2019年6月2日日曜日

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北海道のアイヌ語地名 (635) 「高島・茅柴岬」

 

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

高島(たかしま)

tukar-suma?
アザラシ・岩
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
小樽市北部、手宮の北東から北に位置する一帯の地名です。どう見ても和名っぽいのですが、「西蝦夷日誌」には次のように記されていました。

    タカシマ〔高島〕領

高島といへども本名トカリシユマにして、譯て水豹(アザラシ)の義也。
松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(下)」時事通信社 p.168 より引用)
うわっ、マジですか? 高島は tukar-suma で「アザラシ・岩」だと言うのですが……。

tanne-sirar 説

ただ、「再航蝦夷日誌」には若干違う説が記されていました。

本名はタン子シラリと云か。又タカシユマと近比皆呼なせり。其また訛てタカシマと詰て云ふ也。
(松浦武四郎・著 吉田武三・校註「三航蝦夷日誌 下巻」吉川弘文館 p.15 より引用)
「タン子シラリ」という地名は「東西蝦夷山川地理取調図」にも記載があります。tanne-sirar で「長い・岩」と解釈できますね。なお、興味深いことに「アザラシ」を意味する tannu という語彙もあります。

takar-suma 説

「竹四郎廻浦日記」には、また違った説が記されていました。

     タカシマ
本名夕カロシユマなるか。夕力口は□と云事、シユマは岩の事也。地形左右に小岬有て其内澗形をなし、中暗礁多し。
(松浦武四郎・著 高倉新一郎・解読「竹四郎廻浦日記 上」北海道出版企画センター p.434 より引用)
「タカロとは□と云事」とあり、どうやら肝心な部分が読み取れなかったようですが、田村さんの「沙流方言辞典」によれば takar は「夢見る」という意味の動詞とのこと。夢見る島……いきなりウォーターフロント開発っぽい雰囲気が漂ってきましたが……(汗)。

tukar-iso 説

永田地名解には次のように記されていました。

高島郡 原名「ト゚カリシヨ」(Tukar’isho)海豹磯ノ義或ハ云和人鷹ニ似タル岩アルニ名クト東海參譚ニ云(文化二年作)
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.6 より引用)
トッカリショ」と言えば、同名の岬が室蘭にもあり、そこも tukar-iso で「アザラシ・岩」だと考えられています。

そして、突然「鷹に似た岩がある」という話が出てきて「???」となったのですが、あ、「鷹島」と解釈する説もある、ということなのですね。

和名説

山田秀三さんの「北海道の地名」にも、次のように記されていました。

和名なのかアイヌ語から来た名なのかはっきりしない。昔から,トゥカリショ(tukar-isho 海豹・岩)説とともに,和名で高い島だという説,また鷹に似た岩説,鷹がとまる岩という説も書かれて来た。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.494 より引用)
「西蝦夷日誌」は、個人的にはそれなりに重みのあるソースだと思っているのですが、かと言って 100% 盲信して良いわけでもありませんからね。

もしかしたら

高島が tukar-suma で「アザラシ・岩」ではないか、という可能性については蓋然性が高そうに思っているのですが、もしかしたら tukari-suma だった可能性も考えられるのではないか、と考え始めています(もっともその場合は ri が落ちたことになるのが少々苦しいところですが)。

tukari-suma であれば「手前の・岩」と言うことになり、「弁天島」のあたりを指したと考えることもできます。地形の特徴から、そう読むこともできるんじゃないかなぁ……という試案です。

茅柴岬(かやしば──)

kaya-{sir-pa}?
帆・{岬}
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
高島の集落(高台にある四丁目・五丁目を除く)の北東に位置する岬の名前です。かなり峻険な地形で、道路はトンネルで岬の手前を通過しています。「茅柴」という表記は揺れがあり、「茅芝」と記すケースもあるようです(今回は地理院地図の表記に準拠しました)。また表記のみならず読みにも揺れがあるようで、「角川──」(略──)を見ると「茅芝岬」で「かやしまみさき」とあります。

「竹四郎廻浦日記」には、このあたりの地名を次のように記載しています。

又並びて
    シ リ ハ 崎
    シマムイ 〃
    ト ヨ ヒ 二八小屋多し。
    カヤシユマ 大岩
    ホロカワルシ 〃
(松浦武四郎・著 高倉新一郎・解読「竹四郎廻浦日記 上」北海道出版企画センター p.433-434 より引用)
また、「西蝦夷日誌」には次のようにありました。

シクジシ(番や、蔵也、船澗よろし)、名義は若葱の有處と云義。シユマムイ(岩灣)、土地譯名の如し。シリハ(岩岬)、廻りて(十二町一間)トヨエ(小湾)、ホロカハルシ(岩岬)、廻りて(二町四十二間)カヤノシユマ、(三町廿五間)ヤアシヨシケ(岩磯)、
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(下)」時事通信社 p.169 より引用)
「シクジシ」は今の「祝津」のことと考えられそうです。本題の「茅柴岬」に戻りますと、「カヤシユマ」あるいは「カヤノシユマ」と認識されていたと考えられそうです。「竹四郎廻浦日記」と「西蝦夷日誌」では「ホロカハルシ」の位置に異同がある点にも注意が必要でしょうか。

また、面白いことに「東西蝦夷山川地理取調図」では「トヨエ」の隣が「ヤアシヨシケ」となっていて、「カヤシユマ」あるいは「カヤノシユマ」に相当する地名の記載がありません。その代わりに「シリハ」と記載されているように見えます。

明治の頃の地形図には、「カヤシパ岬」と記されていました。ここまでの情報から考えると、kaya-sumasir-pa の合成地名である可能性を考えたくなります。kaya-suma は「帆・岩」で、帆の形をした岩を意味する、ということでしょうか。sir-pa は「大地・頭」で、具体的には「岬」を意味します。

kaya-{sir-pa} であれば「帆・{岬}」と考えられそうです。なぜ kaya がついたのかは、他にも sir-pa があったと考えるのが適切でしょうか。「竹四郎廻浦日記」や「西蝦夷日誌」の記述からは、祝津二丁目の東の崖のことも sir-pa と呼んでいたと考えられます。

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