道道を通すために左側の崖を大きく削っていますが、最初にこの崖を削ってルートを開拓したのが焼尻島に駐屯していた工兵部隊だっだ、と言うことみたいですね。
焼尻発電所
坂を下った先の海側(北側)に、ちょっと気になる建物を見かけました。幸いなことに、建物の正体に思いを巡らせる必要は無かったようです。建物の前に「北海道電力株式会社 焼尻発電所」と記された看板が建てられていました。天売では発電所を見かけた記憶が無いのですが、この距離ですから、海底にケーブルを這わせているのかもしれませんね。
建物の横には燃料タンクがありました。この手の燃料タンクとしては割と小ぶりにも見えますが、それでも相当な容量があるのでしょうね。
焼尻小中学校
続けて、今度は山手に学校が見えてきました。焼尻島には大きく 4 つの集落があって、最も人口が多そうなのがフェリーターミナルや役場支所のある「東浜」地区で、続いて島の北西部にある「西浦」地区がそれに続く感じでしょうか。灯台のある「白浜」地区は、それほど人口が多そうには見えません。ここ「豊崎」地区もそれほど人口が多そうには見えないのですが、「西浦」地区と「東浜」地区の間にある地の利を生かしてか、小中学校が設置されています。東側にあるこの建物には「焼尻小学校」と記されています。
「焼尻小学校」と記された建物の隣には体育館があります。門の左右にはそれぞれ「羽幌町立焼尻小学校」と「羽幌町立焼尻中学校」と記されています。
そして右側にも建物がありますが……
「幌」の字が取れているのはご愛嬌ですが、「焼尻中学校」と記されています。
左側の文字は意図的に消されているように見えるのですが、もしかすると元々小学校と中学校が共同で使用していた建物で、現在は中学校だけが専有しているということなのでしょうか。
現在は「焼尻中学校」の建物になっていると思しき西側(右側)の校舎ですが、建物には中学校と小学校の校章が並んでいるようでした。
「以徳報徳」
敷地(駐車場)の一角には手作り感満載の花壇がありました。もしかして、児童や生徒が世話をしているのでしょうか?そして、花壇の近くで異彩を放っていたのがこちらの台座です。おそらく何かが上に乗っていたのだと思いますが、取り外されてしまっています。
よーく見ると、台座には「以徳報徳」という、どこかで見かけたことがあるような文字が。
別アングルから見やすいように撮影し直してみました。「一木喜徳郎」という文字が見えます。一木喜徳郎は「報徳思想」の啓蒙に尽力した人物ということで、となると台座の上にあった像が「二宮金次郎」のものであった可能性が高そうに思えます。
既に台座の上の像(と思われる)が無いばかりか、台座の銘板も取り外された形跡があります。真っ先に考えられるのが戦中の金属供出ですが、果たして真相は……?
でも、もしこれが戦中の金属供出の成れの果てなのであれば、このまま像と銘板の無い台座だけがずっと残されているというのも十分価値がありそうな気もします。「総力戦」を指導した時の権力者がどれだけ愚かであったのかを、主を失った台座は静かに語ってくれていますので。
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