2019年1月1日火曜日

「日本奥地紀行」を読む (89) 新潟(新潟市) (1878/7/9)

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在しますが、今日は引き続き、「普及版」では完全にカットされた「第二十一信(つづき)」を読んでゆきます。

伊藤

イザベラは、横浜から日光、そして新潟に移動し、新潟から東北地方を踏破して蝦夷地(北海道)に向ったのですが、実は新潟から函館まで船で移動する、というプランも検討していたみたいです。ただ、「船が一ヶ月近く無い」ことを理由に、陸行での移動に決めたとのこと。

蝦夷行きの汽船が一ヵ月近くないことがわかったので、このあとの夏の計画が決まりました。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.286 より引用)
通訳の伊藤少年は、これからイザベラが向かうことになるルートについての情報収集を行うなど、相変わらず有能ぶりを遺憾なく発揮していたようです。得られた情報は、噂レベルでは惨憺たるものだったにも関わらず、イザベラは「無事踏破できる」と確信したようですが、この辺は経験のなせる業だったのでしょうか。

陸路の旅はおよそ四五〇マイル[約七二〇キロ]で、とりたいルートについてなにも情報は得られませんが、伊藤が通れない道路や難所や宿泊設備のひどさについてホテルからうわさを仕入れてきてくれたものの、体力さえ落ちなければ、無事踏破できるとわたしは確信しています。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.286-287 より引用)
イザベラは、この先の難関を突破するために、荷物を 65 ポンド(約 29 kg)まで減らした、と記しています。19 世紀から 20 世紀にかけては極地探検も盛んに行われましたが、多くの場合、装備を最小限にするというのは適切なアプローチだったと言われています。イザベラも、どうやら同じ答えを見つけていたようですね。

旅行の食料

イザベラは、道中の食料を仕入れようとして、パチもんどころか偽物や粗悪品を大量に掴まされるという目に遭っています(2018/12/23 の記事)。新潟での仕入れは本当に悲惨なものだったようで、

 サゴ澱粉をいくらかと純正コンデンス・ミルクを二缶持っていきますが、買い物に出かけて得られた携帯食料はこれで全部です。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.287 より引用)
なんとなんと……。イザベラも、これはさすがに計算外だったのではないでしょうか。もっとも、多少は穴埋めもできたようで、

とはいえファイソン夫人からビスケットを一缶、パーム博士からチョコレートとキニーネをいただきました。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.287 より引用)
持つべきものは親しき友人、ということでしょうか。ちなみにここでは「パーム博士」とありますが、以前に「パーム医師」と紹介されていた人物のことです(英語だとどっちも Dr. Palm になりますからね)。

あすは内陸に入ってみるつもりです。それがうまく行けば、二、三週間後には蝦夷から手紙を書くことになるでしょう。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.287 より引用)
実際にこのあと「日本奥地紀行」を読み進めてゆくと、1878/8/12 に函館で記した記事が見つかります。ほぼ三週間後の 8/2 には碇ヶ関(青森県)での記事がありますので、実際に蝦夷地(北海道)にたどり着くには 5 週間ほどかかったことになりますね。

謹賀新年

「第二十一信(つづき)」で取り上げていなかった部分が中途半端だったもので、今日はちょっと短めの内容となりました。今年も引き続き、この連載は主に祝日を中心に続けていけたらと思っておりますので、どうぞよろしくお願いいたします。

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