国道 500 号との合流点には若干のスペースがある……ように見えますが、ここに車を停めてしまうと国道への合流の邪魔になりますから、駐停車は厳禁です。
深倉川にかかる道路橋を渡ります。わずかに雪が残っているためタイヤ跡が見えていますが、軽自動車でもギリギリと行ったところでしょうか。ガードレールが曲がっているのは中型車が強行突破しようとしたとか、その辺でしょうか……?
橋からの眺め
橋の上から上流方面(南側)を望みます。深倉川を遡ると途中で二手に分かれますが、川の名前の由来でもある「深倉」集落は左側奥(=南東側)にあります。右側奥(=南西側)の支流は「吉木川」です。下流方面には彦山駅がある筈なのですが、小高い山が邪魔をしていて見ることができません。
あらこんなところに踏切が
歩くこと一分ほど。地理院地図に記載があるくらいなので公道だと思うのですが、地元の人以外はまず通ることのなさそうな道です。前方に民家が見えてきましたが……ふと左側を見ると……あ。踏切がありました。てっきり民家のほうに歩いた先にあるかと思ったのですが、思ったより近くて安心しました。
爆発踏切
この踏切は、ご覧の通りの「第四種踏切」(警報機も遮断機も無い踏切)で、名前を「爆発踏切」と言います。
「爆発踏切」は、二輪車以外は通行禁止のようですが……
この幅ですからね。軽自動車でも通れないでしょう。
「爆発踏切」の歴史
さて、この小さな第四種踏切に、なぜ「爆発踏切」という奇妙な名前がつけられたか……です。踏切から彦山駅方面を望むと、線路の両側に山が迫っていることに気がつきます。線路は山の間をオープンカットして通過していますが……実は、ここは建設当初はオープンカットではなくトンネル(二又隧道)でした。現在の日田彦山線の前身である「田川線」が彦山駅まで開通したのが 1942 年 8 月で、彦山駅と大行司駅(だいぎょうじ──)の間が開通し、「日田線」として全通したのが 1956 年 3 月のことです。
二又トンネルは 1945 年の時点で完成済みでしたが、南にある「釈迦岳トンネル」(4,380 m)が未完成だったため、二又トンネルは未使用のまま放置されていました。日本軍の敗色が濃厚となりつつあった 1944 年から 1945 年にかけて、陸軍は未使用だった二又トンネルを火薬庫として使用することを思いつき、532 トン(!)もの火薬が運び込まれます。
程なく日本は戦争に敗れ、占領軍は日本軍の武装解除を進めます。これにより、二又トンネルに保管されていた大量の火薬も占領軍の管理下に置かれることになりましたが、占領軍は二又トンネルに保管されていた火薬を焼却するよう指示します。
1945 年 11 月 12 日、火薬の焼却を開始してから約 2 時間後に大爆発が起こり、二又トンネルと、その上にあった山全体が吹き飛ぶ大惨事となります。この大爆発により、作業にあたった人夫、警備にあたった警察官を始め、近所の住民や小学生などあわせて 147 人もの尊い命が失われてしまいました。
「爆発踏切」という奇妙な名前の裏には、こんな悲しい出来事があったのでした。それにしても何故踏切にこんなネーミングを……と思わないでも無いのですが、事故の記憶を後世に語り継ぐという隠された目論見があったのだとしたら、大成功なのかもしれません。
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