2018年10月31日水曜日

春の東北小旅行 2015 (107)「『あぶくま高原道路』激推し中」

「いわき」ブランドの中では唯一常磐道に存在しない「いわき三和 IC」を通り過ぎ、磐越道を北北西に進みます。パーキングエリアの案内が見えてきましたが、なんと「差塩」で「さいそ」と読むとのこと(いわき市三和町差塩)。
差塩 PA はやや高台にあります。どことなく名神高速の秦荘 PA(古い)のあたりに似た雰囲気がありますね。
ちょくちょくトンネルがあるからでしょうか、ラジオ放送の周波数が案内されていました。「ラジオ福島」が地元局なんですね。

小野町(おのまち)

差塩 PA から更に北北西に向かって進み、小野町に入りました。むむ、このカントリーサインの絵柄は……
小野町(おのまち)には小野小町生誕伝説があるそうです。あと百年もすれば「尾野真千子」も小野町生まれのゆるキャラの名前になっているに違いありません(たぶん無い)。
このあたりの磐越道は、山間部を通る割にはカーブはそれほど急ではなく走りやすい道です。ただ、その代わりにアップダウンが若干厳しく感じられるような気もします。ある程度の勾配を許容したという話であれば、九州新幹線に通じるものがありそうですね。

「あぶくま高原道路」激推し中

磐越自動車道、いわき三和 IC に続く二つ目の IC が「小野 IC」ですが、これだけ「おまけ」が満載な出口案内というのも珍しいような……(汗)。
ポイントは「あぶくま高原道路」でして、これは全国的に見ても珍しいと思うのですが、県道の「高速道路」です。いや、自分でも何を言っているのか良くわからないのですが(ぉぃ)、県道にも関わらず「高速道路ナンバリング」の対象になっています。でも「県道」だからか ETC は利用できないのだとか。

「あぶくま高原道路」は、磐越道の小野 IC と東北道の矢吹 IC の間を結んでいます。小野 IC から栃木方面に向かおうとした場合、磐越道で北西の郡山 JCT に向かうよりも、あぶくま高原道路で西南西にある矢吹 IC に向かうほうが距離が(たぶん所要時間も)短くなるのですね。福島県の思惑はさておき、栃木方面に向かうには「あぶくま高原道路」がいいよ!ということだと思われるのですが、
すぐ先にある広域情報掲示板にはこんな謎な情報が。「交通集中により渋滞」ならわかるのですが、「交通集中 50Km 規制」とは一体……? ちなみに郡山 JCT から郡山 IC までは東北道の区間で、距離はわずかに 3.8 km ほどです。

「交通が集中してるよ」という情報に「だから東北道で南に向かいたいなら「あぶくま高原道路」が超オススメだよ!」という言外の情報が感じられるのは良くない癖……でしょうか(笑)。
小野 IC の出口が近づいてきました。ここで「あぶくま高原道路」の誘惑に乗ってしまうのか、それとも「交通集中 50Km 規制」の渦中に飛び込んでしまうのか、緊迫の続編は……また来月に!(明日だよね)。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2018年10月30日火曜日

春の東北小旅行 2015 (106)「いわき JCT. をゆく」

福島県はいわき市にある「いわき JCT.」にやってきました。このまままっすぐ常磐道を南下すれば水戸に行けるのですが、2008 年に一度走っていたので、今回は新たなルートを開拓……ということで(磐越道も完走しておきたかったので)。
それにしても、いい天気になりましたね。まるで Windows XP のような天気です(喩えが古すぎる)。

美しい構造の「いわき JCT.」

いわき JCT. は「準直結 Y 型」の大変美しい形をしています。

準直結 Y 型のジャンクションは、トランペット型のジャンクションと比べてカーブ半径を大きく取れるのでドライバーとしてはありがたい(やっぱりカーブはきついより緩いに限ります)のですが、本線とランプウェイのみならずランプウェイ同士も立体交差する必要があるため、立体的に見ると構造が複雑になります。
そのため、いわき JCT. は、本線とランプウェイが三層になっています。上から「磐越道から常磐道上りに向かうランプウェイ」「常磐道本線」「常磐道上りから磐越道に向かうランプウェイ」です。いやー、あまりに無駄のない美しい構造だったもので、長々と語ってしまいました(汗)。

常磐道の本線をくぐって、軽く上り勾配のランプウェイを進みます。
常磐道下りから磐越道に入るランプウェイと、常磐道上りから磐越道に入るランプウェイが、そのまま本線になる構造です。合流で気を配る必要がないので助かりますね。
以上で、国内有数の美しい構造を誇る JCT. の話題を終わります(汗)。

「いわき市」の成立は 1966 年

磐越道最初のインターチェンジは、7 km 先の「いわき三和 IC」です。このネーミングは市町村合併を想起させますが、三和村が他の 13 市町村と合併したのは 1966 年の「いわき市」成立と同時とのこと。てっきり最近のことかと思ったのですが、そうでも無かったようです。
いわき三和 IC(いわきみわ──)の手前で好間川(よしま──)を渡ります。仙台東部道路の名取川の橋と比べると、トラディショナルなデザインの橋ですね。
只今の気温は……残念ながらお休みのようです。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2018年10月29日月曜日

春の東北小旅行 2015 (105)「謎の『塩屋崎』」

常磐道で「J-ヴィレッジ」のある広野町を南下します。しばらく線量の話題ばかりが続きましたが、この話題もそろそろ終了できそうでしょうか。
「いわき四倉 IC まで 12 km」の案内から 3 分ほど走ったところで、いわき市に入ります。カントリーサインのようなものが上についていますが……なるほど、そう来ましたか(笑)。
ちなみにこのあたりの線量は、手元の線量計では 0.17 μSv/h とのこと(2015 年時点)。1 分前の地点は 0.20 μSv/h だったので、まだ下がり続けていることになりますね。

謎の「塩屋崎」

いわき市に入ってから 5 分ほど経過したところで、前方右側に謎の看板?が見えてきました。
現地で視認できるランドマークの紹介などであればたまーに目にするのですが、現地からかなり離れたランドマーク(同じ市内ではありますが)を紹介するというのは珍しいですよね。
しかも道路の右側にあるというのは一体どういうことだ……と思ったのですが、この看板、実は下り線の「いわき四倉 IC」の出口を案内する標識の裏側を有効活用していただけでした。


ちなみにこのあたりでは、線量は 0.11 μSv/h まで下がっていました(2015 年時点)。もうここまで下がると、ほぼ自然放射線だけのような気がします。ということで、線量の記録はここで終了です。

統一されたブランディング戦略

常磐道は、いわき市内に IC が 4 つあるのですが、すべて「いわき○○」というネーミングになっています。また他ならぬ「いわき JCT.」からは磐越道が分岐していて、「いわき三和 IC」があります。これを「わかりやすい」と見るか、それとも「くどい」と見るかは……時と場合次第でしょうか(汗)。
最初の計画では常磐道の終点として定められていた「いわき中央 IC」が近づいてきました。
いわき中央 IC からは片側 2 車線に拡幅されます。これは嬉しいですね!
前述の通り、「いわき JCT.」からは磐越道が分岐しています。常磐道経由で水戸まで 98 km で、磐越道経由で郡山まで 81 km というのは、郡山、意外と遠いんですね……。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2018年10月28日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (576) 「ニタテヨコツナイ川・ユコサンナイ川・ソオラルオツナイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

ニタテヨコツナイ川

nitat-e-u-kot-nay
湿地・そこで・互いに・交わる・川
(典拠あり、類型あり)
網走市卯原内の西を流れる川の名前です。「第二ニタテヨコツナイ川」という名前の東支流もあります。「ニタテ」は nitat(湿地)で「ヨコツ」は yuk-ot(鹿が多い)か yoko-ot(いつも獲物を狙う)あたりかと思ったのですが……。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「トタンユウチナイ」という、一見別物にしか見えない名前で記載されています(もしかしたら本当に別物かもしれません)。

そして、戊午日誌「西部能登呂誌」には次のように記されていました。

扨是より岸まゝまた拾丁計も蘆荻の岸をば添て来りたるに
     ウタテウコチナイ
此処平地に一すじの川有。本名はニタチウコチナイのよし。其名義両方より来り逢てまた開くと云義、よってきわらずといへり。漏子(じょうご)形等に有が如く二すじより逢て合ずして、浜近く来りてより合て落るより号るよし也。ウコチナイとは、犬の交合せし如くつながるさまを云よし。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.131-132 より引用)
ふーむ。「ウタテウコチナイ」と言われているけれども本当は「ニタチウコチナイ」なんだよ、ということでしょうか。であれば nitat-u-kot-nay で「湿地・互いに・交わる・川」と読めそうですね。

「二すじより逢て合ずして、浜近く来りてより合て落る」というのが名前のポイントのようで、確かに「第二ニタテヨコツナイ川」の流路はとても変わっています。卯原内川と 150 m 程度の距離まで近づきながら、最終的には卯原内川ではなくニタテヨコツナイ川と合流しています。

もっとも「ウコチナイ」に「合流しそうで合流しない」という意味があるかと言われると少々微妙です。知里さんの「網走郡内アイヌ語地名解」には次のように意味が解説されていました。

ニタテウコチはニタッ・エ・ウコッ・イで,「湿地・で・交尾している者」の義。この川が湿地の中へ入って行ってそこで二股になっているのを云ったのである。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『網走郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.277 より引用)
あっ、そうか。nitat-e-u-kot と読み解くのがより適切なんですね。nitat-e-u-kot-nay であれば「湿地・そこで・互いに・交わる・川」と読み解けそうです。

ユコサンナイ川

yuk-o-san-nay
鹿・そこに・出てくる・川
(典拠あり、類型あり)
オンネナイ川(onne-nay で「長じた・川」)とソオラルオツナイ川の間を流れる小河川の名前です(地理院地図には川として記載されていません)。

「東西蝦夷山川地理取調図」には、現在の名前と同じく「ユコサンナイ」と記されています。また戊午日誌「西部能登呂誌」には次のように記されていました。

また五六丁を過て平山の間
     ユクサンナイ
此処にも小沢有。其両岸草木也。鹿常に此処え来り草を喰ふが故に号るとかや。ユクは鹿の事ヽサンは下ると云儀。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.132 より引用)
これは割と素直に読み解けそうですね。yuk-o-san-nay で「鹿・そこで・山から浜へ出る・川」と読めそうです。

知里さんの「網走郡内アイヌ語地名解」には次のようにありました。

(21) ユコサンナイ(Yuk-o-san-nai) ユク「鹿が」,オ「そこに」,サン「出てくる」,ナイ「川」。この沢は昔鹿の寄り場だった。ピラ・パ・クシ・ナイ pira-pa-kush-nai 「崖・のかみを・通っている・川」とも云う。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『網走郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.277 より引用)
なるほど。san は「山から浜へ出る」「後から前へ出る」と言ったニュアンスで捉えることが多いのですが、素直に「出てくる」と解釈できたんでしたね。yuk-o-san-nay で「鹿・そこに・出てくる・川」と考えて良さそうです。

ソオラルオツナイ川

húraruy-ot-nay?
キュウリウオ・多くいる・川
urar-ot-nay?
靄・多くある・川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
「ソーラルオツナイ川」という表記も見かけます。つい「ソーカル事件」を思い出してしまいますが、当然のことながら何の関係もありません。

ということで、もちろん「ソオラルオツナイ川」には事件性は無い……筈だったのですが、それらしき川の記録が見つかりません。やはり「ソオラルオツナイ川」も「ソーカル事件」と同様に「でたらめ」だったのでしょうか……?(汗)

古い地図を確かめてみたところ、何のことはない、そこには「イナッオルラーフ」と記されているではありませんか。今風に左から右に書き直すと「フーラルオッナイ」です。どうやら「フ」を「ソ」と間違えたうっかりさんがいたようですね。

ということで、改めて永田地名解を眺めてみると、ちゃんと記載がありました。

Hūraru ot nai  フーラル オッ ナイ  キウリ魚居る川
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.477 より引用)
「キウリ魚」ってなんじゃらほい……と思ったのですが、「キュウリウオ」という魚がいるそうですね(そのまんま)。「漁獲したばかりの鮮魚の状態では、胡瓜に似た青臭いにおいがある」そうですが、うわぁこれは苦手かも……。本題に戻ると、húraruy-ot-nay で「キュウリウオ・多くいる・川」と読み解けそうです。

ちなみに hura は「におい」という意味で(「富良野」でおなじみですね)、ruy は「甚だしい」という意味です。よっぽどニオイが印象的なんでしょうねぇ……。

なお、「東西蝦夷山川地理取調図」には「ウラルシナイ」と記されています。戊午日誌「西部能登呂誌」にも詳細が記されていました。

また少し過て凡十丁
     ウラロシナイ
本名ウララヲツナイのよし。此処平山也。此山よりいつにても、靄(もや)上る時は立始るが故に号るとかや。ウラヽは靄濛(あいもう)の義なり。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中」北海道出版企画センター p.132 より引用)
urar-us-nay あるいは urar-ot-nay で「靄・多くある・川」と考えたようですね。音が「フーラル」と伝わっていたのであれば少々弱いですが、urar-ot-nay も地名として特段おかしなところが無いだけに、何故永田地名解では無視されたのか、少々疑問が残ります。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2018年10月27日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (575) 「オンネニタツ川・越歳・卯原内」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

オンネニタツ川

onne-nitat
年老いた・湿地
(典拠あり、類型あり)
卯原内とリヤウシ湖の間を北に流れて能取湖に注ぐ、流長 3~4 km ほどの小さな川の名前です。ちらっと見た限りでは、「東西蝦夷山川地理取調図」にも「戊午日誌」にも、そして「北海道蝦夷語地名解」にも記載は無さそうに見受けられます。まぁ、小さな川ですからね……。

ただ、ありがたいことに知里さんの「網走郡内アイヌ語地名解」にはちゃんと記載がありました。

(38) オンネニタッ(Onne-nitat) 「年老いた・湿地」。古くからあるヤチの義。
(知里真志保「知里真志保著作集 3『網走郡内アイヌ語地名解』」平凡社 p.278 より引用)
はい。onne-nitat で「年老いた・湿地」と考えて良さそうです。onne には「古い」「年老いた」という意味から転じて「親である」つまり「大きい」と解釈する流儀もあるのですが、オンネニタツ川の場合はそのまま素直に「昔からの湿地」で、少しずつ湿地らしさが失われていたのかもしれませんね。

越歳(こしとし)

riya-us-i
越冬する・いつもする・ところ
(典拠あり、類型あり)
網走市嘉多山(かたやま)の西に「デンソー網走テストセンター」というテストコースがあるのですが、このテストコースのあたりの一体の地名です。テストコースの西側には同名の川も流れています。

この字を見て「ああっ、なんで先週気づかなかったんだっ」と思ったのも後の祭りでして……。そう、もうお気づきの方もいらっしゃるかと思いますが、久しぶりに「角川──」(略──)を見てみましょうか。

地名はアイヌ語りヤウシ(いつも越冬する場所)の和訳による。
(「角川日本地名大辞典」編纂委員会・編「角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)」角川書店 p.550 より引用)
はい、そういうことです。他ならぬ「リヤウシ」を意訳した、ということのようですね。riya-us-i で「越冬する・いつもする・ところ」と解釈できるのですが、「越冬」ではなく「越歳」としたのはセンスの良さを感じますね。

それにしても「リヤウシ湖」からちょっと離れていたので先週の時点では気が付きませんでした。もしかしたら嘉多山のあたりも含めた割と広い地名だったんでしょうか。

卯原内(うばらない)

u-par(a)-ray?
互いに・入り口(河口)・死んでいる
o-par(a)-ray?
そこで・入り口(河口)・死んでいる
o-para-nay??
河口・広い・川
upar-nay?
煤・川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
かつて、中湧別から網走までを「国鉄湧網線」が走っていました。湧網線は、当時数多く存在したローカル線の中でもとても風光明媚であることで知られていました。

卯原内と言えばサンゴ草の群生地があることでも有名ですね。では、今回は久しぶりに「北海道駅名の起源」を見ておきましょう。

  卯原内(うばらない)
所在地 網走市
開 駅 昭和 10 年 10 月 10 日
起 源 アイヌ語の「オ・パラ・ナイ」(川口の広い川)、すなわち付近の能取湖にそそぐ小川の口が広くなっていることから出たものである。
(「北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.206 より引用)
なるほど。o-para-nay で「河口・広い・川」と解釈したのですね。ところが、永田地名解には違った解が記されていました

Upara rai  ウパラ ライ  口無川 「」ハ互ニ、「パラ」ハ川口、「ライ」ハ死ス、此川ハ三脈アレドモ皆川口ナシ故ニ名ク
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.477 より引用)
ふむふむ。u-par(a)-ray で「互いに・入り口(河口)・死んでいる」と考えたようです。

永田方正は明治の人で、知里さんは(昭和の)戦前から戦後にかけての人です。知里さんが自著「アイヌ語入門」で永田地名解を名指しで吊し上げたことは有名ですが、山田秀三さんによると、知里さんが地名調査をする際には必ず永田地名解を持参していたとのこと。知里さんは「分かっている人が読めば名著ですよ」と語っていたのだとか。

卯原内の地名解の話に戻りますが、知里さんは「永田地名解」の記載内容を把握した上で、独自に o-para-nay という解を出したと考えられます。もしかしたら、u-par(a)-ray では文法的に少しおかしい、と考えたのかもしれません。

「東西蝦夷山川地理取調図」は、卯原内の集落のあたりに「ウハラヽイフト」と記しています。ポイントは二つあると思うのですが、一つ目は、この表記からは nay ではなく ray と認識されていたと思われること、そして二つ目は、地名としては「(卯原内の)河口」を意味する -putu が付加されていた、ということです。

前者は永田方正が nay ではなく ray としたことを補強する材料と言えます。ところが後者は u-par(a)-ray-putu であれば「互いに・入り口(河口)・死んでいる・口(河口)」ということになり、少しだけ変な感じがします(ただ決定的におかしい、とも思えませんが)。

能取湖に注ぐ川の名前を眺めていると、他にも「オムナイ」などの名前がありました。これは o-mu-nay で「河口・塞がる・川」だと考えられ、河口部が流砂で塞がれて伏流する状態であったことを示唆しています。また、大正 13 年に測図された陸軍図を眺めてみても、それほど河口が広かったとも言えず、むしろ湖岸に砂地が存在していたことを伺わせます。

山田秀三さんの「北海道の地名」によると、「北海道駅名の起源」の昭和 25 年版は、昭和 29 年版の o-para-nay 説とは違った説を唱えていたとのこと。

 駅名の起源昭和25年版(知里博士はこの版から参加)は「オ・パラ・ライ(川口の死んでいる)から転訛した。能取湖に注ぐあたりが湿地で川口が明瞭でないところから出たものであろう」と書いた。ウをオと読んだ処が差である。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.207 より引用)
うーん、実際の地形に即した良い解ですね。o-par(a)-ray で「そこで・入り口(河口)・死んでいる」と解釈できそうでしょうか。

なんかこれが一番しっくり来るなぁ……と思ったのですが、ところが更に別の説が出てきました。

 藤山ハル媼(樺太引揚げのアイヌ。ほど近い常呂町に住んだ。故人)は「ウパラ・ナイ。煤・川」と解しておられたとのことである(服部四郎博士による)。やちの中を流れる川なので,赤いやち水が流れ,黒っぽい浮遊物が流れていたのであろう。それをウパラ(upar,upara)のようだとして解されたのであろう。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.207 より引用)
ぐはぁ。確かに upar で「煤」を意味するようなので、upar-nay で「煤・川」というのは十分あり得る解釈です。もうここまで来ると好みの問題のような気もしますが(違うだろ)、個人的には o-par(a)-ray を本命に推して、そして upar-nay を大穴に賭けたいところです。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2018年10月26日金曜日

春の東北小旅行 2015 (104)「そして線量は下がった」

「帰還困難区域」を何事もなく通り過ぎ、常磐富岡 IC にやってきました。2008 年に北海道と東北を旅した時は、確かこの IC から常磐道に戻ったんでした(当時は常磐富岡 IC 以北は未開通でした)。
常磐富岡 IC を過ぎたあたりで手元の線量計の数値を確認したところ、0.40 μSv/h となっていました(2015 年時点)。日本国内における平常値……とまでは言わないものの、随分と線量が下がったなぁと思ったのですが、
富岡町の市街地にほど近いところのモニタリングポストは 2.3 μSv/h という値を示していました(2015 年時点)。そして手元の線量計の数値も 0.98 μSv/h と上昇に転じました(2015 年時点)。地形や風などの要因で放射性物質の吹き溜まりができやすい場所は飛び抜けて線量が高かったりするのですが(俗に「ホットスポット」と呼ばれたりしますね)、実際に周りと比べて線量の高い場所ってあるものなんですね。
不思議なことに、富岡町内の 2 つ目のモニタリングポストでは 0.8 μSv/h となっていました(2015 年時点)。両者の距離は 2.8 km ほどしか離れていないのですが、随分と線量が違うのですね。

楢葉町

2 つ目のモニタリングポストから更に 1 km と少し南に走ったところで楢葉町に入ります。……ボケボケの写真で本当にすいません。
楢葉町にある「ならは PA」を通過しました。手元の線量計は 0.33 μSv/h を指していましたから(2015 年時点)、今度こそ確実に下降基調のようですね。

更に南に向かい、広野 IC まであと 2 km の地点までやってきました。
広野 IC 手前のモニタリングポストでは、線量は 0.2 μSv/h となっていました。南相馬 IC の近くのモニタリングポストと同じ値まで戻ったことになりますね。
広野町(火力発電所のあるところですね)と楢葉町の最寄り IC となる広野 IC が近づいてきました。

広野町

そして IC のすぐ近くで広野町に入ったのですが……カントリーサインには何故かサッカーをする人の姿が。
IC の出口には「J-ヴィレッジ」の文字が光っていました。なるほど、名前だけは聞いたことがあったのですが、広野 IC が最寄りだったんですね。

ご注意ください

線量はすべて 2015 年 5 月時点の記録です。現在(2018 年 10 月)ではおそらく半分以下になっているものと推定されます。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2018年10月25日木曜日

春の東北小旅行 2015 (103)「帰還困難区域をゆく」

常磐道・浪江 IC の 1.5 km ほど北あたりで「帰還困難区域」に入りました。帰還困難区域に入って最初のモニタリングポストでは、線量は 1.3 μSv/h を示していました(2015 年時点)。

浪江町

モニタリングポストから 1 km 弱で浪江 IC です。浪江町と、お隣の双葉町の最寄り IC となります。
浪江 IC を通過したあたりで手元の線量計の数値を確認したところでは、0.42 μSv/h と出ていました(2015 年時点)。結構な差がありますが、手元の線量計で正確な線量を求めるためには時間が不足しているのかもしれませんし、あるいは線量計の較正が必要なのかもしれません(実際、少し時間をかけると線量の数字が少し上がることがあります)。

双葉町

浪江 IC から 4.3 km ほどで、お隣の双葉町に入ります。
線量計のスイッチは入れっぱなしにしているので、やはり若干数値が上がって 0.63 μSv/h になりました(2015 年時点)。これが実際に線量の上昇を意味しているのか、あるいは線量計がより正確な値を出してきたのかはなんとも言えませんが、誤差にしてはちょっと大きいので、やはり線量自体がじわじわと高い方向に向かっているということでしょうか。

双葉町に入って 2 km ほどのところにもモニタリングポストがありました。
あっ、ここが帰還困難区域の測定地点の中で最も高い線量を叩き出していたのですね。仙台のあたりから何度か見かけた「0.2~5.6 μSv/h」という数字(2015 年時点)は、この地点の数字だったようです。
手元の線量計も「プッ、プッ……」と音を出し続け、気がつけば線量の値が 1.83 μSv/h まで上昇していました(2015 年時点)。もっとも、モニタリングポストが出していた 5.6 μSv/h (2015 年時点)には遠く及ばない数字ではあります。一つ言えることは、モニタリングポストの数字が実際の線量よりも低く偽っている、という可能性は少なそうだ、ということです。

そして、ほどなく手元の線量計の示す数字が減少に転じ、1 分後には 0.91 μSv/h まで低下していました(2015 年時点)。やはり当初から観測されていた通り、原発の西北西にあたる双葉町のあたりがもっとも線量が高い場所だったようです。

大熊町

東西に長い双葉町を 5.3 km ほどで一気に南北縦断し、お隣の大熊町にやってきました。
大熊町に入ってすぐのところにもモニタリングポストがありました。表示されている線量はやはり減少していて、3.1 μSv/h とのこと(2015 年時点)。線量のピークを過ぎたのは間違い無さそうですね。
常磐富岡 IC の 2 km ほど手前には「ここまで帰還困難区域」という案内が立てられていました。これで帰還困難区域を無事通過し終えたことになります。10 分弱で通過したことになりますね。

ご注意ください

線量はすべて 2015 年 5 月時点の記録です。現在(2018 年 10 月)ではおそらく半分以下になっているものと推定されます。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2018年10月24日水曜日

春の東北小旅行 2015 (102)「この先帰還困難区域」

南相馬鹿島 SA から常磐道を南に向かいます。南相馬 IC が近づいてきました。
南相馬 IC を通過して、次の浪江 IC に向かいます。このあたりが開通したのは 2014 年 12 月だとのことで、道理で路面も新品感が漂っているわけです(開通から半年近く経っていましたが)。

現在地の線量表示

これまでは「南相馬~広野」の線量が「0.2~5.6 μSv/h」という案内だけが出ていましたが(2015 年当時)、ついに現在地の線量が表示されるようになりました。このモニタリングポストは原町トンネルを抜けてすぐのところにありますが、線量は 0.2 μSv/h とのこと(2015 年当時)。
次のモニタリングポストは 5.2 km ほど南にありました。この地点では線量が 0.4 μSv/h となっていました(2015 年当時)。これから「帰還困難区域」に近づきますが、やはり線量も上昇傾向のようです。

この先帰還困難区域

浪江 IC まであと 2 km ほどのところで「この先帰還困難区域」という案内を見かけました。原発事故が原因で「帰還困難区域」が設定されている……というのは知識としてはあったんですが、実際に「帰還困難区域」に入ろうとしている、となるとやはりどことなく身の引き締まる思いがするものですね……。
そして 1 km ほど進んだところに「ここから帰還困難区域」の案内がありました(2018 年 1 月に撮影された Google ストリートビューでも確認することが出来ます)。
帰還困難区域に入って初めてのモニタリングポストの値は 1.3 μSv/h でした(2015 年当時)。やはり一気に跳ね上がった感がありますね。

ご注意ください

線量はすべて 2015 年 5 月時点の記録です。現在(2018 年 10 月)ではおそらく半分以下になっているものと推定されます。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International