2018年12月31日月曜日

冬の爆発踏切と角島大橋 2017 (2)「添田線跡」

田川郡香春町(かわらまち)の「清瀬橋」というところにやってきました。ここまでの 600 m ほどは、金辺川の左岸を国道 201 号が、そして右岸を国道 322 号が通っていました。(決してめちゃくちゃ広くない)川に沿って国道が完全に並走するというのも、意外とありそうで無いのでは……?

英彦山方面へ

国道 322 号を直進して、香春駅の西側にやってきました。県道 52 号「八女香春線」との分岐が見えてきました。この先を左折すれば英彦山方面です。
もともとは県道 52 号方面に進む一本道だったところに、後付で国道 322 号を接続した構造の交叉点ですね。左折して、英彦山方面に向かいます。
左折して 150 m ほどで、いきなり前方に日田彦山線の立体交差が見えてきました。非電化路線なので、架線や架線柱はありません。電信用の電線も無いので、本当に鉄橋しかありません。
県道 52 号を南下します。日曜日の朝 7:01 ですので、さすがに車の数は少ないですね。

平成元年に開業したので

前方に平成筑豊鉄道田川線の踏切が見えてきました。まだ爆発しないのでご安心ください(ぉ
踏切を渡った先で右折すると田川線の勾金駅(まがりかね──)です……が、ここはそのまま直進します。
左前方にファミリーマートが見えてきました。先程のセブンイレブンもそうでしたが、広い駐車場が確保されているのは嬉しいですよね。

添田線跡

コメリの大任店を過ぎたあたりで、一見何の変哲もなさそうな交叉点が見えてきました。特に案内は無いですが、左折してみましょうか。
……うわわ、なんですかこの真っ直ぐな道路は!(白々しい) 実はこの道路、かつては国鉄でもトップクラスの赤字線で、1985 年 4 月 1 日に全線が廃止された「国鉄添田線」の跡です。
大任町南部のこのあたりで、鉄建公団によって建設が進められていた「油須原線」と接続する予定でした。国鉄の赤字が拡大する中で(鉄建公団によって)建設された油須原線ですが、結局開通することなく放棄されることになります。
前方にデイリーヤマザキが見えてきました。ここの少し手前から田川郡添田町(そえだまち)です。前方の十字路は県道 34 号「行橋添田線」と交叉するものです。つまり、この交叉点はかつては踏切だったと言うことになります。
国鉄添田線の跡は、ほぼ全区間で道路に転用されています。一直線なので辛うじてそれらしさが残っていますが、今や普通に街区に取り込まれているような印象も受けます。

国内トップクラスの赤字路線

このまままっすぐ進めば、日田彦山線の添田駅です。もともと添田線は小倉から添田を結ぶ「小倉鉄道」として建設されました。香春から一直線に添田に向かうルートは彦山川を越える必要がないため建設は比較的容易でしたが、田川伊田・田川後藤寺を経由しないことから需要は伸び悩み、1960 年には香春から田川伊田・田川後藤寺を経由するルートが「日田彦山線」となり、香春から添田までの区間が切り離されて「添田線」となりました。
閑散区間だけを切り離して独立させた結果、路線としての収支は最悪なものとなり、「日本一の赤字路線」として PR 活動を展開したことで知られる国鉄美幸線や、同じく北海道にあった国鉄白糠線とトップ争いを繰り広げることになります。国内トップクラスの赤字路線のお膝元ということで、添田町と美深町は昭和 56 年に「姉妹都市」ならぬ「姉妹町」となったのだそうです。
前方に立体交差が見えてきました。この道路が線路の跡だったことを示しているかな……と思ったのですが、若干高さが足りないような気もします。国鉄添田線が廃止されてから 32 年も経っていますから(取材当時)、廃止後に建設されたか、あるいは線路跡を嵩上げでもしたんでしょうか。

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2018年12月30日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (593) 「シカリベツ川・モサンル川・サンル川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

シカリベツ川

sikari-pet
まわる・川
(典拠あり、類型あり)
下川町一の橋の西で名寄川に合流する北支流の名前です。名寄川の支流としてはサンル川に次ぐ規模で、下川パンケ川と似た規模でしょうか。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「シヤリ」という河川が描かれていました。ただこれは「シカリ」の誤字だったようで、丁巳日誌「天之穂日誌」にも次のように記されていました。

 過て
    テレケウシ
    シカリ
    チヘルベシベ
 共に左りの方小川。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.86-87 より引用)
「チヘルベシベ」は現在「アトウシュナイ川」と呼ばれている川だと考えられます。となると「テレケウシ」は名寄本線の幸成仮乗降場の近くで名寄川に注いでいる川のことでしょうか。

「シカリベツ」と言えば、十勝の鹿追町を流れている「然別川」や余市郡仁木町にある JR 函館本線の「然別駅」などを思い浮かべる方が多いと思いますが、下川の「シカリベツ川」も、かつては「然別川」と記されたり、また「然別」という集落も存在していました。

その由来もどうやら全く同じだったようで、sikari-pet で「まわる・川」だったようです。確かに名寄川との合流部から 1.5 km ほど遡ったところで、派手に S 字状のカーブを描いているので、ここから「まわる・川」と呼ばれるようになった……とかでしょうか。

モサンル川

mo-san-{ru-pes-pe}
穏やかな・沙留・{峠道}
(典拠あり、類型あり)
下川町幸成の西で名寄川に合流する北支流の名前です。シカリベツ川よりは若干規模は小さいものの、名寄川の支流の中では長いほうです。

丁巳日誌「天之穂日誌」には次のように記されていました。

 並て
    モサンルベシベ
 此処より堅雪のせつはシヨロゝえ越るによろしと。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.86 より引用)
既にご存知の方も多いと思いますが、下川町には「サンル川」という川があります(「サンルダム」を建設中の川です)。「モサンル」は「小さなサンル」あるいは「静かなサンル」と考えることができるのですが、となると「サンル川」も「サンルベシベ」が略されたもの、ということになりそうでしょうか。

「サン」の謎

ということで、「モサンルベシベ」は mo-san-{ru-pes-pe} と考えられるのですが、問題はこの san をどう解釈するかです。丁巳日誌には「シヨロゝえ越るによろし」とあり、また永田地名解にも

Mo san rupeshpe  モ サン ルペㇱュペ  沙留越ノ小路
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.418 より引用)
とありました。沙留(興部町)へのルートだと言うのですが、位置的に若干妙な感じもします。まず、モサンル川を遡って峠を越えたとしても、その先にはサンル川が流れているだけです。そしてサンル川を遡って峠を越えた場合も、イソサム川筋に出ることになりますし、その場合は雄武の市街地の南側にしか出られません。

イソサム川流域ではなく興部町の班渓(ぱんけ)川に出た場合、確かに沙留方面に向かうこともできますが、それであれば何もサンル川を遡らなくても、現在の国道 239 号沿いのルートを取ったほうが楽なのではないか……と思えてしまいます。

ただ、何らかの理由で国道 239 号沿い(かつての名寄本線沿い)ルートが使えなかった……とすると、サンル川を遡って沙留方面に向ったという可能性も出てきます。地形図を見た限りでは、興部川は深く掘れた谷である上に蛇行も多く、安全なルートを取るには何度も渡渉が必要になる(=登り降りが多くなる)ようにも感じられます。

アイヌ流のルート選択

アイヌが使った「道」のルートは、現在でも違和感なく通用するものもある一方で、現在ではとても想像もつかないようなものもありました。意外なルートが選ばれていた理由としては、(1) 勾配の軽視(多少の勾配があっても気にしない)、(2) 最短距離の重視(これが結果的に (1) につながる)、(3) 大河の回避(渡渉回数の最小化)、などがあると感じています。

面白いのは、(1) の「勾配の軽視」はトンネルの掘削で回避できることがあり、結果としてアイヌが使ったルートが現代になって蘇るケースもあるというところです(例:名母トンネルなど)。

仮にアイヌが興部川沿いのルートの使用に消極的だったとするならば、それは (3) 大河の回避(渡渉回数の最小化)という理由があったのかもしれません。

また、丁巳日誌の記述を見た感じでは、土地のアイヌは「沙流越え」のルートとして「サンル川」よりも「モサンル川」を重視していたようにも感じられます。最終的にはサンル川に出るしかないので、何も余計な峠越えが必要になる「モサンル川」を通らなくても……というのは現代人の感覚で、「サンル川」と比べて「モサンル川」のほうが水量が少なく(→ 前述 (3))、また若干距離が短かった(→ 前述 (2))ことから、ルートとして重宝されたと考えられるのです。

同様に、モサンル川の東隣を流れている「シカリベツ川」の場合は「モサンル川」と比べて川の規模が若干大きかった(→ 前述 (3))ことが「選外」の理由だったのでは……と思われます。

……このように考えてみると、「モサンル川」の元と言われる「モサンルベシベ」は mo-san-{ru-pes-pe} で、意味するところは「穏やかな・沙留・{峠道}」と捉えられそうですね。sarsan に変化するのは「r は r の前に来れば n になる」という音韻変化によるものと考えられます。

サンル川

san-{ru-pes-pe}
沙留・{峠道}
(典拠あり、類型あり)
既に「モサンル川」の項で語り尽くした感もありますが(汗)、サンル川は名寄川最大の支流で、現在「サンルダム」が完成間近です。

丁巳日誌「天之穂日誌」には次のように記されていました。

    サンルベシベ
左りの方相応の川のよし。此処より堅雪のせつ一日上りて少しの山を越るやソウヤ領ホロナイの源え下るとかや。此辺の土人等はおりおり越よしなり。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.85 より引用)
サンル川は上流部で二手に分かれていて、サンル川が東にある「毛鐘尻山」(けがねしり──)の近くから流れているのに対し、支流の「幌内越沢川」はほぼ真北にある「幌内越峠」から流れています。サンル川沿いを通っている道道 60 号「下川雄武線」も幌内越峠を経由して雄武に向っているため、松浦武四郎の地理認識は概ね間違いなかったと言えそうです。

まぁ細かいことを言えば、「幌内川」の水源は西にあるピヤシリ山の麓なので、「ホロナイの源え」というのは厳密には違うのですが。

注目すべきは、「サンル川」というネーミングにもかかわらず「ホロナイへのルート」と記されている点です。「モサンル川」の項で記したように、サンル川を遡ると雄武町のイソサム川流域に出ることができて、また興部町の班渓(ぱんけ)川流域もそれほど遠くありません。

サンル川の名前自体は「サンルベシベ」で san-{ru-pes-pe}、すなわち「沙留・{峠道}」と解釈できるのですが、実際には「沙留へ行く道」としてよりも「幌内へ行く道」として使用されることが多かった、と考えられそうですね。

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2018年12月29日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (592) 「オシュンクシュナイ沢・イサッテウシュナイ沢・アトウシナイ沢」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
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オシュンクシュナイ沢

o-sunku-us-nay?
河口に・エゾマツ・多くある・川
os-un-kus-nay?
後ろ・そこにある・通行する・川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
下川町一の橋(国鉄名寄本線に「一ノ橋駅」もありました)から名寄川を東に 1.5 km ほど遡ったところで合流している南支流の名前です。

永田地名解には次のように記載されていました。

O shunk ush-i  オ シュㇰ ウシ  蝦夷松多キ處
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.418 より引用)※「ン」も小書き

o-sunku-us-nay で「河口に・エゾマツ・多くある・川」という解釈ですね。類型も多く、特に疑問を差し挟む余地のない解釈です。

一方で、NHK 北海道編の「北海道地名誌」には次のように記されていました。

 オシュンクシュナイ沢 一ノ橋の上流で名寄川に入る左小川ある沢。アイヌ語で山の向うを通る川の意か,もしくは川口に蝦夷松の多い沢の意。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.358 より引用)
この「山の向こうを通る川」という解釈ですが、os-un-kus-nay とでも考えたのでしょうか。ふむふむ……と思いながら地形図を見てみると、オシュンクシュナイ沢を遡るとちょうどいい感じにエペウシュペ沢に出ることができるのですね。つまり、os-un-kus-nay で「後ろ・そこにある・通行する・川」という解釈はとても現実味のある解釈に思えてくるのです。

とりあえず、今日のところは両論併記とさせてください。

イサッテウシュナイ沢

sat-tes-nay?
乾いた・梁・川
sattek-us-nay??
涸れている・そうである・川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
一の橋の集落の東側で名寄川に合流する南支流の名前です。それではまずは、毎度おなじみの「北海道地名誌」を見てみましょう。

 イサッテウシュナイ沢 一ノ橋市街の東で名寄川に左から入る小川ある沢。意味不明。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.358 より引用)
ありがとうございました(お約束)。

気を取り直して「東西蝦夷山川地理取調図」を見てみたところ、「サツテシナイ」という名前の川が描かれていました。また丁巳日誌「天之穂日誌」にも「サツテシナイ」と記されています。

この「サツテシナイ」からは、幸手市内……ではなく sat-tes-nay で「乾いた・梁・川」と考えることができそうです。川自体の水量が少なく、また梁(やな)のような地形があったということでしょうか。他ならぬ「天塩」も tes から来ているとされていますね。

ただ、乾いた川に果たして tes に相当する構造を見出すことができたかどうか、個人的には若干疑問もあります。もしかしたら sattek-us-nay で「涸れている・そうである・川」あたりの可能性もあるんじゃないかな、と思っています。

「それで、『イ』は何?」と思われるかもしれませんが、調べた限りでは明治の頃の地形図には「サッテウㇱュナイ」と記されていました。ところが大正十二年測図の陸軍図では「イサッテウシュナイ沢」と読み取れます。明治から大正にかけて「イ」が混入したようですね。

なお、イサッテウシュナイ沢の西にある山の名前は「札天山」と言うようです。

アトウシナイ沢

at-us-nay??
オヒョウ(楡)・多くある・川
(?? = 典拠なし、類型あり)
一の橋の集落の西で名寄川に合流する北支流の名前です。「東西蝦夷山川地理取調図」には記載がありませんが、「アトウシナイ沢」に相当する位置に「チヘルヘシヘ」と記されているので、昔はそのように呼ばれていたのかもしれません。

「アトウシナイ沢」は、おそらく at-us-nay で「オヒョウ(楡)・多くある・川」だと考えられます。オヒョウ(楡)の樹皮から紡いだ繊維で織られる attus(厚司、アットゥシ)は、シナノキの樹皮から紡いだものよりも肌触りが良く高級品として珍重されたため、その自生地は地名としても良く残されています。

問題は「チヘルヘシヘ」のほうで、「ルヘシヘ」はおそらく ru-pes-pe で「道に沿って下るもの」なのでしょうけど、「チヘ」がどうにも良くわかりません。峠の向こう側である西興部村にもそのような地名はなさそうですし……。

もしかしたら sipe-ru-pes-pe で「秋鮭・道・それにそって下る・もの」あたりかもしれません。下川町には ru-pes-pe が多く存在したため、それぞれに特色ポイントをつけて呼んでいたのかもしれませんね。

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2018年12月28日金曜日

冬の爆発踏切と角島大橋 2017 (1)「採銅所」

阪九フェリー「いずみ」に乗って新門司港にやってきました。第 2 ターミナルから下船したのでいきなり T 字路にぶつかります。イルミネーションが綺麗ですが、これは 12 月だったからなのでしょうか。
左折して南南西に進みます。程なく前方左側に「新門司←→大阪南港」という文字が見えてきました。これは……「競合他社」こと「名門大洋フェリー」のターミナルへの入口ですね。

ハイスペックな県道 25 号

吉志新町の「新門司港入口南」交叉点から県道 25 号「門司行橋線」に入ります。この県道、めちゃくちゃハイスペックなんですが、場所によっては自動車の通行が極めて困難なほど狭隘なところもあるのだとか。
ちなみにこちら、Yahoo! カーナビを iPhone の AirPlay 機能で表示させたものです。iPhone のカーナビアプリなので GPS しか使えないのですが、そう考えるとかなり優秀なソフトですね。CarPlay ではなく AirPlay なので、残念ながらタッチパネルは使用できません。
県道 25 号は、このあたりでは片側 2 車線のとても快適な道路です。まだ周りは真っ暗ですが、もう朝の 6 時 17 分ですから、普通に路線バスも走っています。

外気温、3 ℃

南西に向って走ること 20 分ほど、いつの間にか県道ではなくなっていますが、道路の上に何やら大きな建物が見えてきました。どうやらここが北九州モノレールの終点の「企救丘駅」(きくがおか──)のようです。
赤信号で停止したので、ちょいとマルチファンクションディスプレイの写真でも。外気温は 3 ℃ まで下がっていました。
406 Coupé のマルチファンクションディスプレイは、外気温が 3 ℃ 以下になると、外気温表示が点滅するようになっています(凍結のおそれを知らせるため)。

すばら!な国道 322 号

「桜橋北」交叉点を左折して、国道 322 号に入ります。国道 322 号はこれまたすばら!な道です。「新道寺」というところを通り過ぎ、「市丸東」交叉点で再び信号が青に変わるのを待っていたのですが……
雪ですね、これはどう見ても。

「すばら!」な国道 322 号で更に南に向かいます。北九州市小倉南区と田川郡香春町の間の分水嶺を越える「金辺峠」(きべ──)に向っているのですが、少しずつ雪が激しくなってきたような……。

採銅所

トンネルを抜けて香春町採銅所(という地名です)にやってきました。外気温は 1 ℃ を示しています。まぁ海から離れましたし若干標高もある山間の土地なんで、多少気温が下がっても何ら不思議はありません。
「採銅所」と言えば、国道 322 号と並走する JR 日田彦山線に同名の駅があることで有名です。午前 6 時 51 分の写真ですが、ようやく空が明るくなり始めたでしょうか。
約 3 分後、採銅所を過ぎて更に南に向っていた頃の写真です。雲が立ち込めているせいで分かりづらかったのですが、更に空が明るくなってきました。
さすがにこの気温なので、僅かとは言え雪も残っているようです。九州でもこのあたりは言わば「日本海側」のようなものなので、それなりに雪も降るんですよね。

田川郡香春町

JR 日田彦山線の下をくぐります。国道 322 号は金辺川沿いの最短ルートで香春に向かいますが、日田彦山線は香春から採銅所への上り勾配を緩やかにする必要があったからか、東側をぐるっと回って距離を稼いでいる(=勾配を緩やかにできる)ようです。
新門司港でフェリーから下船してから 1 時間ほどで、香春町に到着しました。
やはり、朝 6 時に行動を開始するというのは、相当時間的にメリットがありますね。阪九フェリーの船内で「ゆったりステイ」もいいですが、1 時間半あれば余裕で福岡市内まで辿り着けそうな気もします。

結論を一言でまとめると「フェリーはいいぞ」でしょうか。

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2018年12月27日木曜日

阪九フェリー「いずみ」ロイヤルルーム乗船記(新門司上陸編)

明石海峡大橋、瀬戸大橋……と来たら、次はもちろん「来島海峡大橋」ですよね。ということで……あれっ?
あれれれれっ?(汗)
阪九フェリー「いずみ」は 06:00 に新門司に到着予定とのこと。「定刻通り」という文字が心なしか誇らしげに見えます。そしてこれはどう見ても新門司に入港する直前、北九州空港の北側を航行しているように見えます。いや、そのですね……(寝ちゃってたのね)。瀬戸大橋の通過をしっかり見届けたのに満足して、そのまま本格的に寝入ってしまったようでした。

同業他社です

目が覚めたのが 5 時半頃で、外はまだ真っ暗でした。到着予定時刻は 6:00 ですが、5:42 には既にフェリーターミナルの横まで到着していました。うわー、めちゃくちゃ早いなーと思ったのですが、よく見たら同業他社(名門大洋フェリー)のフェリーターミナルでした(汗)。
名門大洋フェリーのフェリーターミナルを横目で眺めながら、阪九フェリーのフェリーターミナルに向かいます。すでに到着後の案内アナウンスが流れ始めていましたが、同乗下船(同乗者も車輌甲板から下船する)は NG とのこと。期間限定のものかと思ったのですが、ガイドブックに「車での下船は運転手の方のみです」と明記してあったので、阪九フェリーは同乗下船 NG、というポリシーのようです。

新門司港 阪九フェリー第 2 ターミナル

名門大洋フェリーではなく、今度こそ阪九フェリーのターミナルが見えてきました。徒歩での下船で使用するボーディングブリッジが正面に見えています。
そして左舷後方には車輌甲板からの下船に使用するスロープも見えます。
新門司港阪九フェリー第 2 ターミナルに到着しました。新門司港には阪九フェリーのターミナルは 2 つ存在しますが、第 1 を神戸便が、第 2 を泉大津便が使用しているとのこと。

「ゆったりステイ」

車輌甲板への呼び出しは、到着予定時刻 4 分前の 5:56 にありました。6:00 着というのは新日本海フェリー(寄港便)の秋田港着と同じ時間ですが、5 月の秋田と 12 月の北九州では日の出の時間が全然違うこともあり、今回は「夜のうちに到着しちゃったなぁ」という雰囲気でした。
阪九フェリー「いずみ」は新門司港がゴールで、このまま夕方まで新門司港に停泊します。下船と乗船に使える時間は比較的余裕があるため、「ゆったりステイ」というサービスが提供されています。これは、(泉大津航路の場合)6:00 の入港から 7:30 まで、そのまま船内に留まることができるというサービスです。

部屋でそのまま寝ていても良いですし、レストランも営業しているので朝食を取ることもできます。徒歩の場合、7:30 に下船後に最寄りの駅(新門司港の場合、JR 門司駅)まで送ってもらえたりもするのだとか。

車輌を航送しない場合は船内の案内所でも申し込めるのですが、車輌を航送する場合は乗船前にフェリーターミナルで申し込みが必要とのこと(通常の乗船待機列とは別のところで待つことになるようです)。後で下船する車輌は他車の下船の邪魔にならないところに駐車させる必要があるから、でしょうね。

ちなみに、「ゆっくりステイ」を選択した場合のみ、同乗者も車輌甲板から下船(同乗下船)が可能なのだそうです。

乗用車専用駐車スペース

残念ながら「ゆっくりステイ」を申し込むのを失念していたので、泣く泣く車輌に戻ります。
この 5 甲板の駐車場ですが、やはり「乗用車専用駐車スペース」だったようです。案内所のあるフロアから階段を下りることなく車輌に戻れるというのは、何度もしつこいですが凄く画期的な構造なんですよね。そして「ゆっくりステイ」まで申し込んでおけば、車椅子の人も楽に同乗下船が可能となります。すばらっ!
車輌に戻ったのは到着予定時刻ぴったりの午前 6 時でした。夜明けまではもう少し時間がありますが、運転席に戻ります。

九州に上陸!

下船はほどなく始まり、自車に戻って 5 分後にはエンジンを始動しました。
6:07 には「乗用車専用駐車スペース」から 4 甲板に向かうスロープを下っていました。
そのまま船外に誘導され……
6:08 に九州に上陸しました。12 月の新門司港は夜明け前で、しかも雪がちらついていました!

ご愛読ありがとうございました!

「阪九フェリー『いずみ』ロイヤルルーム乗船記」は今回が最終回です。九州に上陸してからの顛末については引き続き「冬の爆発踏切と角島大橋 2017」でお楽しみください。

「阪九フェリー『いずみ』ロイヤルルーム乗船記」、過去の記事はこちらからどうぞ。
2018/12/03(フェリーターミナルへ)
2018/12/04(乗船手続き編)
2018/12/05(ターミナル内部編)
2018/12/06(バス停編)
2018/12/07(乗船開始)
2018/12/10(まずは案内所へ)
2018/12/11(カードキー受取編)
2018/12/12(お部屋編)
2018/12/13(船内うろうろ編)
2018/12/14(パイシューの引力編)
2018/12/17(いざ夕食!編)
2018/12/18(展望ルーム編)
2018/12/19(通路うろうろ編)
2018/12/20(阪九フェリーの歴史編)
2018/12/21(ベッドルーム編)
2018/12/25(バス・トイレ編)
2018/12/26(明石海峡大橋・瀬戸大橋編)

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2018年12月26日水曜日

阪九フェリー「いずみ」ロイヤルルーム乗船記(明石海峡大橋・瀬戸大橋編)

阪九フェリー「いずみ」は泉大津と新門司の間を、瀬戸内海経由で運航されています。瀬戸内海を通るということは、今更言うまでも無いことですが、瀬戸大橋の下をくぐるということになります。
5F 案内所の前には「三大大橋通過時刻」が掲出してありました。「多少前後する場合がございます」としつつ、5 分刻みで時間を記してあるあたり、その細かさはさすが日本の公共交通機関と言ったところでしょうか。

テラスに出る方法

明石海峡大橋や瀬戸大橋は、6F 前方にある「展望ルーム」から眺めることもできます(来島海峡大橋は通過時間が遅くなるため、新門司行きでは展望ルーム利用不可)。
ただ、「ロイヤル」にはプライベートテラスが用意されているので、どうせだったら自室でのんびりと眺めるのもいいかもしれません。ということで、テラスへの出方のおさらいから。
部屋のガラスは、左側(後方側)が固定で、右側がドアと兼用です。窓(兼ドア)にはこのような大きな取っ手がついていますが……
左にくるっと 180 度回してください。これでロックが解除されます。
あとはそのまま左に引くだけです。
阪九フェリーは高速船ではありませんが、航行中の船は結構な風を受けているので、テラスに出ているだけで思った以上に体温が奪われます。防寒にはお気をつけください。

明石海峡大橋っ!

正直な話をすると、案内所の前に「三大大橋通過時刻」が出ているのを見て、「なにも今更本四連絡橋を見なくてもねぇ」などと思っていたのですが、実際に美しくライトアップされた明石海峡大橋が近づいてくるのを見ると「うひょおお」という気分になり……
気がつけばテラスに出て写真を撮りまくる始末。ライトアップされた明石海峡大橋の下を自室から眺めるという贅沢は、実はそうそう体験できるものでも無かったことにその場で気付かされたというオチでした。

そして瀬戸大橋!

明石海峡大橋を 18:31 頃に通過して(あ、予定より 4 分ほど早かったですね)、約 2 時間ほどで次のスポットの「瀬戸大橋」です。前方左側に、坂出は番の州の工業地帯が見えてきました。
瀬戸大橋は 5 つの吊橋と 1 つのトラス橋、および複数の PC 橋で構成されますが、5 つある吊橋の中でもっとも南に位置し、もっとも径間の大きい「南備讃瀬戸大橋」が見えてきました。
ちなみに、この写真、よーく見ると下に JR の列車が走っているのも見えます。
阪九フェリー「いずみ」は南から数えて 2 つ目の吊橋である「北備讃瀬戸大橋」の下を通ります。主塔が 3 つ見えるのは「瀬戸大橋」らしい眺めですね。
ちなみにこの写真を撮影したのが、「瀬戸大橋」の通過予定時刻として掲出されていた 21:40 でした。
最後の一枚はプライベートテラスならではのアングルから。
何度も見慣れている筈の瀬戸大橋ですが、いつもとちょっと違う角度から眺めるだけで、こんなに楽しめるものだったんですね……。

島と島の間を最短距離で

21 時 48 分。「いずみ」は定刻どおりに「北備讃瀬戸大橋」の下を通過して、更に西に向っていました。あれ、なんか左手に島が見えるなぁ……と思っていたのですが、なんと、丸亀市の本島と牛島の間の少し狭い部分を航行していました。
地理院地図には「南備讃瀬戸大橋」の下を通って牛島の南を航行する航路が描かれていますが、改めて地図を見てみると牛島の北を通るほうがより直線的で距離も短そうなんですよね。
船の世界では右側通行が原則なんて話もありますので、あるいは牛島の北側を通るのは西行きの船だけ、とかなんでしょうか。

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