2018年12月20日木曜日

阪九フェリー「いずみ」ロイヤルルーム乗船記(阪九フェリーの歴史編)

食後は船内をウロウロしていましたが、いい加減「せやかて工藤……」と言われそうなので、そろそろ部屋に戻ることにしましょう。

記念撮影用の制服

部屋に戻る前に、これまで紹介できていなかった設備等をいくつかご紹介です。ロビーには、これまた各社フェリーでおなじみの、記念撮影用の制服も用意されています。

コインロッカー

続いてはこちら……どう見てもコインロッカーですよね、はい。小物専用のロッカーは別にありますが、こちらは正真正銘、ちょっとしたバッグまで入れられそうなサイズのロッカーです。

自販機コーナー・充電コーナー

こちらは自販機コーナーですが、携帯電話やスマートフォンに対応した「充電コーナー」も用意されています。パブリックスペースにも業務用のコンセントがあるので、そこから電源を借用する人をよく見かけますが、一応公式にはこういう方法も用意されているということで。

エレベーター(潮冷熱製)

では、5F から 7F に上がりましょう。階段を使っても良いのですが、せっかくなのでエレベーターで。
エレベータは、船舶内ではちょくちょく見かける「USHIO」のロゴの入ったものですが、これって「潮冷熱」という会社のものだったんですね。潮冷熱の本社は今治市にあるとのこと。タオルだけの街じゃ無かったんですね……(ぉぃ)。
ドアの左側には各階ごとの設備が例のアイコンで表示されていました。殆どが 5F に集中していることが良くわかりますね。6F には「レストラン」と「プロムナード(展望通路)」、そして「展望ルーム」と「自販機コーナー」がありました。
そして 7F には「大浴場」「展望風呂」「シャワールーム」と「展望デッキ」があります。7F の大浴場と言えば、大浴場前の通路に写真パネルが並べられていたんでした。

阪九フェリーの歴史

それでは、これから阪九フェリーの歴史が手に取るようにわかる(かもしれない)写真パネルの数々をご紹介します。

「フェリー阪九」「第六阪九」

まずは「フェリー阪九」と「第六阪九」です。「フェリー阪九」は 1968/8/10 に就航し、10 年後の 1976/1/24 で退役とのこと。日本初の「長距離フェリー」でもありました。
2 隻目のフェリーとなる「第六阪九」が就航したのが 1968/11/2 で、「第六阪九」の就航により小倉~神戸航路は隔日運航から毎日運航になりました(なぜいきなり「第六」なのかは……何故でしょう)。「第六阪九」の退役は 1976/5/16 で、その後は系列会社の「関釜フェリー」に一旦売却され、1984 年に阪九フェリーによって買い戻されています。

「フェリー阪九」「第六阪九」ともに車両積載数はトラック 80 台・乗用車 60 台で、「いずみ」がトラック 191 台・乗用車 184 台を積載できることを考えると、随分と小ぶりだったことがわかります。

「フェリーせと」「フェリーはりま」

続いて「フェリーせと」と「フェリーはりま」が登場します。「フェリーせと」の就航は 1970/9/1 で、1988/6/26 に退役するまで 18 年間を現役で過ごしたことになります。僚船の「フェリーはりま」は 1970/11/19 に就航し、一足早く 1988/3/18 に退役しています。
トラックの積載台数が 80 から 92 に増えていますが、それ以上に乗用車の積載台数が 60 から 120 に倍増しているのが目をひきますね。また(写真を見た感じでは)大変エレガントな形をしたフェリーだったようですね。

「フェリーながと」「フェリーあかし」

国内初の「長距離フェリー」というコンセプトはどうやら大成功だったようで、就航開始から 4 年後の 1972 年には、早くも 5 隻目の「フェリーながと」と 6 隻目の「フェリーあかし」が就航しています。
「フェリーながと」の就航が 1972/9/3 で、退役が 1991/1/22、「フェリーあかし」の就航が 1972/11/20 で退役が 1991/3/19 です。どちらも 18 年間しっかりと現役で過ごしたことになりますね。「フェリーせと」「フェリーはりま」と比べると、トラックの積載数が更に増えたことが特徴でしょうか。

「第十六阪九」「第十七阪九」

1975 年から 1984 年の間は「第十六阪九」と「第十七阪九」というフェリーも就航していました。サイズは「フェリー阪九」と「フェリーせと」の中間くらいという少々コンパクトな船ですが、これまでのフェリーとの決定的な違いは、「第十六阪九」と「第十七阪九」は「西日本フェリー」という別会社が建造した、という点です(元々は「つくし」と「はかた」という船名だったとのこと)。
「つくし」と「はかた」(両方とも「福岡県」ですね)は 1973 年に西日本フェリーの神戸~苅田航路に就航しましたが、「西日本フェリー」という会社自体が 1975 年に阪九フェリーに譲渡されたことにより、「第十六阪九」と「第十七阪九」というあっさりした船名に変えられてしまいました。

1973 年 4 月に開設された神戸~苅田航路自体も 1979 年 2 月には休止となり、「第十六阪九」は 1983/10/16 で退役、「第十七阪九」も 1984 年に「関釜フェリー」に売却されてしまいます。「阪九フェリー」の船舶のなかでは悲運の持ち主だったと言えそうですが、なんとこの写真のみピントが大幅にずれているという悲運まで……。

「第二十四阪九」「第三十二阪九」

第二十四阪九」と「第三十二阪九」の就航はともに 1976 年で、1978 年からは新設された泉大津~小倉航路を担当しました。「第二十四阪九」の就航は 1976/1/24 で退役が 1995/12/22、「第三十二阪九」の就航は 1976/5/16 で退役は 1996/2/21 とのこと。乗用車の積載台数を大幅に減らし、代わりにトラックの積載台数を増やしたところが特徴でしょうか。

「ニューやまと」「ニューみやこ」

1983/10/16 に就航した「ニューやまと」と 1984/1/29 に就航した「ニューみやこ」は、総トン数が 1 万トンを超え一気に巨大化したことが最大の特徴でしょうか。それまで泉大津航路を担当していた「第二十四阪九」「第三十二阪九」と比べると、トラックの積載台数が 114 台から 166 台に、乗用車の積載台数も 38 台から 75 台にと大幅に増加しています。
「ニューやまと」と「ニューみやこ」の退役はどちらも意外と早く、「ニューやまと」の退役が 1996/2/21(奇しくも「第三十二阪九」と同日ですね)で、「ニューみやこ」の退役が 1996/3/15 とのこと。阪神淡路大震災が発生したのが 1995/1/17 ですから、その影響があったということでしょうか。

「ニューみやこ」以後

……ということで、女性用大浴場の前の廊下に掲示されていたパネルをご紹介したわけですが、どうやら良く調べてみると「ニューみやこ」の後にも就航・退役した船が 6 隻ほどあるとのこと。そういや男性用大浴場の前の廊下にもパネルがありましたが、これが「ニューみやこ」以降の船のパネルだったんでしょうか……(まさかのチェック漏れ)。
いやー……、阪九フェリーの歴史の長さをちゃんと認識していなかったのが敗因ですね……。これはぜひともリベンジせねば……。

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