2019年3月21日木曜日

「日本奥地紀行」を読む (食べ物と料理に関するノート (3))

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日も引き続き、「普及版」では完全にカットされた「食べ物と料理に関するノート」を読んでゆきます。

清潔でむだのない調理法

「食べ物と料理に関するノート」という題名で、ここまでは主に「食べ物」に関するレポートとなっていましたが、ここからは「調理法」に関する話題です。

驚嘆すべきは、少量の燃料と限られた調理器具でこれほどまでに多種多様な料理ができるという点である。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.292 より引用)
イザベラは、日本の「台所」には貧弱な設備しか無いにもかかわらず、そこで作られた料理がバラエティ豊かであることに驚いたようです。厳密には、イザベラの「驚き」は、調理法そのものと言うよりは、手間暇のかかった「盛り付けの作法」に寄せられたものでした。

たとえば上は政府高官から下は車夫や荷物運搬の人夫まで四〇人の客のいる宿屋を例にとってみる。四〇人分の食事を調えるのはたいへんではないかもしれないが、この四〇人分の食事をひとりずつ別個の漆塗りの膳で供し、四枚から一二枚の皿か椀に食べ物を盛らなければならないとすれば、これはたいへんにちがいない。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.292 より引用)
個人的な話題で恐縮ですが、旅行先のホテルなどでよく見かける「バイキング形式」の食事というものがあまり好きではなかったりします。好きなものを好きなだけ食べられるので好ましく思っている方もいらっしゃるかと思いますが、自分で食材を盛り付けるのは絶対プロの業に及ぶはずもなく、見た目がなんとも乱雑な感じになってしまうんですよね。もちろん味に違いが出るわけは無いのですが、美しく整然と盛り付けられた料理と、単に皿に乗せられただけの料理では、どうしても前者のほうが「期待値」が高くなるんですよね。

わたしはこのごちそうが大の苦手であるが、しかし一介の人夫でさえ、昼食をとる際には必ずきれいで清潔なその供し方に率直に感心した声をあげるし、たったひとりでとる食事の盛り付けや給仕は融通がきいて上品で、「乱雑さ」やわびしさ、不備がなにひとつない。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.292 より引用)
イザベラが「ごちそう」が苦手というのは少し意外な感じもしましたが、わかるような気もします。昔は今以上に食事の場における「作法」も多かったでしょうし、イザベラは「外国人の女性」なので、それだけで謎のハンディキャップもあったのではないかと想像できます。

それはそうと、横浜から日光を経由して新潟まで、疲弊し尽くした日本を見てきた筈のイザベラも、食事については「乱雑さやわびしさ、不備がなにひとつない」としたのは興味深いですね。食べ物を大切にするという、食に対する漠然とした信仰のようなものがあったであろうことも関係したりするのでしょうか。

イザベラは、実際にちょくちょく「台所」を見学していたようで、「真鍮製の火箸で炭火を器用に起こす様子を眺めるのは面白い」とも記していました。

また自室にひとりいてもったいをつけるより、台所の火のそばで一時間すごすほうをよく好んだものである。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.292-293 より引用)
あー、やはり。でも、これはなんかわかるような気もしますね。自宅の設備が壊れて業者の人に直しに来てもらったときなんかも、実際にどのように作業が行われるのか見たくなったりしませんか? それと似たような感覚ではないかと思ったりします。

調理器具

調理や配膳の話題に続いて、「調理器具」についての話題に移りました。

 調理器具はそれぞれ独特の美しさがあり、また用途に適っていて、人々は器具が清潔であり古いことを誇りにしている。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.293 より引用)
「道具への拘り」というのは職人気質を感じます。これはさすがに普通の農家の話ではなく、プロの料理人の話だと思われますが、実際はどうだったのでしょう。

宿屋の台所には横浜の骨董商の俗悪で趣のないがらくたすべてをひっくるめたほどの価値があるブロンズ製、鉄製の器具が数多くあり、とくに古くて凝った細工の鉄製やブロンズ製の湯沸かしは、デザインにおいて少なくとも奈良の正倉院のそれと同じもので、さらには形の優美さと仕上げの繊細さにおいてナポリ博物館のポンペイの部屋にある料理器具を上回る。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.293 より引用)
「横浜の骨董商の俗悪で趣のないがらくた」とは、これまた随分な言われようですね(笑)。でもまぁ、それほど大きく間違ってなかったのかもしれません。そして、「俗悪で趣のないがらくた」の対極に来るものが「奈良の正倉院(の収蔵品)」であり、あるいは「ナポリ博物館のポンペイの部屋にある料理器具」と言うのですから畏れ入ります。

こういった調理器具自体も、職人の手になるものから工場で大量生産されるものに移り変わるとともに、イザベラが絶賛したような良さが徐々に失われていきましたね。もちろん大量生産の結果、入手の難易度が劇的に下がったのも事実なので、悪いことばかりでは無いのですが。

活きづくり

調理器具の話題から、再び調理法の話題に戻ります。まずは魚料理の作法について。

魚は水、醤油、それに味醂酒といういわば甘い酒で煮て、それに少量の砂糖を加える。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.293 より引用)
これは「魚の煮付け」のことですね。「醤油」や「みりん」は未知の味でしょうから、やはりイザベラとしても気になるところだったのでしょう。続いて「焼き魚」についても言及しています。

焼く場合、焼いているあいだに上から塩を振りかけるのがもっとも一般的な方法であるが、もっとぴりっとさせたい場合は魚にときおり少量の醤油と味醂酒をかける。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.293 より引用)
洋食における魚料理と言えば、ムニエルやマリネなどでしょうか。「焼き魚」という作法は洋食の世界では目新しかったりするのでしょうか。

続いて鳥料理についてです。

鳥は鶉、山鴫、雉は串に刺して焼くが、それ以外はすべてまず小さく切り、少量の塩を加えた水でゆでる。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.293 より引用)
「小さく切り」と言われて「?」となったのですが、確かに鶏肉なんかは一口大に切ってましたね。あと、ここで「鶏」が出てこないのも認識しておくべきかもしれませんね。当時の食卓には、牛肉も豚肉も鶏肉も無かった、ということになりますよね……?

一般の人々はまた水に少量の醤油と味醂酒を加えた「鳥なべ」も好物である。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.293-294 より引用)
あー。「少量の水を加えた水でゆでる」という一節を見て「ふーん」と思っていたのですが、これは「水炊き」のことだったんですかね。

続いて、日本食の大きな特徴のひとつとも言える「刺し身」についてですが、その調理法について、イザベラは次のように記しています。

生の魚を供する方法にはふた通りある。ひとつは魚肉を小さな短冊に切り、もうひとつは非常に細い糸状に切る。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.294 より引用)
これは、「マグロの刺し身」と「イカそうめん」を思い浮かべると理解が早いでしょうか。

生魚は鮮度が重要視されますが、最高の鮮度を得るために、調理する直前に捌くという手法が当時から用いられていました。

鯉はまだ生きているうちに包丁を入れることが多く、一部身をそがれてもしばらく生きている。客が半身を生で食べているあいだ、背骨についている残りの半身とまだ包丁の入っていない頭は動きまわり、哀れなこの魚に水をかけて動きを速めることも多い。この料理は美味に数えられ、「鯉の活きづくり」という。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.294 より引用)
現代だと動物愛護の観点から眉をひそめられそうな調理法ですが(もっとも肉食する時点でどう調理しても同じ、という見方もありますが)、イザベラは「哀れなこの魚」と記すに留まっています。

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