再生毛織物
新潟を「街ブラ」中のイザベラは、衣服を販売する店がとても細かく専門に分かれていることを記しています。章のタイトルの「再生毛織物」は、イギリス産ウール製品の「再生毛織」を販売する店があったことに因みます。なお、イザベラが British woollen goods of the most shameless "shoddy," としたものを「きわめて厚かましい『再生毛織』」と訳されていますが、"shoddy" には「粗悪な」あるいは「模倣品」というニュアンスもあるので注意が必要かもしれません。まぁ、いずれにせよ品質の面では難のあるものが売られていた、ということのようですね。
衣料店の専門性についての話ですが、具体的には次のように記しています。
三銭のものから四円あるいは五円するものまである扇子を売る店、掛け物・掛け軸・巻き物すなわち巻き絵、花の画集を売る店、屏風を売る店、羽織のひもを売る店、縮緬を売る店、白と紺の手ぬぐいを売る店はそれぞれべつにあります。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.277 より引用)
個人の移動手段が発達するに伴って、専門店はやがて大型店に集約される……というのが一般的な流れですが(最近はオンラインストアという強敵が現れましたが)、イザベラの記録は「それ以前」の街の姿を想像する上で良いヒントになりそうです。イザベラは、更に「商店の専門性」について続けています。
喫煙具しか扱わない店が多くあるのは驚きです。一五歳以上の男性ならだれでもたばこを吸い、女性の多くと男性全員がキセルとたばこ入れを帯にはさんで持ち歩くことを考えれば、当たり前のことなのですが。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.277 より引用)
女性の多くがキセルを携帯していたというのはちょっと驚きですね(もちろん農村部ではなく都市部のことだと思いますが)。歌麿の「ビードロを吹く女」を思い出してしまったのですが、あれはキセルでは無くて単なるおもちゃでしたね(すいません)。まだ続きがありまして……
さらに筆だけを売る店、墨とすずりを売る店があり、文箱(ふばこ)以外なにも扱っていない店もあります。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.277-278 より引用)
「文箱以外なにも扱っていない店」というのもなかなかのものですよね。「恐ろしく専門性が高い店」というのは、日本以外でも普遍的に見られるような気もしますが、日本における「店の専門性」はイザベラにとっても相当特殊な例に思えた、ということなんでしょうか。書店
イザベラは、続いて「大型の書店」にやってきました。明治初期の「大型の書店」というのは一体どんなところだったのか、正直なところちょっと想像できないですね……。最も需要の高い本は最小のスペースに最大数の犯罪を盛り込んだもので、全階級のモラルを堕落させています。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.278 より引用)
ふーむ。昭和初期には「エロ・グロ・ナンセンス」という流行語がありましたが、日本人は昔から猟奇的なもの?が好きだった、ということでしょうか。ある本屋の店主から聞いたところでは、大量にある在庫のうち八割は小説で、その多くが雑な挿し絵の入ったもので、残りの二割が「一流の作品」とのこと。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.278 より引用)
残りの二割が「一流の作品」という話、どことなく「パレートの法則」のようで興味深いですね。女性用の書物
章のタイトルからは違うものを想像してしまいそうですが、そうでは無いのでご安心を(何の話だ)。イザベラが「わたしたちの国でいうなら聖書や『天路歴程』に当たる本」として、次のようなものを挙げていました。まとめて文庫と呼ばれる女性用の本があります。ひとつひとつ挙げれば、『女大学』は中国の古典を基にした女性の道徳的な義務について書かれたもの、『女小学』はその入門書、『女重宝記』は服装、調度、客の迎え方、それに日常や行事でのこと細かな決まりに関するもの、『婦人の書簡文例集』、『二十四孝童子』は二四人の模範的な中国の子供の話が書かれたものです。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.278 より引用)
うわわわ。昔の「女性向け」の本はこんなものだったのですね(汗)。そして中国から持ち込まれた思想?が多かったことにも気づかされます。書いてあるのは格言や作法で、一〇〇〇年も昔のことが多く、「わが国の全女性」の道徳観や礼儀作法はそれに基づいているので、女性同士の道徳観と礼儀作法がきわめてよく似ているのは容易に説明のつくことだ、とある人から言われました。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.278 より引用)
これもかなり興味深い指摘ですね。日本人は何かと「画一的」であることを、ともすればネタにされることがありますが、昔からの伝統やしきたりと言った「規範」を従順に受け入れる気質が綿々と受け継がれている、とも言えるのかもしれません。きめ細かな家庭でのしつけ
日本人は何かにつけ「規範」を求める……なんて話もありますが、このような女子必読の「ハウツー本」について、イザベラは意外と好意的に捉えていたようです。多くの点で、このように既婚婦人の家での義務や起こりうるすべての状況について、女の子がどう振る舞うかで困らなくてすむようきめ細かく教え込むのは、わたしたちの国では多くの娘たちがそうであるように、事前になにも教えられないまま、対処方法のわからない状況に陥り、つらい目に遭って人生の教訓を得るという行き当たりばったりな方法よりはるかに賢明です。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.278-279 より引用)
成熟した社会と、そうでは無い社会においては、「規範」の持つ重要性が異なるのだろうな、ということが想像できます。限りある資源を大勢で共有しながら暮らす必要のある社会なのであれば、求められる「マナー」は微に入り細に入ったものである必要が出てきますから、そういった「マナー」を明示的に定義する「規範」はより重要になると思われます。一方で、個性や多様性を許容できる社会なのであれば、「規範」はマイノリティを抑圧する方向に作用するとも言えます。何人たりとも等しく尊重されるべき、という考え方においては、「規範」の押し付けは「前近代的」とも言えるのかもしれません。要するに、イザベラが「昔の人」であることも忘れてはいけないよ、ということですね。
そして、イザベラは「日本女性の必読ベストセラー」として、もう一冊を挙げていました。
ほかにも繰り返し読まれて日本のどの家でも女性たちが中身を覚えてしまっている本がもう一冊あります。それは一〇〇人の詩人が詠んだ一〇〇篇の詩を集めたもので、模範的な女性の人生、夫と妻の契りを完璧なものにするための決まり、そのような契りの例、その他娘、妻、母にふさわしい有益な知識や飾りだけの知識がその内容となっています。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳「イザベラ・バードの日本紀行 上」講談社 p.279 より引用)
これは……(笑)。皆さんもよーくご存知の「小倉百人一首」のことですよね!www.bojan.net
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