(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
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オシュンクシュナイ沢
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
下川町一の橋(国鉄名寄本線に「一ノ橋駅」もありました)から名寄川を東に 1.5 km ほど遡ったところで合流している南支流の名前です。永田地名解には次のように記載されていました。
O shunk ush-i オ シュンㇰ ウシ 蝦夷松多キ處
o-sunku-us-nay で「河口に・エゾマツ・多くある・川」という解釈ですね。類型も多く、特に疑問を差し挟む余地のない解釈です。
一方で、NHK 北海道編の「北海道地名誌」には次のように記されていました。
オシュンクシュナイ沢 一ノ橋の上流で名寄川に入る左小川ある沢。アイヌ語で山の向うを通る川の意か,もしくは川口に蝦夷松の多い沢の意。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.358 より引用)
この「山の向こうを通る川」という解釈ですが、os-un-kus-nay とでも考えたのでしょうか。ふむふむ……と思いながら地形図を見てみると、オシュンクシュナイ沢を遡るとちょうどいい感じにエペウシュペ沢に出ることができるのですね。つまり、os-un-kus-nay で「後ろ・そこにある・通行する・川」という解釈はとても現実味のある解釈に思えてくるのです。とりあえず、今日のところは両論併記とさせてください。
イサッテウシュナイ沢
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
一の橋の集落の東側で名寄川に合流する南支流の名前です。それではまずは、毎度おなじみの「北海道地名誌」を見てみましょう。イサッテウシュナイ沢 一ノ橋市街の東で名寄川に左から入る小川ある沢。意味不明。
(NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.358 より引用)
ありがとうございました(お約束)。気を取り直して「東西蝦夷山川地理取調図」を見てみたところ、「サツテシナイ」という名前の川が描かれていました。また丁巳日誌「天之穂日誌」にも「サツテシナイ」と記されています。
この「サツテシナイ」からは、幸手市内……ではなく sat-tes-nay で「乾いた・梁・川」と考えることができそうです。川自体の水量が少なく、また梁(やな)のような地形があったということでしょうか。他ならぬ「天塩」も tes から来ているとされていますね。
ただ、乾いた川に果たして tes に相当する構造を見出すことができたかどうか、個人的には若干疑問もあります。もしかしたら sattek-us-nay で「涸れている・そうである・川」あたりの可能性もあるんじゃないかな、と思っています。
「それで、『イ』は何?」と思われるかもしれませんが、調べた限りでは明治の頃の地形図には「サッテウㇱュナイ」と記されていました。ところが大正十二年測図の陸軍図では「イサッテウシュナイ沢」と読み取れます。明治から大正にかけて「イ」が混入したようですね。
なお、イサッテウシュナイ沢の西にある山の名前は「札天山」と言うようです。
アトウシナイ沢
(?? = 典拠なし、類型あり)
一の橋の集落の西で名寄川に合流する北支流の名前です。「東西蝦夷山川地理取調図」には記載がありませんが、「アトウシナイ沢」に相当する位置に「チヘルヘシヘ」と記されているので、昔はそのように呼ばれていたのかもしれません。「アトウシナイ沢」は、おそらく at-us-nay で「オヒョウ(楡)・多くある・川」だと考えられます。オヒョウ(楡)の樹皮から紡いだ繊維で織られる attus(厚司、アットゥシ)は、シナノキの樹皮から紡いだものよりも肌触りが良く高級品として珍重されたため、その自生地は地名としても良く残されています。
問題は「チヘルヘシヘ」のほうで、「ルヘシヘ」はおそらく ru-pes-pe で「道に沿って下るもの」なのでしょうけど、「チヘ」がどうにも良くわかりません。峠の向こう側である西興部村にもそのような地名はなさそうですし……。
もしかしたら sipe-ru-pes-pe で「秋鮭・道・それにそって下る・もの」あたりかもしれません。下川町には ru-pes-pe が多く存在したため、それぞれに特色ポイントをつけて呼んでいたのかもしれませんね。
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