇱカ 低い崖; 小坂; どて。
(知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.133 より引用)
どて。……でいいじゃないですか。peker-toska で「明るい・土手」と解釈することができます。

現在では Wikipedia のみならず「明るい湖」という解釈が広く一般的に知られていますが、ただこの解釈が誤り……とも言い切れません。永田地名解にもあるように、peker-toska は「堤」の名前であって、池の名前ではありません。

元々は松浦武四郎も記録した peker-toska という地名があり、その近くにある湖だったので peker-to と呼ぶようになった……と考えた場合、「ペケレット湖」は「明るい湖」である、という解釈は正しいことになります。

「『ペケレット湖』は元々は『ペケレトシカ』という堤の名前から来てるんだよ」ということを知るのは悪くないですが、こういう知識?をドヤ顔でひけらかすと「痛い人だよ!(ビシっ)」と思われるかもしれないので、程々にしておいたほうが良さそうです(ぉぃ)。

釜谷臼(かまやうす)

kama-ya-us-i
平岩・岸・ある・ところ
(典拠あり、類型あり)
「学園都市線」の愛称で知られる JR 札沼線の「あいの里公園駅」は、1995 年までは「釜谷臼駅」という名前でした。ということでまずは、毎度おなじみ「北海道駅名の起源」を見ておきましょうか。

  釜谷臼(かまやうす)
所在地 札幌市
開 駅 昭和 33 年 7 月 1 日 (客)
起 源 アイヌ語の「カマヤ・ウシ」(平たい岩のあるところ)から出たものである。
(「北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.51 より引用)
ふむふむ、kama-ya-us-i で「平岩・岸・ある・ところ」と解釈できそうですね。知里さんの「小辞典」には kama-ya で「扁盤の岸」とあるので、事実上はワンセットと考えてもいいのかもしれません。

現在は「釜谷臼」という地名は既に失われていますが、「札幌地名考」に興味深い記載を見つけました。

昭和十二年の字名統合で篠路町拓北となったが、昭和九年の札沼線開通以来、地元の人々が待ち望んだ駅が同三十三年七月この地に設けられ、旧名による釜谷臼駅と名付けられ現在に至っている。
(札幌市教育委員会・編「札幌地名考」北海道新聞社 p.57 より引用)
へぇぇぇ。駅が開設された 1958 年の時点で、既に「釜谷臼」という地名は過去のものになっていたんですね。それを駅名として復活させたというのは胸熱な話です。

既に同名の「拓北駅」があったからそれを忌避したのか……とも思ったのですが、拓北駅の開業は 1967 年なので、「釜谷臼駅」のほうが先にできたことになります。

烈々布(れつれっぷ)

ru-e-tuye-p??1
道・そこで・切る・もの
ru-turas-pet??2
道・沿って上る・川
(??1 = 典拠あるが疑問点あり、類型未確認)(??2 = 典拠なし、類型あり)
丘珠空港の西側から北西側にかけての一帯は、かつて「烈々布」という地名でした。地名としては既に存在しませんが、「烈々布神社」や「烈々布公園」などに残っているほか、「烈々布排水川」という名前の川も健在です。

とは言え、失われた地名とも言うべきものなので、全体的に資料は少なめです。更科さんの「アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 烈々布(れっれっぷ)
北区の通称地名、昔は広い葦原であった、アイヌ語の意味不明。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.104 より引用)
いつも通りの更科節をいただきました。ありがとうございます。続いて「札幌地名考」を見てみましょうか。

烈々布(れつれっぶ)
 烈々布と言う文字は『札幌村史』によると、明治一二年(一八七〇)烈々布に農家が七戸あり、と出ているのが最初である。この農民達はおそらく土地と水の便がよい伏篭川の川沿いに入植していたものと思われる。
(札幌市教育委員会・編「札幌地名考」北海道新聞社 p.62 より引用)
はい、ここまでは良いですね。そして続きがありまして……

 烈々布とはアイヌ語に由来すると思われるが意味不明である。
(札幌市教育委員会・編「札幌地名考」北海道新聞社 p.63 より引用)
あー……。こうなっては仕方がありません。ソースはウィキペ(キリッ)ということで……

この川の始点は旧石狩街道によって伏籠川から切断されており、アイヌ語研究家の藤村久和は語源を「ル・エ・トイェ・プ (ru-e-tuye-p)、道がそこで(川を)切っているもの」と考察している。
(Wikipedia 日本語版「烈々布」より引用)
ふむふむ。ru-e-tuye-p で「道・そこで・切る・もの」と考えたのですね。「ルエトゥイェプ」が「レツレップ」になったという流れもとても自然なもので、巧みな解であるように思えます。

ただ、「道がそこで(川を)切っているもの」は、もしかしたら逆で「道をそこで切っているもの(川)」のような気もします。

さすがに「ソースはウィキペ(キリッ)」で済ませてしまうのも如何なものかと思ったので、手持ちの資料を全力で当たってみたんですが、これと言ったネタは見つからず……。もしかしたら ru-turas-pet で「道・沿って上る・川」という可能性はあったりしないかな、と思った程度です。

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2019年6月29日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (642) 「篠路・茨戸・伏籠川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
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篠路(しのろ)

sum-woro?
鍋・水に浸す
sino-or-o??1
本当に・水・多くある
sin-not-oro??2
土地・岬・のところ
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)(??1 = 典拠あるが疑問点あり、類型未確認)(??2 = 典拠なし、類型あり)
札幌市北部の地名で、同名の駅もあります。ということで今回も「北海道駅名の起源」を見てみることにします。さぁ元気よく参りましょう!

  篠 路(しのろ)
所在地 札幌市
開 駅 昭和 9 年 11 月 20 日
起 源 アイヌ語の「シノロ」からとったのであるが、その意味は不明である。
(「北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.51 より引用)
世間の厳しさを改めて実感する今日この頃ですが、皆様いかがお過ごしでしょうか。

では、気を取り直して伝統と信頼の永田地名解を見てみましょう。

Shinoro  シノロ  ?
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.34 より引用)
世の中の世知辛さに心が折れそうになる今日この頃ですが、皆様いかがお過ごしでしょうか。

二度あることは……という話もありますが、気を取り直して「札幌地名解」を見てみましょう。

『篠路村史』(昭和三〇年)によると「スウォロ」(鍋を浸しておく所)からきているという。
(札幌市教育委員会・編「札幌地名考」北海道新聞社 p.53 より引用)
おっ、久しぶりに「困った時の鍋頼み」が来ましたね! sum-woro で「鍋・水に浸す」と解釈できそうですが、果たして地名として適切であるかと言われると……若干びみょうかもしれません。実際、「札幌地名考」も次のように続けています。

しかし、多くの文献では意味不明となっていて確説がない。
(札幌市教育委員会・編「札幌地名考」北海道新聞社 p.53 より引用)
そうなんですよねぇ。

山田秀三さんは「北海道の地名」にて次のように記していました。

 篠路はもちろんアイヌ語からの名であろうが意味が全く分からない。さすがの永田地名解もただ ? 印をつけただけである。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.25 より引用)
さすがの山田さんもお手上げ気味ですが、次のような試案を出してくれていました。

全くの参考に語呂合わせをして,shino-or-o「ほんとに・水が・ある(処,川)」とも考えたが,これはただの研究案である。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.25 より引用)
sino-or-o で「本当に・水・多くある」と言う案ですが、なるほど、そう解釈することも可能なのかもしれません(ただ、あまり類型を見かけないような気もします)。

自分でも少し考えてみたのですが、「西蝦夷日誌」に「シンノシケゴトニ」という川が記録されていることに気がつきました。ここからかなり強引に想像してみたのですが、sin-noske-{kot-ne-i} が流れるところという意味で sin-noske-{kot-ne-i}-oro で「土地・真ん中・{琴似川}・のところ」という地名?があり、それが略しに略されて sin-oro になった、という可能性は考えられないでしょうか?

sirn の前に来ると sin に音韻変化します。ここで言う sinsir のことだとご理解下さい。

もう一つの案として、篠路川の流域(河口部?)に sin-not-oro で「土地・岬・のところ」と呼べそうな地形があり、「シンノッオロ」がやがて「シノロ」になったのではないか、という可能性も考えてみました。

どちらかと言えば sin-not-oro のほうが可能性がありそうかなーと思っているのですが、傍証が皆無なのがちと厳しいところです。あと「なんで『シノトロ』にならなかったの?」と聞かれるとちょっと唸ってしまいそうですね(アイヌ語ではリエゾンが発生しないケースも見かけるような気がするのですが)。

茨戸(ばらと)

{hacham}-para-to
{発寒(川)}・広い・沼
(典拠あり、類型あり)
札幌市北部の地名で、同名の川も流れています。創成川に沿って国道 231 号を北上するとやがて「茨戸大橋」で川を渡りますが、茨戸川の南側が「東茨戸」で、東茨戸の南西側が「西茨戸」です。

山田秀三さんの「北海道の地名」には、次のように記されていました。

 茨戸川が発寒川下流の別称であった。茨戸の地名はそれから出たようである。永田地名解は「ハチャム・パラトー。桜鳥川(発寒川)の広沼。パラトーは川口を云ふことあれども,此のパラトーは川流広がりて沼の如し。故に名く」と書いた。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.27 より引用)
ふむふむ。確かに明治の頃の地形図を見ると、現在の「発寒川」のところに「茨戸川」と記されています。現在「茨戸川」として地図にあるのは石狩川の旧流のことなので、ある種の「移転川名」と言えるのかもしれません。

ということで、{hacham}-para-to で「{発寒(川)}・広い・沼」と解釈して良いかと思われます。

伏籠川(ふしこ──)

husko-{sapporo}-pet
旧・{札幌}・川
(典拠あり、類型多数)
かつて「茨戸川」と呼ばれていた現在の「発寒川」は、国道 231 号の「茨戸大橋」の東側で現在「茨戸川」と呼ばれている「旧・石狩川」と合流していますが、発寒川は旧・石狩川と合流する直前に「創成川」と「伏籠川」と合流しています。旧・石狩川には「発寒川」「創成川」「伏籠川」の三河川が一緒に合流している、と言えるかもしれません。

国道から見て伏籠川の向かい側に「東茨戸二条・東茨戸三条・東茨戸四条」の集落があり、その先に「篠路川」という川が流れています。現在の伏籠川はまっすぐ進んで発寒川と合流していますが、元々は篠路川のルートで直接旧・石狩川に注いでいたようです。

山田秀三さんの「北海道の地名」によると、現在の「篠路川」の河口のあたりが「サッポロブト」という地名だったとのこと。「札幌」という大地名の起こりは、篠路川の河口あたりの地形からだったのかもしれません。

ということで、山田さんの「北海道の地名」から少し引用しておきます。

サッポロブト(伏篭川口)
 現在の茨戸市街の少し東の処が伏篭川(篠路川)の川口で,茨戸の古老はサッポロブトの名を覚えていた。satporo-putu(札幌川・の口)の意。シノロブトともいう。永田地名解は hushko-satporo-putu(旧札幌川口)と書いた。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.26 より引用)
「伏籠川」は husko-pet で「旧・川」という意味です。永田地名解の記載からは、元は husko-{sapporo}-pet で「旧札幌川」と解釈されていたことが伺えます。ここで言う「札幌川」は現在「豊平川」と呼ばれる川のことで、江戸時代後期までは「豊平川」の下流側は「伏籠川」のルートを通っていたとされています。

つまり、洪水で豊平川のルートが変わり水量が減ったため、「旧河川」と呼ぶようになった……ということになりますね。江戸時代という「ちょうどいい時期」に流路の変更があったため、アイヌ語で「旧河川」という名前がつけられた、ということになります。

ちなみに、現在伏籠川の上流部に「伏古」という地名があります(札樽自動車道にも「伏古 IC」がありますね)。環状通沿いの「伏古公園」のあたりでは伏籠川は暗渠化されていますが、「暗渠化された旧河川」に由来する(であろう)地名が「伏古」というのはよく出来た偶然だなぁ……と思ったりします。

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2019年6月28日金曜日

夏の焼尻・天売・道北の旅 2015 (56)「名寄まで開通してません」

遠別町内の国道 232 号における、数少ない「斜めの道」を走ります。遠別町のもう一つの基線である「道道 256 号」と直交する道路であるため、国道 232 号から見ると「斜めの道」に見えてしまうんですよね。
というわけで、道道 256 号との交叉点にやってきました。左折は 30 度程度の曲がりですが、右折は 90 度曲がることになります。そう考えると上の青看板はかなりリアルな出来ということになりますね。

名寄まで開通してません

信号を右折して、道道 256 号「豊富遠別線」に入ります。道道 256 号を直進するとやがて道道 688 号「名寄遠別線」に入ることになりますが、道道 688 号「名寄遠別線」は朱鞠内湖の手前に未開通区間があります。そのため、「名寄遠別線」であっても名寄に出ることはできません。
「名寄まで開通していません」ではなく「──してません」なんですね。

名寄までは通り抜けできません

現時点では、道道 688 号「名寄遠別線」は数ある「行き止まりの道道」でしか無いのですが、朱鞠内湖に抜けるルートを現在絶賛工事中で、いずれは重要な交通路の一つになることが期待されます。そのこともあってか、既に立派な「道路情報」の電光掲示板が設置されています。
そして、電光掲示板の脇にも「名寄までは通り抜けできません」の文字が。

道道 256 号とは一旦お別れ

道道 256 号は遠別町の基線に相応しく、見事なまでに直線が続きます。
やがて道道 256 号「豊富遠別線」は 90 度左に向きを変え、遠別町清川に向かいます。
ここから先は道道 688 号「名寄遠別線」となります。厳密には、国道 232 号との交叉点からここまでは道道 256 号と道道 688 号の重複区間だったようです。

謎の蛇行

道道 256 号と分離してからも直線が続いていた道道 688 号ですが、ついに右カーブに差し掛かりました。「行き止まりの道道」ですが、道路沿いに集落があるので普通に車の往来もあります。
遠別町中央のあたりでは、二箇所ほど道路が蛇行しているところがあります。最終的には一直線に戻っているので、この二箇所だけうねっているのが妙に目立ちますね。
地図で見るとわかりやすいかもしれませんね。

(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

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2019年6月27日木曜日

夏の焼尻・天売・道北の旅 2015 (55)「右折をお忘れなく」

引き続き、国道 232 号を北上します。遠別の市街地が近づいてきました。
遠別川の手前(南側)に、道の駅「富士見」があります……が、今回もスルーの方向で。
国道の東側にある道の駅の近くは「富士見ヶ丘公園」という公園(自然公園?)のようですが、国道の西側には「遠別川河川公園」なる場所もあるようです。

橋を渡ると市街地に

遠別川にかかる「遠別橋」を渡ると、遠別の市街地です(遠別だらけ)。
橋を渡ると市街地です。普通にセイコマもあります。

稚内・天塩方面は右折です

交叉点の手前に、市街地にしてはちょっと大きめの青看板がありました。国道 232 号で稚内・天塩方面に向かうには、次の交叉点を右折しないといけないようです。
この青看板は交叉点の少し手前にあります。そのため、赤信号で停止した場合、右折を促すサインはこの小さなもの一つしか見えないことになります。
これだとうっかり直進してしまいそうな気もしますが、実際には直進したところで行き止まりになるわけでも無く、この先の交叉点で右折すれば普通に国道 232 号に戻ることができます。 
交叉点を右折した先に本屋さんがあるのですが……ミステリに強そうな本屋さんでしょうか。

直交しない二つの基線

国道 232 号は、278 m ほど東に向かい……
今度は直角ではなく、120 度ほどのカーブで左に曲がります。
遠別の市街地は碁盤の目基調ですが、「国道 232 号」と「道道 256 号」の両方が基準となっていて、両者が直交しないため、国道 232 号のこの区間だけ斜めを向いている、ということになります。
拙い文章でだらだらと記すよりも、地図で見たほうが一目瞭然でしたね。道道 256 号が斜めを向いているのは、遠別川沿いに道路を建設する場合に最適な方向だから、なのでしょうね。

(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

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2019年6月26日水曜日

夏の焼尻・天売・道北の旅 2015 (54)「幻の『第 1 旭』」

まずはお隣の遠別に向かって国道 232 号を北上します。またしても、右側に国鉄羽幌線の跡が見えてきました。
「え、どこに……?」と思われた方もいらっしゃると思いますが、この辺です。
ちょうど真ん中あたりに、トンネルの入り口が見えているかと思います。車で近づくのは困難かもしれませんが、徒歩ならなんとかなる場所でしょうか。ただ、畑に入るのは NG ですし、私道に入るのも基本的に NG だと思われるので、くれぐれもご注意を……。

上り坂、ちょいと下ってまた上り

豊岬集落のあたりは風連別川によって形成された平野が広がっていましたが、再び河岸段丘に差し掛かります。海岸部は海食崖で道路を通すスペースに乏しいので、国道は内陸側に向きを変えて段丘を駆け上がります。自転車にはタフなルートが続きますね。
段丘と段丘の間に小さな窪地があります。さっきの上り坂も結構なものでしたが、この先に見える上り坂は、自転車民に与えるショックがでかいのではないでしょうか……。

道内各地であれほど見かけるのに

初山別村北部の「共成」にやってきました。残念ながら(?)建設機械レンタルのあの会社は見当たらないようですが……。
国道の橋が改修工事中のようで、海側に仮橋がかけられていました。この川は「オタコシベツ川」という名前のようで、川の向こう側が遠別町歌越です。

幻の「第 1 旭」

このあたりのバス停には最寄りの集落の名前がつけられている場合が多いのですが、集落の名前よりもバス停の数のほうが多いため、「第 1 金浦」や「第 2 富士見」と言ったネーミングのバス停が頻繁に現れます。
そして「歌越」の北隣の集落の名前が「旭」で、「第 2 旭」という名前のバス停があります。ということは……「第 1 旭」というバス停があってもいいじゃないかと思うのが人情ですが、なぜか「第 2 旭」と「旭温泉入口」しか存在しないとのこと。
「オタコシベツ川」を渡って遠別町に入ると、苫前・羽幌・初山別であれほど見かけた「段丘と海食崖」のコンビネーションが影を潜め、海沿いに平野が続くようになりました。そのため、国道 232 号もおそろしく長く直線が続くようになります。
あと 5 km ほど先になりますが、遠別の市街地の手前に「富士見ヶ丘公園」という公園があり、そこに道の駅「富士見」があるようです。
このあたりの国道 232 号がどれだけ真っ直ぐなのかは、航空写真で見ると良くわかるかと思います。

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2019年6月25日火曜日

夏の焼尻・天売・道北の旅 2015 (53)「初山別あいす」

海上の鳥居でちょっと有名な「金比羅神社」の最寄り地・豊岬漁港を後にして、坂を登って岬の段丘に戻ります。

リゾート地?

そのまま東に向かえば国道 232 号ですが、国道には向かわずに「しょさんべつ温泉 ホテル岬の湯」方面に戻ります。
「しょさんべつ温泉 岬の湯」と「しょさんべつ天文台」の敷地はほぼ隣り合っていますが、車道は(少なくとも公道は)繋がっていません。そのため、キャンプ場とカートコースの南東側を一直線に結ぶ道路を通ることになります。
ちなみにこの道路、右側はカートコースで、左側は野球場とゴルフコースです。こうやって見てみると結構なリゾート地っぽいですよね。

しょさんべつ天文台

T 字路を右折して灯台に向かって進むと、前方に「しょさんべつ天文台」が見えてきました。四方に伸びる階段がまるで月着陸船のようで、なかなか夢のあるデザインの建物です。
駐車場にはかなり余裕があるので、大型車のスペースに停めてしまいました。
改めて天文台の建物を遠目に眺めます。もしかしたら見学もできたのかもしれませんが、他に行きたいところもあったので、この日は外観を眺めるだけで退散したのでした。

「初山別あいす」絶賛生産中

再び、カートコースと野球場の間の一本道を走ります。あじさいの花の色合いって「パステル系」というところだけ共通していて、実は赤かったり青かったりするのですが、色とりどりなのに統一感があるのでなんかズルいですよね(「ズルい」とは)。
国道の手前に「初山別学園」と「風連別学園」という施設がありました。「初山別」は村名であり、同時に初山別村初山別の中心部を流れる川の名前ですが、「風連別」は豊岬集落の中心部を流れる川の名前です。
どちらも障害者支援施設のようで、手作りのアイスクリームを道の駅に卸しているとのこと。今度近くを通りがかったときは「初山別あいす」を買い求めたいです(通販は行っていないとのこと)。

← 遠別・稚内方面 羽幌・留萌方面 →

「初山別学園」と「風連別学園」の前を通り過ぎ、国道 232 号に戻ってきました。右折すれば羽幌・留萌方面で、左折すれば遠別・稚内方面です。
ここはもちろん(?)左折して、遠別に向かいます。

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2019年6月24日月曜日

夏の焼尻・天売・道北の旅 2015 (52)「海上の鳥居でおなじみの」

初山別村は豊岬にある「金比羅岬」の駐車場にやってきました。またしても際どい駐車ぶりですが……(汗)。
ちなみに、この 2 日前には道の駅「おびら鰊番屋」でこんな停め方をしていましたし、
5 月には遠野市宮守町の道の駅でこんな停め方まで(いずれも接近していた認識なし)。危なっかしいですが、なぜかギリギリでちゃんと止まってるんですよね……。

実は徒歩圏内でした

ちなみにこの「金比羅岬」ですが、実は「ホテル岬の湯」や「しょさんべつ天文台」のあるところから階段も整備されています。つまり、わざわざ車で来る必要は無かったということなのですが……まぁ来てしまったものは仕方がありません。

金比羅神社へ

「金比羅岬」には、天文台とともに初山別のランドマークとして知られる「金比羅神社」があります。御神体(と言うのが適切かどうか不明ですが)が海食崖の中にあるため、参拝は海岸を歩いて行く必要があります。
歩道が整備されていたのも途中までで、ここから先は砂浜を歩くことになります。砂浜と言っても石の多い浜なので、意外と歩きやすかったりするんですけどね。
海上に鎮座する鳥居が見えてきました。満潮時はわかりませんが、この日は下の土台まで見えていました。道内にある神社の鳥居は金属製?の丸っこいものが多いですが、金比羅神社の鳥居はなかなか本格的なものです。
そして、陸側にも鳥居が見えます。ここに御神体がある、ということでしょうか。
海上の鳥居を正面から眺めます。こういった形の鳥居は除雪の面で若干不利だと思われるのですが、場所が場所だけに(風が強そうなので)着雪はあまり気にしなくていい、というオチなのかもしれませんね。

祠は海食崖の中に

回れ右して陸側の鳥居を眺めます。海食崖の中に祠があり、その手前に鳥居があります。海上の鳥居とは違って、若干塗装が剥がれかかっているようにも見えますね。
祠は海岸から 2 m ほど高いところにあるため、階段が設けられているのですが……やはり波に洗われることもあるからか、角が削れてしまっています。
祠は海食崖の中にありますが、洞窟と呼べるほどのものでは無いため、雨風や波しぶきがかかりそうな場所です。木製の祠は定期的に手入れが必要そうな感じですね。

初山別の海は

それでは、駐車場に戻ることにしましょう。浜に下りるための階段は、途中まで砂利混じりになっていました。この辺りまではちょくちょく波が押し寄せるということなのでしょうね。
階段の上はきれいに整備されていたのですが、先日も話題にした通り、Google Map の航空写真では流木や枝で荒れ放題になっていました。海の荒れ方によっては、ここまで波が押し寄せることもある……ということなのでしょうか。
初山別の海が荒れる事の無いよう、金比羅さんにはちょくちょくお詣りしたほうがいいのかもしれませんね。

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